肝付(きもつき)あるいは肝属、古くは肝坏とは、日本の地名、苗字である。
鹿児島県の肝属郡、及び同郡内の肝付町がある。
和銅六年(713年)に日向国より分割され、大隅国が設置されると同時に姶羅郡、大隅郡、囎唹郡の3郡と共に肝坏郡(きもつきのこおり)として成立した。
「きもつき」の語源は「鴨着き(かもつき)」という説があるが定かではない。
大隅国肝属郡発祥の肝付氏の本姓は伴氏/大伴氏である。
現在も鹿児島県には肝付姓が多く分布している。県北部に多い。
平安時代中期に伴兼行が薩摩掾に補任され、薩摩国鹿児島郡神食村(現鹿児島県鹿児島市伊敷)に下向した。また、兼行は伴氏家伝の野太刀術も伝えたという。これは後に薬丸自顕流へと繋がる。詳しくは当該記事へ。
兼行は応天門の変で流刑となった伴大納言こと伴善男より善男→中庸→仲兼→兼遠→兼行と続く玄孫とされる。
また、天智天皇→大友皇子(弘文天皇)→余那足が伴姓を賜り臣籍降下した末裔とする説や、葦北国造の伴部の一族とする説もあるが、これでは薬丸自顕流の記事で詳述している伴氏家伝の野太刀術がどこから来たのか分からなくなるように思われる。
兼行の曾孫・兼貞が大隅国肝属郡の弁済使となり、のちに日本最大の荘園となる島津荘(現宮崎県中南部から鹿児島県)の開発領主であった太宰大監・平季基の娘(あるいは季基の孫娘)を娶り、その荘官の位を嗣いだ。
兼貞の子・兼俊が高山に居を移し、ここに初めて肝付を称した。兼俊の弟たちはそれぞれ萩原、安楽、和泉、梅北の諸氏に分かれた。更に兼俊の子たちも北原氏、検見崎氏の祖となった。
戦国時代には島津氏と争った。日向伊東氏と手を結び善戦するものの、結局は島津氏に従わざるを得なかった。江戸時代は薩摩藩士となる。
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最終更新:2025/04/16(水) 07:00
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