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蒋琬 単語

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ショウエン

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蒋琬(蒋エン)、字を琰は後漢の人物。劉備劉禅の二に仕えた。

この記事の本来の表記は「蒋琬」ですが、「琬」の字が表記できないブラウザを考慮して、
「蒋琬(蒋エン)」と併記しています。

劉備時代

県の出身。若くして外(いとこ)の敏と共に名を知られていた。

当時、荊州のとなっていた劉備に仕える。劉備に入る時に下級文官として付き従い、広都県の長に任ぜられた。劉備はある時、遊覧のついでに広都を訪れた。しかし、蒋琬(蒋エン)はほとんど仕事もせずに泥酔までしていた。激怒した劉備は蒋琬(蒋エン)を処刑しようとするが、諸葛亮は、蒋琬(蒋エン)はもっと大きな仕事のための人物だと理解をめたので、罷免するだけで収まった。
 
しばらくして、邡県の県として復帰することを許され、219年に劉備中王となると中央政府の尚書郎として迎えられた。

劉禅時代1(孔明健在時)

223年に劉備が崩御し、諸葛亮丞相となると幕府を開き、蒋琬(蒋エン)は招聘されて東曹掾に任命された。茂才(名士の補)に推挙するもあったが、蒋琬(蒋エン)は他者に譲り受けようとしなかった。諸葛亮も推すが、結局受けなかったのか、参軍に昇進する処置がとられた。

227年に諸葛亮中に赴くと、丞相留府長史の裔と共に留守を預かり、丞相府の事務を決裁した。
230年に裔が長史を退くと後任となり、事を統括する。撫軍将軍の位も加えられた。

諸葛亮の北伐時には後方の補給を預かり、兵糧と人員を充足して兵站を整えた。蒋琬(蒋エン)の力を評価した諸葛亮非公式ながら劉禅に、自分にもしものことがあれば、蒋琬(蒋エン)を後継させることを打診している。
また、危篤となった時、見舞いに訪れた福にもその旨を伝えていたという。

劉禅時代2(孔明没後)

諸葛亮が死去すると尚書となり、行都護、益州刺史を加えられた。後に大将軍、録尚書事に進んだ。爵位は安陽亭侯に封じられる。益州刺史の地位は何度か辞退して、費禕が代わった。諸葛亮が亡くなり人臣は動揺したが、蒋琬(蒋エン)は政の筆頭として泰然と振る舞い、心を得た。
 
238年に朝廷から北伐再開の詔が下される。は今、公孫淵が叛いて動揺している。中に入り諸軍を統括して連合してを攻めるべしと。蒋琬(蒋エン)は中に赴いて幕府を開き、大司馬に昇進した。

蒋琬は北伐の戦略を練り、準備を行った。かつて諸葛亮が用いたルートは、行軍と補給が困難として、東方からのルートを模索する。団の建造を行い、軍を利用して戦力を展開させようとしたが、病となり実行に移せずにいた。また、の協力が得られず、この計画では困難だと、多くの反対意見があがった。朝廷の命をうけた費禕姜維から不可と伝えられると、代案を述べた。姜維州刺史に任じて、自身は前線から退く、各地の中継ができる涪に駐留して変事に備え、姜維州を征討すれば後続すると説いた。
 
その後、涪の地に留まるも、病が篤くなり246年に死去した。諡は恭。

息子蒋斌顕がおり、蒋斌が後を継いだ。兄弟共に才と学問に優れていた。に攻め入った鍾会に気に入られて滅亡後は友人としての待遇をうけた。しかし、鍾会姜維が起こしたクーデター混乱により、二人とも命を落とした。詳細は「蒋斌」を参照。

人物

劉備の代では、まだ若く、劉備の勘気を被っていたのか、立った働きは出来なかった。

劉禅の代となり、諸葛亮政の頂点に立つと、頭をあらわす機会を得た。重用され、後継者として認められるまでに至った。諸葛亮亡き後も、本領がぶれる事はなく手腕をふるい、先人の路線を忠実に踏襲して、力を安定させた。外地にいた時も、の全ての恩賞、刑罰の諮問に関与した。

劉禅の治世の大半が安定していたのは諸葛亮、蒋琬(蒋エン)、費禕董允政を担っていた事が大きい。人々は彼らを四相または四英と称した。

司馬として軍事トップに立ったが、ほとんど実戦揮をとることはなかった。魏延の反逆に対しては軍を率いて討伐にあたったが、その前に魏延は討ち取られている。北伐の作戦構想は周囲には謀と映っていたらしく反対されていた。

諸葛亮は、蒋琬(蒋エン)は忠義正であり、自分と共に王業を支える人物と評価した。
陳寿の評では蒋琬(蒋エン)は万事に整っており威厳があった。しかし、小さな土地を治めることは出来なかったとしている。裴松之陳寿の評に対して、国家レベルで功績があったのだから、小さな仕事が出来ない事は問題ではないとしている。

諸葛亮に劣るというにも、その通りと、怒ることもなく、自分に批判的な人物や、礼を失った態度をとる者にも感情を交えず、理に従って対応した。馬謖の処には反対であり、諸葛亮に意見したという。楊儀はかつての上官であり、元部下の蒋琬(蒋エン)が諸葛亮の後任になったことに不満に抱くこととなった。

がおり、潘濬いでいる。

三国志演義

初登場は、龐統が戦死して諸葛亮が入する時に、書記として随員している。史実で県仕事を怠けて、干されかける逸話は龐統と似ているが、演義では龐統の方だけに使われた。以後は幕僚として諸葛亮に付き従う。

馬謖李厳楊儀の処遇に対して寛恕をめるなど、穏健な人物として描写されている。

諸葛亮の後任の丞相となっているが、史実では丞相になっておらず、丞相職は諸葛亮の死後は欠番となっている。後継者としてのポジション姜維に代わられている。

補足

コーエー三國志シリーズにおける蒋琬(蒋エン)の一覧。Ⅰでは並みの文官、より次第に評価が上がり、以降は政治力90をキープしている。統率力、知力、魅力も高く社稷の臣として相応しい力となっている。

一覧 統率 政治 身体 運勢
三國志 28 78 66 61 70
三國志II 61 84 83
三國志III 60 85 80 84 73 70
三國志IV 74 61 85 93 83
三國志V 54 91 94 84
三國志VI 70 55 86 96 82
三國志VII 38 81 93 78
三國志VIII 33 80 90 78
三國志IX 73 38 84 93
三國志X 74 39 85 93 81
三國志11 78 34 84 93 81
三國志12 78 34 84 93

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