良栄丸遭難事故(りょうえいまるそうなんじこ)とは、1926~1927年にかけて起こった遭難・漂流事故である。
1926年12月5日、神奈川県の三崎漁港を出発したマグロ漁船・良栄丸。しかし12月12日にエンジン部品が破損して自力走行が不可能となってしまう。成す術なくなった船員たちは一縷の希望を託し、西からの風に乗ってアメリカを目指した。
だが、1927年10月31日、シアトル沖で発見された良栄丸には9人の死体が残っているだけだった。無事に残されていた航海日誌に描かれた内容とは?
良栄丸は和歌山に船籍を持ち、無線はなく小型の帆を備える、当時としてはいたって普通の小型漁船であった。船長は三鬼登喜造、機関長は細井伝次郎、友取は桑田藤吉。以下船員として寺田初造、直江常太郎、横田良之助、井澤捨次、松本源之助、辻内良治、三谷寅吉、詰光勇吉、上平由四郎が乗り込み、乗員は合計12名だった。
一行は銚子沖でマグロ漁に従事し、それを終えて三崎に戻ろうとしていた12月12日、エンジンのクランクシャフトが折れてしまい航行不能に陥ってしまった。さらに7日ごろから吹いていた西からの季節風により良栄丸はぐんぐん押し流され、15日に季節風が収まったころには銚子沖1600キロの位置にまで流されていた。
ひとまず、船に積んだ食料や魚で4か月は食いつなげると判断した一行は漂流を始めた。12月20日、三鬼船長がアメリカへの漂流を提案する。最終的に26日に全員合意し、はるか太平洋のかなたを風任せに目指すこととなった。
しかしこの選択は、のちにこの事故を研究した気象学者いわく「漁船で米国にたどり着くのはコロンブスのアメリカ発見より困難」と評されるほどの無理難題だった。そうこうしているうちに3月5日、ついに食料が切れる。以降は海鳥を捕まえたり、釣った魚を食べたりしたが、極端な栄養の偏りで船員たちは次々と脚気に陥っていった。3月6日、板に12人の連名で遺言を書き、髪の毛と爪を各自封筒に入れた。
右十二名大正十五年十二月五日神奈川三崎出発営業中 機関クランク部破レ 食料白米壱石六斗ニテ今日迄命ヲ保チ汽船出合ズ何ノ勇気モ無クココニ死ヲ決ス
また船長はこれとは別に妻子に対して遺書を残しており、遺された息子には絶対に漁師になってはいけないと言い聞かせており、無念さがうかがえる。
そして3月9日、最初の犠牲者となった細井機関長が死亡。初めは死者は水葬にふしていたが、次第に脚気のため身動きがとれなくなっていくと、遺体も船内に置きざらしになった。途中で航海日誌を書いていた井澤が死亡し、以降は松本が筆を執った。
最終的に船長と松本が最後の生き残りとなり、日誌は5月11日をもって終わっている。おそらく数日以内に両者とも亡くなったものと推測される。それから約半年後の10月31日、シアトル沖で貨物船により良栄丸が発見された。船内にはミイラ化した遺体が2体あり、三鬼船長と松本と推測されている。2人はアメリカで荼毘に付され、遺骨・遺品などはすべて日本へと返還された。良栄丸は遺族の希望で、現地にて焼却処分された。
午前0時三崎港より8航海の出航(略)11日も地方寄るべきはずで30時間船を走らせたが山見えず早潮に乗った。
午前ごろ突然機械クランク部が折れちょっと思案に暮れた。仕方なく帆を上げたが折悪く西の風にて自由ならず、船を流すことにした。(略)先食物は大切にという事になった
朝飯を食事中、北方面より紀州船によく似た20トンくらいの船を見つけ、早速大漁旗をあげたが、見えなかったのかそのまま過ぎ去った。
食物 米4俵 一石6斗、醤油3升、酢4合、大根4本、ごぼう6本、芋500匁、みそ1貫目、茶1斤、カンピヨ100目、メカ魚200貫、サメ魚20本、イカ300枚。これみな干物にて丸4か月は大丈夫、また食い延ばすという船長の意見にみな決心した。
午後7時南方向より東洋汽船会社の船が進行してきた。これは神の引き合わせと大漁旗2本持ち出し火を持ち出しと大騒ぎするうちに汽船は行き去った。(略)午前10時、南東より紀州船をみつけ、いろいろ信号を出すも、30分後には見えなくなった。
西風毎日強い故、思い切ってアメリカへ乗り出すという太いことを船長が相談してきたが(意見が)落ち着かず。(略)責任のない人はどうでもいいが、嫁子供のある人は実にお気の毒である。国許の方でも大騒ぎである。何にしても約束であると諦めている。
親の罰が子に来る、昔々古人の伝、この12名は誠に因縁の悪いものである。万一助かればそれこそ今度は皆大難を通り越し運勢朝の昇るごとし、サヨナラ。
どう考えても西へ船を出すことが出来ず、東へ行ったらアメリカまで4か月、しかしここで船を待つのも男らしくない、また船に出会うのも遅い。
午前、アメリカへ乗り出すことに決定し錨を上げる。
流れた、28日午前6時東へ向けて追い風ますます強く、夜に入ってもなおも追い風となる。この調子で10日も吹けばどこかの島へつくこと必定なり。また鰹10本も釣る。これ皆鰹節にしておく。大喜び、米なくとも大丈夫。
沖の大海へ出たら波も風もない、これはもう外国と日本の間まで流れた、なんて色々なことを言っているうち南風少し吹き出したのである。なにぶん先に立つ人も方針の取りようがないので頭を痛めている。万一助け船に出会う事かと口で言わねど心のうち。もうこの後は悪い事はいたしません、また無理も申しませんと金毘羅様にお願いして、これもきこえぬお札なら、いっそ海へぽーんと、いやいや思うまい思うまい。みんな私が心から、世の戒めに神様が御遊ばすことだと諦めて下さんせ、アー、コリャコリャ。
(※実際には前年12月26日より昭和に改元されているが、ずっと海の上にいる一行が知る術はなかった)
6時元日のこととて赤飯にコーヤの菜でおめでたい御祝いを済まし、色々思い思いに話して夜に入った。
午前6時より走り出し、午後2時になり流した。雨水を取り、風は石、どうしても方向の計が見当がつきかね、何と考えても致し方ない。時節を待つことにして5日流した。
(※このあたりから走った、流れた程度の記述の日が激増する)
外国船に出会い焼火で信号せしところ、見えざりしため行き去った。
27日西風が吹くわ吹くわ、船長始め皆自ら覚えて初めてであるとて夜も十分に眠り良。
旧正月にてめでたい御祝、晴天にして風なく、ただ汽船を待つのみ。
朝6時魚釣り上げ、午前11時5貫、6貫の魚3尾釣り上げめでたく笑う。その皆の騒ぎ、実に何に例えることも出来なかった。
謹賀新年、神戸市再度筋38の2、岩本寅次郎様、良榮丸にて井澤捨次。
(※おそらく食料が切れたことで死を覚悟して記したものと思われる)
(※食料が尽きたと考えられる。翌3月6日、板に遺書を連名で記す)
細井傳次郎、病気のため死亡す。直江常太郎も3月7日ごろより床を離れず、我らも身動きできぬ。大鳥一羽釣り上げ。
井澤捨次死亡す。
オットセイが船の側に浮き上りしゆえ、皆再びあまり沖でないとの意見である。辻内7日前より病気。
桑田藤吉午前9時死亡、三谷寅吉夜間死亡す。サメ一本釣り上げる。
(※この時点で残されたのは三鬼船長と松本源之助のふたりになる)
波静か風少し、帆悪しきため帆の手入れする。船流す。淋しく汽船待つのみ、大鳥の馳走す。
北北西の風晴れ、帆の修理できる。小生初めて生まれて船の帆柱に登り、死に物狂いにてヅロード・ブロツクを直す。サメ釣上ぐ。
薪こしらえる。嵐になる。140日も船世帯ゆえ我ら二人も活気なく、ただ時の来るのを待つのみ。
小生も病気ゆえ一人にて舵取り苦しいが生命にはかえられぬため次第当直す。
船長大病となる。
我もかねての脚気病のため正午より食事もとれぬくらいになる。小便にもゆけぬ。
曇、北西風、風やや弱く波高し、帆巻き上げたまま船流す。南南西に船はドンドン走っていく。船長の小言に毎日泣いている。病気。
(※これ以降の日誌は書かれていない……)
… ネットに出回っているコピペを見たいならこちらへ。
… 原文にきわめて近い日誌を見たいならこちらへ。掲示板
1 ななしのよっしん
2025/06/30(月) 18:21:34 ID: hoTyRUgp5g
結構他の船に会ってたんだな。
それなら助かる可能性もそこそこあったろうに可哀想。
2 ななしのよっしん
2025/08/10(日) 09:17:01 ID: GQaRh4pvDE
たとえ他の船を見かけることが出来ても、相手側が「あの船何かおかしいな?」って気づいてくれるかどうかもあるだろうから怖いねぇ…
3 ななしのよっしん
2025/08/10(日) 09:32:03 ID: g/CouUR3nY
人間追い詰められると何でもするんだな…
アメリカの貨物船の船長も近寄ったけど船員たちが何も反応しなかったから馬鹿馬鹿しくなったって言ってたらしいし恐ろしい
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最終更新:2025/12/10(水) 01:00
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