舜天(1166~1237)とは、琉球王国で17世紀に編纂された正史『中山世鑑』において王国の初代国王とされている伝説的な人物である。
舜天は、琉球王国で17世紀に編纂された歴史書『中山世鑑』において琉球王国の初代国王とされる人物で、12世紀末~13世紀前半にかけて琉球王国を統治していたとされている。
ただし舜天および舜天の王統は同時代の史料には登場せず、実在を証明できるような史料は見つかってはいない。また、その事績にも13世紀には存在していない14~15世紀以降の概念や出来事を前提としたものが登場するなど、基本的には後世に形成された伝説上の人物と考えられている。
舜天または舜天の王統に関する伝説は15世紀までの記録には登場しないものの16世紀中頃には既に確認することができるため、伝説が形成されたのは16世紀前半頃ではないかと考えられる。
『中山世鑑』では、舜天は源為朝の子どもと伝えられている。源為朝が保元の乱で伊豆に流されたあと、嵐に遭い、沖縄本島の運天港(今帰仁村)に流れ着いた。その後為朝は南に下り、大里按司(按司は天皇の宮家に相当する琉球の称号・位階の一つ)の世話になる。そこで按司の妹と一緒になり、生まれたのが尊敦(後の舜天王)であったとされている。
成長した尊敦は、賢く力も強かったので、15歳で浦添按司に推される。その頃、天孫氏という25世17802年も続いていた王朝が衰えて、臣下の利勇により滅ぼされた。その後利勇が専横を極め国中が乱れていたため、「徳を以て善政を行ない人望を集めていた」尊敦が周囲から推されて連合軍を率い、利勇を倒す事に成功する。こうした経緯を経て「琉球国中山王」に推戴された舜天王は善政を敷いたと言われる。その後、舜天王統が三代73年続いたとされる。
欹髻と呼ばれる、いわゆるまげを結わえた最初の人物とされる。舜天の頭の右上には大きなコブがあり、それを隠すために髷を結っていた。舜天が王になるとそれを真似る人が跡を絶たなかった。それがかたかしらの始まりとされる。
『中山世鑑』では、舜天は源為朝の子どもとされている。
この為朝伝説はもとは日本において語られていた伝説で、16世紀中頃にはまだ琉球には伝わっていなかったようである。しかし17世紀初頭に琉球王国に滞在した陸奥国出身の僧・袋中良定が記した『琉球神道記』には為朝伝説が登場するため、遅くとも17世紀の初めまでには琉球にも伝説が伝わっていたようである。
為朝伝説が『中山世鑑』に採用されたきっかけは1609年島津氏による琉球侵攻と言われている。これにより幕藩体制に組み込まれた琉球は、島津氏に従属する理由を自らのうちに体系化しなければならなかった。そこでいわゆる日琉同祖論に利用されたのが為朝伝説であったとされる。島津氏や徳川家康政権も自らを源氏の末裔と称していたため、為朝伝説は都合が良かったのである。19世紀に滝沢馬琴が『椿説弓張月』の中で為朝の琉球落ちを著すと広く知られることになる。
琉球王国によって勅撰された歌謡集「おもろさうし」の歌が、為朝伝説と関連付けられることがある。
勢理客ののろの
あけしののろの
雨くれ 降ろちへ
鎧 濡らちへ
運天 着けて
小港 着けて
雨くれ 降ろちへ
鎧 濡らちへ
大和の軍
山城のいくさ
勢理客=国頭郡今帰仁村勢理客。 のろ=琉球諸島の女性神役。方言ではヌルと発音する。 あけしの=神女名。勢理客の神女。 雨くれ=雨。夕立。 降ろちへ=降らして。 濡らちへ=濡らして。雨を降らせ鎧を濡らすことによって戦闘意欲を喪失させることができると信じられていたらしい。 運天=地名。国頭郡今帰仁村運天。 小港=運天港の別名。 嘉津宇嶽=獄名。国頭郡本部半島。 大和の軍・山城の軍=大和から押し寄せてきた軍勢。
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1 ななしのよっしん
2021/05/08(土) 00:25:52 ID: e6LdfJCkw7
本文にある通り琉球神統記は島津家の進出より前に書かれたもの
会津(福島県)出身の袋中はなんの作為もなく現地にあった伝承を書いたのである
沖縄地方の日本人と本土の日本人が同一民族ということがわかる
2 ななしのよっしん
2023/08/06(日) 11:45:02 ID: oM0IT1StdD
もともと為朝伝説は日本で語られていた伝説で、月舟寿桂の『幻雲文集』(1527年)の頃にはまだ琉球には伝わっていなかったらしい
ってことは為朝伝説が琉球に広がったのは1527年以降で1605年までの間ってことか
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最終更新:2024/04/25(木) 18:00
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