荒木大輔 単語

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荒木大輔あらき だいすけ1964年5月6日-)とは、東京都出身の元プロ野球選手投手)である。現在北海道日本ハムファイターズコーチ

概要

高校時代に5季連続で甲子園出場を果たす活躍を見せ、イケメン青年という属性も相まって大ちゃんフィーバーと呼ばれる社会を巻き起こした伝説高校球児。プロ入り後も変わらぬ人気を集めたが、プロの壁と度重なる故障に苦しめられ、プロ野球選手としては中堅レベルの域を脱せないまま終わった。

引退後は解説者を経て投手コーチとして現場に復帰。2008年から2013年まで古巣の東京ヤクルトスワローズの一軍投手コーチを務めた。生え抜き人気選手ということもあって将来の監督補とされており、一時は2011年シーズンから監督を務めるとの予想が有視されていたが、2010年途中から揮を執って優秀な成績を収めた小川淳司監督代行が昇格する運びとなったため、監督就任はお流れ。2013年には投手の低迷からチームが最下位に転落し最下位低迷の責任を執りコーチを辞任した。

野球解説者を務めた後、2018年からは北海道日本ハムファイターズ二軍監督を務める。

経歴

鮮烈な甲子園デビュー

1964年5月6日東京都調布市にて生まれる。リトルリーグ時代から投手として活躍しており、6年生の時には世界大会でノーヒットノーランを達成するなど既に頭を現していた。1980年4月高校野球の名門・早稲田実業に進学する。

入学当初は控え野手扱いだったが、同年地方大会・準々決勝を前にエースが故障するというアクシデントが発生。急遽マウンドを引き継いだ荒木は残り3試合を4失点に抑える好投を見せ、チーム甲子園に導いた。

そして迎えた甲子園本大会、荒木は全高校野球ファンの度肝を抜く活躍を見せる。

勝敗 対戦校 投球回 被安打 与四球 奪三振 失点 備考
1回戦 北陽(大阪府 9.0 1 4 4 0 完封勝利
2回戦 宇治京都府 8.1 3 1 4 0 大量リードで控えに出番を譲る
3回戦 札幌商(南北海道 9.0 4 1 10 0 完封勝利
準々決勝 南(沖縄県 9.0 3 1 9 0 完封勝利
準決勝 瀬田工(滋賀県 9.0 7 2 6 0 完封勝利
決勝 横浜神奈川県 3.0 7 3 1 3

1回戦から準決勝までの5試合を4完封・44.1回連続失点と、全猛者を寄せ付けない完璧ピッチングであった。決勝戦では愛甲猛を擁する優勝補・横浜高校に初回から打ち込まれて敗戦、大会記録である45回連続失点にもわずか1/3イニング届かずに終わったものの、1年生とは思えないその活躍ぶりによって一躍高校野球界の期待のされるようになったのである。

「大ちゃんフィーバー」

しかも荒木超高校級球児というだけではなく、イケメン青年でもあった。もはや野球漫画主人公並みである…。かくしてその人気高校野球界を社会の域に突入していくことになる。後に早実後輩に当たる斎藤佑樹が「ハンカチ王子」と呼ばれ人気を博したが、荒木人気はこれに勝るとも劣らないものだった。

このような状態が高校在学中ずっと続き、荒木の心労は大変なものになった。あまりの注のされ方にチームメイト達も嫉妬や羨望の念はあまり感じず、むしろ可哀想に思うくらいだったという。

その後荒木早実不動のエースとして2年・2年・3年・3年と連続で甲子園に出場、高校在学中に出場できる全ての甲子園大会でマウンドを踏むという偉業を達成する。早実は毎回優勝補の一され、試合の度に早実スタンド女性ファンの大群に埋め尽くされた。

しかし荒木優勝旗を手にすることは遂になく、それどころか準優勝した1年高校時代のキャリアハイという結果になってしまった。格下相手には圧倒的な成績を残したものの、クジ運が悪く、い段階で優勝校に当てられたこともあり(2年3回戦で報徳学園に、3年は準々決勝で池田に敗れた)、ベスト8から先に進めなかったのである。

荒木甲子園で残した成績は、17試合(141回)12勝5敗・防御率1.72優勝旗には手が届かなかったが、高校級の名に恥じない立な成績ではあった。

ヤクルト入団

当初は早稲田大学への進学を希望プロ拒否を表明していたが、その年のドラフトヤクルトスワローズ読売ジャイアンツがともに1位で強行名。抽選で交渉権を獲得したヤクルトり強く説得し、最終的に荒木ヤクルト入団を決意する。

ちなみに荒木を外した巨人>は、外れ1位として甲子園出場経験のない立校の投手名し入団させた。後に通算180勝を記録し「平成の大エース」と称えられた名選手・斎藤雅樹である。

荒木スター補としての期待を一身に受けた。殺到するファンから身を守るためクラブハウス球場を結ぶ地下道が建設され、会社であるヤクルトCMに起用し、5回失点に抑えた初先発時は残る4イニングをエース尾花髙夫リリーフして初勝利プレゼントするなど、球団の待遇は一流選手並みだった。

その期待に応えて戦となったのは3年1985年からである。この年の後半戦に6勝を挙げ先発ローテーション入りを果たすと、1986年1987年の2シーズンは規定投球回クリアし、1987年には初の10勝をマークした。

だがいずれのシーズン防御率は4点台後半から5点台というもので、エースと呼ぶにはかなり物足りない数字だった。実戦的な投球術と制球プロでも通用するレベルにあったが、球威や球のキレではいささか見劣りする感が否めず、本拠地の狭さもあって手痛い一発を浴びることが多かった。荒木被本塁打率(9イニングあたりの被本塁打数)は通算で1.55とかなり高く、いわゆる花火師であったことが伺える。

故障と復活、そして引退

ともあれプロとして着実に実績を積んでいた荒木だったが、小学生時代から酷使を続けたヒジがついに悲鳴を上げた。1988年シーズン中にヒジ痛で投げられなくなり、3度の手術を余儀なくされる。長いリハビリを経て、1991年シーズンにて復活…するはずが、今度は高校時代から爆弾を抱えていたが悲鳴を上げた。椎間板ヘルニアでまたも手術となり、結局このシーズンも棒に振ってしまったのである。

3シーズン登板なしで迎えた1992年6月イースタン戦で久々にマウンドを踏んだ荒木は、同年9月24日広島東洋カープ戦で1541日ぶりの一軍登板を果たす。この時ヤクルトは残り13試合で首位と2ゲーム差の位置につけていたが、荒木復活試合も含めて4試合に登板、13イニングを1失点に抑える好投で2勝を挙げ、チームの逆転優勝に大きく貢献した。さらに翌年もローテーションの一を守り、規定投球回未満ながら実質初めて防御率3点台をキープして8勝をマーク日本シリーズでも勝利投手となり、リーグ2連覇と日本一に貢献することができた。

だがこれが荒木にとって最後のきとなった。1994年は1勝6敗と散々な成績で先発ローテーションを外されてしまい、翌年に至ってはまたも一軍登板なし。遂に無償トレード横浜ベイスターズ放出された。移籍先でも結果を残せず、1996年シーズン限りで現役引退。32歳という若さユニフォームを脱ぐことになった。

プロでの通算成績は、実働10年・180試合(755.1回)39勝49敗2S・終身防御率4.80斎藤雅樹西崎幸広石井丈裕阿波野秀幸など甲子園での実績がない同級生たち(石井に至っては早実で3年間荒木の控えだった)が、プロ入り後に所属球団のエースとして活躍したこともあり、「物足りない成績だった」「だった」などと言われることも多い。

引退後

現役引退後はしばらく野球解説者として活動していたが、2004年から西武ライオンズの一軍投手コーチに就任。2007年まで同チームコーチを務めた。俺達を量産した責任者と言われることも。

2008年からは古巣ヤクルトで一軍投手コーチを務め、2010年シーズン中に辞任した高田繁監督の後任補とされ、いくつかのスポーツで次期監督就任が確実と報道されたほどだったが、小川淳司監督代行が思いもかけず優秀な成績を残したため、来季の監督就任は見送られることとなり、2013年シーズン投手低迷の責任を執りコーチを辞任。2014年から野球解説者に転身。

2018年からは北海道日本ハムファイターズ二軍監督を務める。2019年からは二軍投手コーチも兼任。2021年からは一軍投手コーチとなる。

通算投手成績

通算:10年 登板 先発 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 180 116 21 3 39 49 2 0 .443 755.1 204 359 423 403 4.80

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