肝付兼続 単語

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「肝付兼続」きもつき・かねつぐ 1511 ~ 1566)とは、チート一族島津の隣に位置する大隅戦国大名と言う無理ゲー難易度の中で、時に島津と誼を結び、時に対抗して肝付家最大の版図(十二万石ほど)を築いた大隅英雄
本姓は伴氏、輩行名は三郎、受領名は河内守、入名は日省釣。

まず最初に彼の名誉のため、世間で流布している間違いを摘しておきたい。
晩年に居を攻められて自害した事実はない。
そもそも居を攻められたことはなく、死因は病である。詳しくは後述する。

声優肝付兼太は本名を肝付兼正といい、肝付本家から独立して島津家老を務めた加治木肝付氏の子孫。

概要

肝付氏島津氏の発祥より古く、応天門の変で失脚した伴大納言善男の子孫が平安時代中期に薩摩へ下向してのち大隅地方に勢った一族。

肝付兼続は肝付氏15代当肝付の嫡男として生まれ、の死により勃発した叔父肝付(兼執)との督争いに勝利して肝付氏16代当となった。兼続は薩摩チート一族・島津と協調の姿勢を採り、島津忠良・御南(阿南)を妻に娶り、忠良の子・久には自身のを娶らせて良好な関係を図った。

信長の野望では薩摩一色で統一している島津だが、当時は守護職とその与党の地位を巡って一族で大いに争乱しており、たる勢だけでも島津名字ではチート一族の作家を始め、、豊州など。別姓庶流でも、北郷伊集院、新納などが互いに離合集散を繰り返して合戦に明け暮れていた。

対して肝付家督争いを制して中を全に握した兼続のもと、作家と同調した拡政策が行われ、作家と敵対する大隅の諸氏を次々と駆逐して勢を拡大していった。
忠良・子の援軍にも何度か赴き、四兄弟のうち義久・義・歳久の初陣である岩攻めにも援軍として参している。

しかし・・・

作家から島津本家となった久との間に良好な関係を続けていた兼続だったが、日向の豊州島津と争った事で状況が一変する。
島津は北郷からの養子であり、なおかつ両作家の支持者だったのだ。
もちろん兼続は知っていたが、領土紛争がすなわち全面戦争を意味するものではなく、また久との姻戚関係に信を置いてやり過ぎたのかもしれない。久の視点から見ると本家を継いで島津氏の統合が見えてきた頃であり、同時に肝付氏の勢拡大に危機感を持ったのだろう。
(兼続より以前の肝付家島津本家の意向に従わないこともあり、島津氏11代当島津忠昌肝付家高山攻めを二度までも敢行したが、落とせないばかりか援軍を得た肝付軍に敗北を喫し、内紛も続いたため終生肝付家側が優勢であった。)

島津は南の肝付家と盟約を結んだ北の伊東からも同時に侵攻を受けており、久の次子・義を養子として豊州を継がせる代わりに本家支援を取り付けていた。

そして・・・

1561年、表面上はまだ友好関係にあった肝付島津鹿児島正月の宴を催した。事件はここで起こった。


島津臣・伊集院忠純(忠朗の子)は、以前雑談の場で兼続から系の古さ自慢で嘲笑されたことを恨みに思っており、この宴席の日に忠純の臣たちが肝付家の紋幕に描かれたの首を一つ一つ切り裂いたのである。この事態を聞いた兼続は然とした。

「これは忠純の仕業であろう。このような不覚をかいた以上は鹿児島への出仕もこれまでである。先年、岩攻めに参してに忠義を尽くしたことも今は虚しいものになり、に敵対するのも念である。だが忠純の所業はこれに代えがたいことだ。」『明赫記』より

と言って辞去してしまった。


の羹の話は?
『明赫記』にもう一説書かれているのがそれだ。


宴席のも乗った頃、伊集院忠朗肝付家臣・丸(兼将か?)を呼んで戯れに言った。

伊集院「兼続殿味をえて殿をもてなされているが、肝付家として足りないものがあるだろう。なぜ一羽の羹を出さないのか?」

丸「そなたが再び肝付家に来る時は一匹を兼続殿に返礼してくれ。」
島津氏初代忠久が狐火のもとで生まれた伝説から島津氏は稲荷を信仰している。

と嘲笑って答えた。忠朗は顔色を変えて怒り、遂に紋幕のの首を断ち切ってしまった。これを見た兼続は一族臣たちを呼んで言った。

「皆いかに思うか。昔日、が先祖の伴兼行は村上天皇の勅命に応じて舞の紋を賜り累代の幕紋となったわけだが、このの頭が断たれたのは全に名の傷であろう。すなわちこの兼続の首を断たれたことに他ならない。」

と嘆いた。肝付家一同は、

「仰せもっともである。何の面があって久様へ見えようか。これよりら一行は鹿児島への参礼を止めて、殿へ恨みの一矢を射て勝負の運を分かつべきである。」

と言ったので兼続は急いで肝付へ帰った。


これがいわゆるの羹事件のあらましである。
これらは島津氏の史料に書かれたものであるが、それでも島津側の方が始末に悪い振る舞いをしているように見えるのは私だけだろうか?
肝付家と戦端を開きたい島津による挑発だったという話もある。


が決裂してのち隠居していた島津忠良は、自ら肝付家高山を訪れ80日ほど逗留して融和を説いたが兼続が聞き入れることはなかった。御南(阿南)の離縁の話も取り沙汰されたが、御南(阿南)本人が拒絶したため忠良はに和歌を一首残して加世田の隠居所へ帰った。


 もるよとも 知らでたのまば このもとに ねはさぞや つゆよしぐれよ


忠良のいい人そうなエピソードに思えるが、実は一部似たような出来事が島津伊東外交でも行われているのだ。


忠良から伊東義祐のもとへ和の使者が送られた。
「義殿も隠居されたとのこと。私も隠居の身であるのでこの際和はいかがか」

伊東が和に応じて使者を送ったのだが、忠良は会おうとせず伊集院忠朗(!)に応対させた。
「義殿は兵の損耗も気にせず戦を望まれるようですね。らは違います島津では一人が死ねば万人が憂うので戦は望まないのです。」

伊東の使者は挑発?には乗らず坊の一乗院で逗留することになったが、そこで僧侶にこう打ちされた。
「忠良殿が何を仰ったか存じないが島津は武略でを治めます。義殿ゆめゆめ油断なさらぬようにとお伝え下さい。」


のちに両木崎原の戦い(覚頭合戦)で雌雄を決するが、島津義弘の居加久の兵が異様なほど少なく伊東を誘い出そうとしていたことなどもあり、島津は武勇一辺倒のイメージが強いが恐ろしい謀略の使い手でもあった。謀略も釣り野伏せタイプである。


高山に戻った兼続は辱を果たす一戦を起こすため、島津方のを攻め落とした。落の知らせを受けて忠良・子は二万を号す軍勢を率いてを見下ろす竹原山に取った。対する兼続率いる肝付軍六千はを中心に展開した。(四兄弟も参しており、四久の初陣でもあった。)

両軍共に兵を仕掛けて各所で戦闘があったが辱に燃える肝付軍は強勢で、島津竹原山に攻勢をかけだしたため、竹原山の向かい、背後の立塁にする久の島津忠将は本を救援するため肝付軍の背後へ攻め上がろうとするが、その途上には兼続が兵を仕掛けており、忠将は敵中に孤立して肝付勢に討たれてしまった。当初は肝付軍優勢であったが両軍共に戦局が着してしまい、和議を結ぶこととなった。結果、両軍は払いをしてには肝付家番を置くこととなった。

兼続にとって辱戦ではあったが忠将の討ち死には想定外だったようで、義の死にはを流して嘆いたと言われる。
ただ凱旋の折に出会った行者には、肝付兼続という者が辱を果たしたというのを土産話にしてほしいなどと自慢していたりもする。


この戦い以降両は矛を収めた。
肝付軍の思いの外の強さに島津は兼続が病するまで肝付家と直接対峙することはなくなり、北郷、豊州支援して間接的に対抗し、薩摩北部から日向飯野方面へ侵攻していくこととなる。

一方肝付家は北郷に大勝して庄内平野まで伸長、伊東と共に豊州を侵食し、志布志を落として居高山から移している。遂には全に駆逐して日向南郷まで進出し、日向灘を拝むまでになる。

を拡大させ続ける兼続だが病には勝てなかった。1566年、志布志下にてする。享年五十六


信長の野望だけでなくWikipediaなどにも島津軍に高山を攻められ自害大々的に書かれているが反論していこう。

まず島津の史料には高山を攻めた記録がない。兼続の死は「卒す」としか書かれていない。攻め落とした後の仕置の史料が存在しない。このとき落したのであれば再び肝付家に奪回されたことになるが、もちろんそんなことを書いた史料はない。
高山を攻めるには陸路と路があるが、陸路の場合途上のを落とした記録もなく、最前線ですら1574年に肝付兼亮が降した際にやっと返上されたと書かれている。路の場合、制権は地知、寝含めて肝付方が握っており、1572年に軍を撃破されるまでは肝付軍が一方的鹿児島まで攻め込んでいる。
むしろ本拠を襲われているのは肝付ではなく島津である。

では高山兼続自害の出典は何か?
管見の限り『良旧領擾乱記』と『肝付伝記』なる書物のようで、この説は郷土誌にまで採用されてしまっている。
肝付伝記』の著作年は不明であるがタイトル薩摩史料より新しい年代っぽく思える。『良旧領擾乱記』は大正時代という。どちらも小説かなにかではないのか?


さて・・・、ここまで読めば肝付兼続再評価待ったなしだよね!?
督を継ぐ時から戦に勝ち続け、チートチートと呼ばれる一族、島津日新斎久、忠将、尚久子に義久、義、歳久、久四兄弟全員って三倍以上の大軍率いても勝てなかったつよつよ武将が肝付兼続です!
さぁ信長の野望値編集をするんだ!!

その他「肝付兼続」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。exit 

関連動画

▼肝付兼続が役の「肝付の野望」

肝付家として秋月律子軍の侵攻に対抗し敗れた「律子の野望」

▼やっぱり島津の前に臣従せざるをえなかった「伊織烈風伝」

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける肝付兼続の力一覧。武面では割と頑っている。

軍事 内政
群雄伝(S1) 戦闘 政治 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 政治 野望 教養
覇王 采配 75 戦闘 74 智謀 42 政治 55 野望 57
戦才 148(B) 智才 86(B) 政才 110(B) 69 野望 65
将星 戦闘 76 智謀 53 政治 54
烈風 采配 69 戦闘 65 智謀 42 政治 48
世記 采配 71 智謀 30 政治 43 野望 84
統率 71 知略 33 政治 41
下創世 統率 69 知略 34 政治 39 教養 46
革新 統率 77 武勇 73 知略 38 政治 44
統率 77 武勇 73 知略 38 政治 54
創造 統率 74 武勇 69 知略 47 政治 54

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