菫(橘型駆逐艦)とは、橘型/改松型/改丁型駆逐艦6番艦である。1945年3月26日竣工。戦後の1947年8月23日にイギリスへ譲渡された。
艦名の由来はスミレ目スミレ科スミレ属の多年草の総称から。別名のビオラ・マンジュリカは「満州のスミレ」を意味する。ちなみに松型及び橘型は雑木林級とも呼ばれ、艦名の多くが樹木に由来しているが、完成した艦の中で、菫と蔦だけは樹木ではなく花の名前が由来となっている。
戦前、大日本帝國海軍は仮想敵アメリカに対し数の不利を覆すため、性能を重視する個艦主義を掲げて突き進んできた。しかし、大東亜戦争が勃発すると想像以上の早さで艦が失われ、特にガダルカナル島を巡るソロモン諸島の戦いで多くの艦隊型駆逐艦を喪失し、短時間での大量生産が困難な艦隊型駆逐艦より、安価で大量生産が可能な中型駆逐艦が必要だと痛感。
1943年4月に軍令部次長から提出された戦時建造補充計画(通称マル戦計画)において、建造に時間が掛かる秋月型の建造を全て中止し、代わりに戦時急造に適した松型駆逐艦が量産される事になった。松型は起工から竣工まで半年という驚異的な早さで誕生するが、それでも国力に富むアメリカ相手では足りないと判断し、夕雲型の建造計画を全て廃止して、1944年3月より松型を更に簡略化した改丁型(橘型)の設計に着手する。
改丁型に求められたのは徹底的な工期の短縮。まず参考にしたのが既に簡略化が進んでいた一等輸送艦、鵜来型海防艦、丙型海防艦、丁型海防艦であった。鵜来型同様シアーを廃した直線状の船体を採用、艦尾も垂直にバッサリ切り落としたかのようなトランサム型にし、船体装甲をDS鋼から入手が容易な軟鋼に変更(松型のシアーや上甲板に使われていたHT鋼さえも軟鋼に統一)、二重船底を単底構造に改め、手すり柱のメッキ加工省略やリノリウムの使用を全面廃止、松型では部分的にしか使われていなかった電気溶接やブロック工法といった新技術を本格的に投入するなど涙ぐましい努力を重ね続け、松型の工数約8万5000から約7万に削減。建造期間は僅か3ヶ月にまで圧縮された。一方、松型の長所だった機関のシフト配置は建造の手間が増える事を承知で受け継がれ、被弾しても航行不能になりにくくしている。
船体は簡略化したが水測装備は戦訓を汲んだ本格仕様となった。何かと性能が貧弱だった九三式探信儀と九三式水中聴音機を、ドイツから持ち帰った技術が結実した高性能の三式探信儀と四式水中聴音機に換装。対空能力の強化にも力を入れ、13号対空電探、22号水上電探、九七式2メートル高角測距儀を建造時より搭載、輸送任務を見越して小型発動艇2隻と6メートルカッター2隻も積載しており、対潜・対空に優れる戦況に即した能力を手にした。速力の低さが唯一の泣き所だったものの、戦時急造型にしては意外なほど高性能を発揮したという。
福井静夫元少佐の著書『写真集:日本の軍艦』には「性能良く被害に対して強靭、その兵装適切、簡易船ながら成功した艦である」と綴られている。
要目は排水量1350トン、全長100m、全幅9.35m、出力1万9000馬力、乗組員211名、最大速力27.3ノット、重油積載量370トン。兵装は40口径12.7cm連装砲1門、同単装砲1基、61cm四連装魚雷発射管1門、25mm三連装機銃4門、同単装機銃8基、九四式爆雷投射機2基。
1944年10月21日、丁型一等駆逐艦第5520号艦の仮称を与えられて横須賀海軍工廠で起工、11月5日に駆逐艦菫と命名され、12月27日に進水、1945年2月10日、艤装員長として駆逐艦旗風の元艦長こと高柳親光少佐が着任、同時に横須賀工廠の小海ポンツーン前に艤装員事務所を設置して事務を開始する。
ちなみに、先代の樅型二等駆逐艦3番艦菫は一線こそ退いていたものの未だ健在で、このままでは同名の艦が2隻存在する事になってしまうので、2月23日に先代菫が艦名を譲る形で雑役船三高に改名、そして3月26日に無事竣工を果たした。就役後は横須賀鎮守府に編入。健在の先代が新造艦に名前を譲ったのは、松型及び橘型全体で見ても菫、柿の僅か二例しかないレアケースである。
姉妹艦楢、桜、柳、椿、欅、橘とともに第53駆逐隊を編制、第53駆逐隊は第11水雷戦隊の指揮下に入った。準備完了次第、瀬戸内海西部に回航するよう第11水雷戦隊より指示が下り、横須賀軍港内で出港準備を進める菫であったが、二番高角砲が大仰角のまま復座しなくなるトラブルに見舞われ、修理のためやむなく出港予定日を一日繰り下げている。
4月1日、第11水雷戦隊は第2艦隊に編入され、4月6日には第31戦隊ともども戦艦大和率いる第1遊撃部隊の待機部隊に部署、出撃準備を完成させた上で瀬戸内海西部での待機を命じられ、横須賀停泊中の菫にも「直ちに出撃準備を完成せよ。当隊準備出来次第呉に回航す」との電文が届く。予定では第1遊撃部隊と沖縄に向けて出撃するはずだったが、間もなく第1遊撃部隊から第11水雷戦隊が除かれて出撃準備は取り止めとなる。練度不足が憂慮されたためと思われる。
4月8日になってようやく横須賀を出港。静岡県網代を経由して太平洋側へと進出し、本州南岸に沿って西進していく。しかし、今や本土近海においても米潜水艦の跳梁が激しく、このためか翌9日18時30分に第三海上護衛隊が拠点を置く三重県南部尾鷲港で仮泊、4月11日午前5時に同地を出発し、小豆島と八島泊地を経て、4月12日に安下庄へと到着。第11水雷戦隊との合流を果たした。翌日、姉妹艦榎ともども司令部の巡視を受ける。
4月18日、椎、梨、萩、榎とともに出動諸訓練を実施したのち呉へ入港。燃料不足の深刻化が原因で航海訓練を月に数回、日帰りで行っているに過ぎなかった。4月20日に第2艦隊が解隊したため第11水雷戦隊は連合艦隊附属となる。4月26日に呉を出港し、八島泊地まで移動。5月3日、今度は夏月、榎、梨と伊予灘で出動諸訓練を実施、夏月には第11水雷戦隊の司令部が乗艦しており、軽巡酒匂に代わって直接訓練を監督した。
5月10日午前2時、菫、宵月、夏月、椎、梨、萩、榎の7隻は酒匂に率いられて八島を出発、道中で訓練を行いながら、14時50分に呉へと入港する。B-29の度重なる機雷敷設や空襲により、瀬戸内海西部が訓練地に適さない危険な場所と化してきたため、機雷の敷設が進んでいない日本海側に訓練地を移す事が決定。だが日本海側に脱出するには十重二十重に機雷封鎖された関門海峡を突破しなければならなかった。掃海困難な磁気機雷が多くを占める上、先月突破を図った海防艦目斗が、5月7日には下関周辺で第29号掃海艇が触雷沈没しており、如何に海峡の突破が困難であるかを物語っている。
5月21日午前11時、意を決して呉を出港。伴走者は軽巡酒匂と駆逐艦桜、欅、楢、柿、楠だった。この中で菫のみ小積を経由して安下庄に移動している。
次いで5月25日午前9時45分に安下庄を出発、難所の関門海峡に向かうも、16時45分、部埼灯台沖5.4海里で桜が触雷小破したため、17時30分に門司へと緊急退避。18時頃には泊地付近の第二航路で通りがかった船舶3隻が触雷沈没しており、非常に危険な場所での停泊を強いられた。損傷を負った桜は海峡突破を断念。欅、楢、椿に伴われて呉へ引き返す事となり、残りは翌26日午前5時に門司を出発、無事海峡を突破し、5月27日午前6時25分に舞鶴まで辿り着く。
ところが、舞鶴鎮守府にとって第11水雷戦隊の入港は敵の空襲を招く恐れがあり、決して歓迎されるものではなかった。舞鶴以外の場所へ移動するよう要請された第11水雷戦隊は避難先に七尾湾を検討しつつ、当面の措置としてまだ機雷敷設されていない福井県小浜湾への移動を決める。
追い立てられるように6月1日午前9時、菫、酒匂、雄竹、柿、楠、榎は舞鶴を出港、機雷封鎖によって漁船が1隻もいなくなった若狭湾を出動諸訓練しながら通り、同日13時40分に小浜湾へ到着した。
以降は小浜を拠点にし、第11水雷戦隊・小浜市間の連絡には徴用した二代目雲龍丸を通船として使用。小浜湾には整った設備が無かったものの、非番の乗組員たちが街へ繰り出して飲み食いするようになった事から、一時期小浜市は賑わったと伝わる。また小浜には舞鶴海軍軍需部小浜出張所が設置。むげに第11水雷戦隊を追い払った舞鶴鎮守府のささやかなバックアップであった。
しかし、第11水雷戦隊に振り分けられた燃料は僅か850トンのみであり、その少ない燃料を隊内で分け合った影響で出動訓練の機会は非常に限られ、肝心な訓練内容も機銃操作や魚雷を発射する程度の簡易的なものだった。B-29が湾口に落とした機雷を確認しに行く事もしていたという。旗艦の酒匂は訓練に割ける燃料を少しでも増やそうと、陸上から電気を引いた上でボイラーの火を落とした。
6月10日、なけなしの燃料を使って柿、楠、雄竹、榎とともに湾外で訓練を実施。燃料不足で湾内から動けない酒匂に代わって柿に司令部が乗艦、臨時旗艦となって訓練を監督した。
6月26日午前0時20分、小浜湾上空に1機のB-29が侵入し、午前1時15分まで数次に渡って機雷を投下していった。このうち1発は湾口付近の陸上に落下している。同日朝、快晴の空に浮かぶ朝陽を背にして、敵艦上機が小浜湾を襲撃するとともに12機のB-29が出現、小浜市内にサイレンが鳴り響き、急降下してくるF6Fグラマンに対し対空射撃で応戦。激しい戦闘を繰り広げた。被害・戦果ともに無し。戦闘終結後、僅かな燃料を隊内で均等に分け合うため艦の横付け作業が始まった。だがここで悲劇が起きてしまう。
午後12時36分、湾内錨地付近を移動している時、双児島近海で駆逐艦榎が触雷大破。その時の轟音は小浜市内にまで届くほどだった。沈没を避けるべく菫と初梅が榎を曳航し、何とか擱座させる。間もなく空襲警報を知らせるサイレンが鳴り響くとともに再度F6Fグラマンが来襲して対空戦闘、敵機の攻撃は執拗を極め、北上の上流から現れたグラマンが沈没しかけている榎に機銃掃射を加え、波間に漂う榎の生存者をも標的にした。最終的に死者は36名に上った。
6月30日にも敵艦上機が襲来、停泊中の駆逐艦隊に機銃掃射を浴びせている。
7月に入ると燃料850トンが割り振られたが、松型1隻につき370トンを積載するので、2隻分程度の燃料にしかならず、その燃料も山口県南部にいる萩と梨に供給されたため、小浜湾の第11水雷戦隊はもはや組織的な訓練が出来ない有り様であり、湾内から出る事すらなくなった。一説によると燃料を大豆油で代用していたほど。このような背景からか7月15日には第11水雷戦隊そのものが解隊されてしまった。菫は他の姉妹艦ともども舞鶴鎮守府所属の特殊警備艦に指定。同日付で若松武次郎大尉が二代目艦長に就任。初梅艦長との兼任であった。
7月19日、菫、酒匂、雄竹、楠の4隻は舞鶴に向かうべく小浜湾を出発。湾口には掃海不可能な感応機雷が敷設され、反応範囲・攻撃力ともに従来の機雷を上回る恐るべき兵器だったが、反応から爆発までに数秒のタイムラグがある事から、全速力で突っ切れば被害を抑えられるとして強行突破を図る。
一か八かの大脱出は見事成功。途中で酒匂が2回触雷したり、同日中に29機のB-29が舞鶴沖合いに新たな機雷を敷設していたものの、全艦脱落せずに無事舞鶴へ回航。7月中は日本海における米潜水艦の活動が不活発だった事も菫らに利した。
7月29日と30日に舞鶴空襲が発生、米第38任務部隊から飛び立った敵艦上機が宮津湾や伊根湾の在泊艦艇を狙って攻撃し、駆逐艦初霜、海防艦沖縄、第2号海防艦が撃沈、潜水母艦長鯨や駆逐艦雪風、伊153、伊202、海防艦高根、第182号特設駆潜艇等が損傷する被害を受け、8月5日、7日、14日には舞鶴に対する更なる機雷投下が行われているが、幸い菫に損傷は出なかった。
8月15日の終戦時、舞鶴にて残存。連合艦隊に残された可動戦力は空母鳳翔、軽巡酒匂、菫を含む駆逐艦30隻、潜水艦54隻に過ぎなかった。
未曾有の戦争は終わった。だが、未だ外地には600万人を超える邦人や軍属が取り残されていた。これまでの戦争で商船や輸送船はほぼ壊滅状態だったので、彼らを帰国させるため、生き残った艦艇は復員輸送任務に従事して最後の奉公に臨む。10月5日除籍。それから間もない10月17日に乗組員の山田豊中尉が岩国海軍病院で病死。どうやら病弱だったらしい。
戦闘可能の状態だった菫は復員輸送艦になるため、武装解除、居住区の拡張、厠の増設、舷側に「SUMIRE」と記入するなどの改装工事を受け、12月1日に特別輸送艦に指定、横須賀地方復員局所管となる。
菫は主にマニラ、中国、台湾方面からの引き揚げ任務を担当。多くの復員兵に祖国の地を踏ませた。艦内には土浦気象学校を卒業した気象兵がいて1年間任務に就いていた。1946年3月13日、部品取りとなっている楡(橘型駆逐艦)から九九式測信儀三型、九九式測波器、電波探知器備品を借用。
復員輸送任務を終えた菫は特別保管艦となり、横須賀に係留された86隻の艦艇のうちの1隻に連なる。ろくな艦艇を持たないソ連と中華民国の強い働きかけで、特別保管艦を米・英・ソ・中の四ヵ国に抽選で振り分けた結果、菫はイギリスが獲得する事に。しかし既に強大な海軍力を持つイギリスには無用の長物だった。
1947年7月26日、香港での引き渡しに備え、佐世保に停泊中の菫が撮影されているが、この写真によると、前部マストが姉妹艦と異なる形状をしているのが分かる。いつ頃改造されたのかは不明。ただ特別輸送艦時代の写真では姉妹艦と同一の形状となっている。
そして8月23日に香港でイギリスに譲渡。年内に香港沖で実標的艦として撃沈処分された。
掲示板
掲示板に書き込みがありません。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/07(日) 13:00
最終更新:2025/12/07(日) 13:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。