芹沢博文(せりざわひろぶみ)とは、プロ棋士・タレント・文筆家・破落戸(ならずもの)である。棋士番号68
九段。静岡県沼津市出身。芸能活動もしていたため、お茶の間の知名度も高く、また棋士としての人気は高かった。
小学校4年のときに将棋を覚え、その2年後には時の木村義雄十四世名人を相手に二枚落ちで快勝したことで神童と騒がれるようになる。14歳で高柳敏夫門下に入門し、19歳でプロ入りする。
その後は20代でA級に昇級するも、2年で陥落。30代以後、自分は名人になれない存在だと知る挫折を味わう。若い頃から目をかけて指導していた中原誠、米長邦雄という2人の後輩が自分を抜き置き去りにしていったという事実が何より大きかった。そこで将棋以外に手を出し、タレントや文筆家としても売り出すようになった(芸能界での愛称は皮肉にも「芹沢名人」というもので、それを芹沢自身拒まなかった)。また、それに比例し毎日のように酒を浴びるように飲むようになり、それが祟って51歳で肝不全にて死去。
競輪を好み、億近い借金を作ることもあった(芸能活動に精を出し借金は完済)。ほかにアマ五段の実力といわれていた囲碁、プロ棋士で最も強いといわれていた麻雀など趣味は非常に多く、昼夜遊びに明け暮れた遊びの天才でもあった。だが、遊び人の割に色事にはあまり手を出さず、むしろ女流棋士、蛸島彰子の襟を正したりする立場だったらしい。
また、今や全国で開かれている「将棋まつり」を始めたのも芹沢が最初といわれている。これも、放蕩な人格ながら人脈は広く、天才的な遊びのセンスと宣伝、企画力を発揮した芹沢ならではの偉業であり、第1回「将棋の日」のイベントには平日開催にもかかわらず会場の蔵前国技館にファンが8000人詰めかける盛況を博した(もっともその企画は「金に糸目をつけない」もので、開催後に将棋連盟に届いた請求書の束とその記載額に仕切りを芹沢に任せきりだった理事会は震え上がったとか)。
逆に真面目な人間、美的センスの感じられない将棋を嫌う傾向があった。日夜研究に明け暮れていた有吉道夫九段を「遊びを知らない、つまらん奴」と批判していたほか、若かりし羽生善治に対しても「受験勉強みたいで面白くない」と好んでいなかった。また将棋の強さは認めつつもどんな将棋も強さでなんとかしてしまうことを「将棋の筋にこだわらない」と評価しなかった。逆に「棋理が明るい奴」として西の天才といわれた、阿部隆を好んでいた。もちろん谷川浩司に関しては大好きで低段の頃から私設応援団長を自称し将来の大名人として高く評価していた。また、大山康晴も嫌っていたようで、たびたび観戦記で腐す記述をし、連盟会長をしていた大山本人から「この記事を書いたのは誰だあっ!!芹沢を呼べッ!!」と親しい観戦記者を通して怒りの呼び出しを食らったことがあるという(もっとも大山は将棋界の宣伝部長としての芹沢の能力自体は評価していたため、芹沢を潰すようなことは最期までしなかった)。
芹沢はタレントとしても活動を続け、テレビ番組の司会者、バラエティ番組のパネラーなどに出演、CMにも出演するなど、精力的に芸能活動をこなし、徐々にお茶の間に名を売っていく。また、その傍ら文筆家として観戦記を多く記すようになった。ペンネームは鴨であり、これは敬愛する方丈記の作者「鴨長明」にちなみ、自らを芹鴨と呼んでいた。
だが、その一方で頑固一徹、妥協を許さない一面がありそれが原因でディレクターやスタッフと衝突を繰り返し、次第にテレビ番組制作側や代理店から「使いづらい人材」として敬遠されていくようになる。その中で起こった1982年の「対局全敗宣言」という、将棋界史上最大の問題発言(当時指摘されていた某業界になぞらえ、将棋界でも八百長が恰も蔓延していると仄めかすものであったため)を起こし、それがきっかけで仲の良かった作家、山口瞳は将棋界に失望し絶縁、棋士の中からも賛否両論の侃々諤々状態となった(その背景には当時、C級2組から陥落する者はいなく、ぬるま湯状態であったことから。芹沢はそんな安穏な環境で金だけもらうのはおかしいだろう、という思いが内心にあった。これは自身が将棋だけではこの先食っていけないから、色々と活動を続け、苦労して金を工面してきた本心が吐露されたものである)。なお、C級2組からの降格は彼の発言から4年後に再実現するようになる。
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最終更新:2024/04/19(金) 16:00
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