菊水作戦とは、大東亜戦争末期の1945年4月6日から6月22日にかけて行われた大日本帝國陸海軍の大規模な航空特攻作戦の総称で、標的は沖縄を攻囲するアメリカ艦隊。菊水の名は楠木正成の旗印から取られた。
包囲された沖縄を救うため戦争末期に日本陸海軍が行った大規模航空特攻作戦。テレビ等で見かける神風特攻隊の映像は大体この菊水作戦時に撮られたものである。
特攻機を駆った隊員の多くは予備士官(学徒兵)や予科練(少年兵)であり、きっちり兵学校を卒業した軍人は少なかった。出撃には特攻機だけでなく通常の作戦機も投入され、突入を容易なものにするため敵戦闘機と交戦したり飛行場を銃爆撃している。沖縄戦が末期に差し掛かると練習機まで投じられるようになり、特攻隊員は自身の棺桶となる機体すら選べず、鈍足中古の旧式機を割り当てられて憤慨したり落胆する者もいたという。投入された特攻機の内訳は零戦631機、九九式艦爆135機、機上練習機白菊130機、彗星艦爆122機、陸上爆撃機銀河100機、九七式艦攻95機、水上偵察機75機、一式陸攻+桜花54機、天山艦攻39機、九六式艦戦12機の計1393機。このほか陸軍機も参加している。1900機が特攻し、216機が突入に成功している事から命中率は11%である。
アメリカ軍の沖縄侵攻を阻止する事は出来なかったが大出血を強いる事には成功。アメリカ艦艇の全喪失艦の2割が沖縄近海に集中するほどの大損害を与え、心労によりマーク・ミッチャー大将とレイモンド・スプルーアンス大将が指揮官から降り、前線の兵士にも発狂者が出るなど人員面にもダメージを与えている。
アメリカ軍の被害は艦船36隻撃沈(特攻機によるもの26隻)と368隻損傷(大破50隻以上を含む。特攻機によるもの164隻)。撃沈できたのは駆逐艦以下の小型艦艇ばかりだったが、侵攻軍の命綱である給弾艦を撃沈したり、空母バンカーヒルのように終戦を迎えるまで復帰できなかった大型艦もいる。航空機763機(戦闘によるもの458機、事故によるもの305機)。4907名の水兵が死亡し、4824名が負傷した。対する日本側は航空機喪失7830機(戦闘喪失4155機、作戦中喪失2655機、地上撃破1020機)と搭乗員3067名死亡。
大東亜戦争も末期に入った1945年3月25日、沖縄の慶良間諸島にアメリカ軍が上陸。沖縄本島への侵攻が近いと考えた連合艦隊司令部は翌26日に沖縄方面の敵艦船攻撃を企図した天一号作戦を発令。第3及び第10航空艦隊の兵力を九州南部に移動させるとともに、既に展開を終えていた第5航空艦隊が全力で特攻作戦を実施し、3月31日までに戦艦1隻、空母1隻、重巡2隻、軽巡1隻、駆逐艦9隻、敷設艦1隻、輸送艦2隻、LST戦車揚陸艦2隻の計19隻に損傷を与えた。しかしこの攻撃で第5航空艦隊は兵力を消耗し、攻撃を再開するには移動中の第3航空艦隊の到着を待たなければならなくなった。その間の4月1日朝にアメリカ軍約6万名が無傷で沖縄の読谷へ上陸してしまった。
早くも4月3日には小型機の発着が認められ、このままでは特攻作戦が困難になるのは明らかだった。陸海軍は沖縄を守備する第32軍に占領された嘉手納飛行場と読谷飛行場の奪還を要請、第32軍は4月7日を総攻撃の予定日に定めた。この総攻撃に呼応して連合艦隊は海軍航空部隊を、陸軍は第6航空軍の全力を以って攻撃する事とし、4月3日に菊水1号作戦が発令された。鹿屋で作戦の打ち合わせが行われ、午後にKFGB天信電令作第39号で作戦要領が提出される。そして4月4日午前9時18分に総攻撃命令が下された。これに合わせて戦艦大和率いる艦隊が水上特攻を実施している(坊ノ岬沖海戦)。投入兵力は九州の第3、第5、第10航空艦隊と陸軍第6航空軍、台湾の第1航空艦隊と陸軍第8飛行師団であった。
4月6日朝、鹿屋基地から百式司令部偵察機が発進し、三段索敵を行って沖縄の北方85海里に12隻のアメリカ艦艇を発見。続いて午前8時から零戦106機が四波に分かれて南九州の各基地を出撃、沖縄上空の制圧に当たった。午前10時15分から13時40分にかけて攻撃隊が次々に発進してアメリカ艦隊を攻撃。海軍機391機と陸軍機133機が投入され、このうち297機が特攻機だった。今までにない大規模な航空攻撃にアメリカ軍は混乱、傍受した通信からも混乱ぶりが窺えるほどだった。このため日本側は大戦果を挙げたと認識したが、実際は駆逐艦ブッシュ、コルフウン、高速掃海艇エモンズ、給弾艦ローガンビクトリア、ホップスビクトリア、LST-447を撃沈、戦艦ノースカロライナ、軽空母サン・ジャシント、軽巡バーネット、駆逐艦15隻、掃海艇6隻、輸送船5隻、駆潜艇1隻が損傷した程度だった。損害として海軍機178機(うち特攻機162機)、陸軍特攻機50機が未帰還となった。弾薬を満載した給弾艦が2隻まとめて撃沈されたため、上陸したアメリカ軍が一時的に弾薬不足に陥った。
4月7日は海軍機156機が出撃し、うち彗星11機、爆戦30機、銀河12機の計53機が特攻機だった。砲艦PGM-18を撃沈し、空母ハンコック、戦艦メリーランド、駆逐艦ロングショー、護衛駆逐艦ウエスン、掃海特務艇YMS-81を損傷させた。4月8日にも海軍機88機が出撃したが、悪天候により攻撃を断念して引き返している。以降は悪天候が続いて攻撃が出来ず、作戦機の補充さえままならなくなってしまった。4月10日午後になってようやく雨が上がり、翌11日に第5航空艦隊による特攻を開始。爆装零戦30機、彗星9機、銀河17機、天山10機、陸軍重爆16機が特攻し、9隻に損傷を負わせた。
この特攻を以って菊水一号作戦は終了。アメリカ軍は「これらの特攻には熟練した戦法で行われた。フィリピンのレイテ戦の時と比較して、より錬度の高いパイロットを投入している。特攻機は、火災が起きやすいように余分な燃料を搭載していた」と評したが、実際は技量未熟なパイロットが多く占めた。またアメリカ軍は特攻の威力を思い知ったため、空母を高速戦艦、巡洋艦、駆逐艦で警護し、沖縄と日本本土の間にレーダーを装備させた駆逐艦以下の小型艦を配置してビケット艦とした。
4月9日、連合艦隊は敵機動部隊の損害が大きいと判断し、4月11日に追撃を目的とした菊水二号作戦を第3と第5航空艦隊に発令した。4月12日午前3時30分、海軍の彗星と陸軍の重爆が零戦の護衛を受けながら読谷飛行場と嘉手納飛行場を銃爆撃し、第二陣として午前7時に陸軍戦闘機15機が発進。午前11時、午前11時30分、正午に24機ずつ発進して沖縄の米戦闘機を釣り上げた。その隙に第10航空艦隊の艦爆40機、桜花8機、陸軍特攻機70機が出撃し、およそ80機が突入。更に第6航空軍124機(特攻機72機)と第8飛行師団15機が出撃した。しかし戦果は駆逐艦マナート・L・エーブル(桜花による唯一の撃沈戦果)と上陸支援艇LCS-36撃沈のみで、あとは数隻損傷に留まった。
翌日の4月13日も攻撃を企図したが、索敵機が撃墜されるなどして敵情を掴めず、特攻作戦は延期となった。4月14日午前11時30分頃、徳之島東南に敵機動部隊を発見し、零戦125機と爆戦特攻機21機、桜花7機が出撃した。ところが零戦隊が道に迷って引き返してしまったため制空権を確保できず、殆どが撃ち落とされてしまった。この攻撃で戦艦ニューヨーク、駆逐艦シグスビー、ダシール、ハントを損傷させた。この攻撃の最中、アメリカ軍は秘匿していた特攻機の存在を公表した。特攻機の資料として女学生が桜の枝を振っている写真をよく見かけるが、この写真は4月12日に知覧を出撃する第20振武隊の一式戦で菊水二号作戦時に撮られたもの。
4月15日夕刻、菊水三号作戦の前準備として戦闘機隊が嘉手納・読谷の両飛行場を銃撃して駐機中の敵機を破壊し、制空権の確保に努める。翌16日、菊水三号作戦が発動され、第6航空軍と第5航空艦隊が攻撃。戦闘機隊で制空を行った後、五航艦からは415機(特攻機176機)が、第6航空軍からは特攻機50機が出撃した。しかしこの頃になるとアメリカ軍の迎撃体制が整い始め、また日本側も作戦機の不足から鈍足な練習機まで投入。有効な攻撃を行えなくなりつつあった。それでもレーダーピケット艦の駆逐艦ラフェイと空母イントレピットを大破させ、駆逐艦プリングルを撃沈。8隻の艦艇に損傷を負わせた。4月17日、第5航空艦隊は163機(45機特攻機)を投入し、未帰還機19機(うち特攻機16機)の損害を出した。第6航空軍は戦闘機22機を出撃させ、8機を喪失。無理に無理を重ねた航空攻撃により、夕刻には第6航空軍の稼動機が特攻機20機、作戦機24機にまで減少してしまった。4月18日は天候不順のため規模を縮小し、作戦機33機と特攻機4機のみとなった。4月19日の攻撃を以って三号作戦は終了。
あまりの被害の大きさに頭を悩ませたアメリカ軍は、4月21日よりB-29による南九州爆撃を開始。
4月22日、第5航空艦隊と第6航空軍が菊水四号作戦を開始。昼間の攻撃は損害が大きいとして早朝や夜間の攻撃に切り替えられ、今回から水上偵察機も特攻に投じられた。掃海艇スワロー、上陸支援艇LCS-15、弾薬輸送艦カナダ・ビクトリーを撃沈し、駆逐艦4隻と掃海艇2隻に損傷を負わせた。4月23日から天候悪化で出撃できなくなり、出撃機数は4月25日までで84機(うち特攻機2機)のみだった。
4月27日夜、天候が回復したのを機に攻撃再開。第5航空艦隊から201機(うち特攻機70機)が、第6航空軍から36機の特攻機が出撃。呼応して第8飛行師団も翌28日に特攻を行った。4月28日から29日にかけて行われた特攻により、17隻の艦艇が損傷した。このうち1隻が、沖縄本島南方沖を低速退避していた病院船コンフォートで、患者や軍医ら29名が死亡、33名が火傷等の重傷を負った。
第32軍の総攻撃が5月4日に行われる事が決まり、攻撃を支援するため菊水五号作戦を開始。先立って5月2日夜と3日夜に夜間戦闘機が沖縄の敵基地と艦船を攻撃し、第5航空軍の九九式双発軽爆撃機10機と第6航空軍の重爆9機が飛行場を攻撃。日没後に第8飛行師団の特攻機26機が突入した。5月4日未明に陸攻7機、彗星15機、夜間戦闘機3機が伊江島飛行場と嘉手納飛行場を爆撃したのち、戦闘機83機の護衛を受けて第5航空艦隊の特攻機47機が出撃。陸軍も作戦機62機と特攻機33機を出撃させ、第8飛行師団も未明に14機の特攻を行った。駆逐艦モリソン、ルース、リトル、護衛駆逐艦オバーレンダー、LSM-190、LSM-194を撃沈し、軽巡1隻、駆逐艦3隻、掃海艇3隻、輸送船1隻が損傷した。参加した572機中、未帰還は65機だった。
第32軍は損害の大きさから5月5日に総攻撃を中止し、従来の長期持久方針に戻した。経験未熟なパイロットが日本のものより大型な米駆逐艦を巡洋艦以上と誤認したのと、最も危険なレーダーピケットの役割を駆逐艦が担っていた事から駆逐艦に被害が集中。5月5日は台湾から第8飛行師団の特攻機5機が出撃し、沖縄近海で水上機母艦セント・ジョージと測量艦パスファインダーを損傷させ、5月9日の特攻では英空母ヴィクトリアス、フォーミダブル、護衛駆逐艦イングランドを損傷させた。5月10日に駆逐艦ブラウンと敷設駆逐艦ハリー・F・バウアーを損傷させたのを最後に菊水五号作戦は終了した。
菊水五号作戦終結後、第5航空艦隊の航空兵力は尽きてしまった。
5月11日、菊水六号作戦を開始。150機の特攻機が参加し、沖縄近海で米空母バンカーヒルを大破炎上させて終戦まで戦線復帰を許さなかった。他にも駆逐艦エヴァンスとヒュー・W・ハッドリーを損傷させた。5月12日の特攻では戦艦ニューメキシコを損傷させ、連合艦隊司令豊田副武大将によって全軍に布告された。5月13日に米空母エンタープライズ、駆逐艦バッチ、ブライトに損傷を与え、5月20日の特攻で駆逐艦サッチャー、ジョン・C・バトラー、護衛駆逐艦チェース、レジスター、LST-808に損傷を与えた。
5月24日、菊水七号作戦が開始され、白菊隊や第12航空戦隊など165機が参加。攻撃目標は伊江島飛行場であった。沖縄近海で駆逐艦ゲスト、バトラー、護衛駆逐艦オーネイル、ウィリアム・C・コール、掃海艇スペクタクル、輸送駆逐艦シスム、高速輸送艦バリーを損傷させた。翌日の5月25日の特攻では護衛駆逐艦ベイツと中型揚陸艦LSM-135を撃沈し、輸送駆逐艦ロウパーと駆逐艦ストームスを損傷。この日、第405海軍航空隊の銀河12機が沖縄東方の敵艦船に特攻し、駆逐艦キャラハンが撃墜された指揮官機から吉田湊飛曹長と長谷川薫中尉を救助。吉田飛曹長は出血多量で間もなく死亡したが、長谷川中尉は右足骨折の重傷を負っていたものの戦後まで生き残り、数少ない特攻の生還者となった。この救助はキャラハン艦長バーソルフ中佐の独断だったという。翌日、吉田飛曹長の遺体はアメリカ海軍式の水葬を受けた。特攻機を助けたキャラハンは皮肉な事に、7月28日に特攻機の突入を受けて沈没した。5月26日の特攻で駆逐艦アンソニー、ブレイン、フォレスト、駆潜艇PC-1603、測量艦ダットンを損傷させた。
元々特攻は弾薬庫誘爆といった偶然の致命傷でなければ撃沈できず、アメリカ軍の迎撃体制確立に伴って撃沈できる艦は軒並み減少していった。一方、大破で踏みとどまったものの、修理不能と判定されて放棄された艦も少なくない。また5月22日に第32軍が司令部の首里城の放棄を決定した事で、大本営及び陸軍航空軍は沖縄方面作戦に見切りを付け、本土決戦の準備を開始するように。
5月27日より菊水八号作戦を開始。伊江島飛行場とその近隣に展開する敵艦艇を標的とした。年若い特攻隊員が子犬を抱いて笑う写真が残されているが、これは5月27日に万世飛行場から出撃した荒木幸雄少年兵である。海軍機217機、陸軍機71機、海軍特攻機51機が投入され、沖縄近海で駆逐艦キリガン、掃海駆逐艦サウザード、掃海艇ゲーティ、高速輸送艦ロイ、輸送駆逐艦レッドノア、上陸作戦用輸送艦サンドーヴァル、消磁船YDG-10を損傷させた。5月28日の特攻で駆逐艦シュブリックを撃破(被害甚大により後に除籍)し、ドレクスラーを撃沈。
翌29日に高速輸送艦テイタム、掃海艇YMS-81、揚陸艇LST-844に損傷を与えた。
6月2日より菊水九号作戦を開始するも、6月に入ると特攻機の出撃数は更に減少。6月3日の特攻では貨物輸送船アレガンを損傷させた一方、連合艦隊が沖縄の海軍根拠地隊に臼砲の緊急輸送を行っている。6月5日に戦艦ミシシッピ、重巡ルイビル、駆逐艦ダイスン、掃海艇スカフル、給油艦シープスコットを、6月7日に駆逐艦アンソニーを損傷させた。6月9日、第6航空軍は特攻主体の航空作戦から手を引いた。6月10日、駆逐艦ウィリアム・D・ポーターを撃沈。6月13日は名護湾の敵艦船攻撃と沖縄の飛行場攻撃を実施したが、6月15日に第32軍が訣別電が届き、以降第6航空軍は第32軍と連絡が取れなくなった。6月16日、駆逐艦トウィッグスを撃沈。
6月21日、最後となる菊水十号作戦を開始。輸送駆逐艦バリーとLSM-59を撃沈し、水上機母艦カーティスとケネス・ホワイティング、LSM-213を撃破したが、6月22日に第32軍司令部が玉砕したため今後の特攻作戦は取りやめとなった。6月26日、大本営は沖縄の失陥を発表した。
沖縄は失ってしまったが、菊水作戦はアメリカ軍に恐怖を与えた。レイモンド・スプルーアンス大将は回顧録で「特攻機は非常に効果的で、我々としてはこれを軽視する事は出来ない。私は、この作戦地域内にいた事の無い者には、それが艦隊に対してどのような力を持っているのか理解する事は出来ないと信じる。」と述べている。アメリカ側では特攻機を「自殺機」「聖なる風(死を運ぶ恐るべき風の意味)」と呼称していた。
生還を期さない決死の特攻だったが全員戦死した訳ではなく、アメリカ軍に救助された8人が尋問を受けた記録が残っている。
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最終更新:2024/04/24(水) 11:00
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