蒙武 単語

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モウブ

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「蒙武」(もう・ぶ ? ~ ?)とは、中国戦国時代末期将軍である。王の嬴政(えいせい、後の始皇帝)に仕えた。 

の名将として知られる蒙驁(もうごう)の子であり、これまた、の名将と呼ばれる蒙恬(もうてん)のにあたる。子として、蒙恬にあたる毅(もうき)の名も始皇帝に仕えた人物として知られる。 

と子にべて、歴史上の記述が少ないが、原泰久の「キングダム(漫画)」では中華最強する剛の猛将として描かれている。 

この項では、蒙武の・蒙驁についての紹介も兼ねる。

概要

蒙武の父・蒙驁について 

蒙武についての歴史的記述は少ない。 

紀元前285年に、の武将として、斉のを攻撃し、斉から河東(カトウ)にあった九つのを奪った人物の名に、「蒙武」の名がみえるが、年代から見て別人と思われる。なお、この九つのは、が奪った後、の直轄地となる九つの県となっている。 

蒙武の先祖は、斉のの出身であったが、の蒙驁の時に、斉のからに移って来た。 

蒙驁が移住してきた時代は、の昭襄王(しょうじょうおう)の在位の時であるが、昭襄王の在位は、紀元前306年から紀元前251年までと長いため、その時期ははっきりとはしない。 

とにかく、蒙驁はの昭襄王に仕えて、官職は上卿(じょうきょう)まで昇進した。蒙武は斉で生まれたか、に生まれたか、はっきりしないが、この時には生まれていたものと考えられる。 

昭襄王の孫にあたる荘襄王(そうじょうおう、名は異人(イジン)または子楚(シソ)、始皇帝)が王に即位し、蒙驁は、将軍に任じられた。 

この時代は、丞相(じょうしょう、宰相)として、呂不韋(リョフイ)が政治つかさどっている。呂不韋も衛もしくはの出身であり、から見れば同じ外国人として、蒙驁は呂不韋に重用されて、軍事を任されていたのかもしれない。 

紀元前249年、蒙驁は、を討伐し、重要な要地である成皋(セイコウ)と滎陽(ケイヨウ)を奪う。この二つのは、後世の楚戦争項羽コウウ)と劉邦リュウヨウ)の戦い)で重要な役割を果たした要の地であった。 

蒙驁は、すでに攻めに長けた「名将」として名が知られる存在になったものと考えられる。この土地は、の直轄で治めることとなり、三(サンセングン)が置かれることになった。 

年代から見て、蒙武はこの時には、成人しており、・蒙驁に従軍して活躍していたものと思われる。 

紀元前249年、蒙驁は軍事であったを攻める。蒙驁は、勝利をおさめ、榆次(ユジ)、新城シンジョウ)、ロウモウ)など37のを奪った。蒙驁はおどろくべき、すさまじい戦果をあげた。 

紀元前248年、蒙驁はそのままへの侵攻を続けていたが、の王のにあたる信陵君(しんりょうくん、「戦国の四君」の一人)である魏無忌ギムキ)が五連合軍を率いて、抗戦を行ってきた。信陵君とは、河の外で戦闘となった。 

さすがに蒙驁の五連合軍は数も多い上に、信陵君中国戦国時代、屈の名将でもある人物である。蒙驁は、敗戦し、退却をして、関(カンコクカン)まで逃げ帰る。蒙驁は軍を押しとどめ、関をひたすら守ったため、五国連合軍は引き返した。 

紀元前247年、荘襄王が死去し、その子である嬴政(後の始皇帝)が王に即位した。蒙驁はそのままに仕え、王騎(オウキ、王齮とも記す。王齕(オウコツ)の同一人物と言われる)、麃公ヒョウコウ)とともに将軍に任じられた。

紀元前244年、蒙驁はまた、を攻め、13のを奪った。この年に、王騎が死去した。この時、軍事は蒙驁が一手に任されたものと思われる。 

同年には、あの信陵君魏無忌も死去していた。 

紀元前242年、蒙驁は、攻略し、棗(サンソウ)ら20のを奪った。信陵君がいないなど蒙驁の敵ではなかった。蒙驁が攻略した土地には、新たに東(トウグン)が置かれ、の直轄とされた。着々と、は「最強」の地位を不動のものにしていた。

 

紀元前241年、に脅威を感じ五(楚、)は楚の申君(しゅんしんくん)と龐煖(ホウケン)を中心に、を攻撃してきた。 

関(カンコクカン)で申君を、蕞(サイ)で龐煖を迎え撃ち撃退する。この時の蒙驁の具体的な活動は分からないが、軍の中心となり、活躍したものと思われる。 

このの最後にして最大の危機事に乗り越えることに成功している。 

紀元前240年、蒙驁は死去する。 

蒙武もまた、蒙驁の後をついで、に武将として仕えたものと考えられる。

空白の時期の蒙武 

しかし、それからも長い期間、蒙武に関する記述は史書に記されていない。 

では、蒙驁に代わって、王翦(オウセン)、桓騎(カンキ)、端和(ヨウタンワ)らの武将が用いられていた。しかし、なぜか、蒙驁の子である蒙武も成人もしており、軍事にたずさわったことはほぼ間違いないのに、の侵攻において、軍を任される将軍に任じられていない。 

あくまで想像ではあるが、この原因として、二つの理由が、考えられる。 

理由その1

蒙武の・蒙驁は、荘襄王時代や成人する前の嬴政王の時に、将軍として用いられており、当時、宰相として、政治をにぎっていた呂不韋に重んじられていたことはほぼ間違いない。

その呂不韋は、彼が推薦した嫪毐ロウアイ)の謀反事件と、嬴政である趙姫チョウキ)との密通により、紀元前237年に失脚している。

このため、呂不韋の党とみなされた蒙武もまた重んじられることはなく、将軍として軍を任されることがなかったとも考えられる。 

※なお、原泰久の「キングダム(漫画)」では、蒙武は呂不韋心である「呂氏の四柱」の一人と設定されており、偶然かもしれないが、この推測と符号する。

理由その2 

蒙武は、史実では、敵を攻撃して打ち破りを落とすよりも、守備や兵の統率に長けた人物であったことも考えられる。この場合、要地の守備を行い、軍を背後から支援していたため、史書にほとんど名を残さなかったものと推測できる。

 

どちらが相か、また、別の理由があるのかは分からないが、蒙武の事績はが楚を攻めるまでは、史書においてその事績を確認することができない。 

わずかに、思想書である『非子(かんぴし)』「存篇(ぞんかんへん)」にある 

「因之卒」

 にある「武」が「蒙武」のことであるという説があるぐらいである。 

これは、嬴政の臣下である李斯(リシ)の発言の一部であるが、「それから蒙武に命じて、東兵士を率いて侵攻させれば」と訳できる。この李斯の発言は、非(カンピ)がを訪れた紀元前233年のことと考えられるため、この年には、蒙武はおそらくは東にいる兵士たちを率いて、の重要ではある武将の一人として、東の守備にあたっていたものと考えられる。 

また、蒙武の長男である蒙恬もこの頃に、刑法を学び、裁判文書の書記を行っていた。蒙恬は祖・蒙驁、・蒙武と違い、文官としてではあるが、嬴政のもとで重んじられていたようである。 

その蒙武が史書にようやく姿をあらわすのが、その李斯の発言から8年後、の死から約15年後のことである。

老将たちの戦い 

非がを訪れてから8年の間に、天下統一に向けて、東の六、楚、斉、)を侵略し、次々と滅ぼしていた。 

  • 紀元前230年、内史騰(ナイシトウ)に命じて、を滅ぼす。
  • 紀元前228年、王翦に命じて、を滅ぼす。
  • 紀元前227年、王翦・李信(リシン)に命じて、の都を落とす。
  • 紀元前225年、王賁(オウホン、王翦の子)に命じて、を滅ぼす。 

これにより、は滅び、はほぼ滅亡にまで至った。しかし、蒙武はその討伐の将軍に任じられることはなかった。 

もう、まともに残った敵国は楚と斉しかいない。斉はとは同盟であり、残る敵は楚しかいなかった。 

紀元前225年、を滅ぼした年と同年、王である嬴政は、残った楚を攻撃する将軍を選ぼうとしていた。この時も、蒙武が補として選ばれることはなく、嬴政は王翦と李信を呼び、必要な兵をたずねた。 

李信が必要な兵を「20万で充分」と答え、王翦は「60万は必要」と答えた。 

嬴政は、王翦が年老い、慎重になりすぎていると考え、若く勇壮な李信の言葉に同意して、李信に楚討伐の軍を預けた。この時、李信の副将として、蒙武の長男である蒙恬が任じられた。 

蒙恬は文官であったが、この時代の官僚は文官・武官ときっちり分かれているわけではない。蒙恬は蒙驁や蒙武に兵法や軍略を学び、また、軍事経験もあったものと考えられる。 

とはいえ、経験では上回るはずの蒙武が選ばれなかったのは、やはり、年齢の問題ではあったと思われる。「年が若い」と史書に明言された李信にとって、すでに成人した蒙恬である蒙武は、かなり年上だったと考えられ、李信としては扱いづらかったと考えられる。 

そこで、まだ、年が若い蒙恬李信に副将として選ばれたと考えられる。 

とにかく、紀元前225年か紀元前224年かは不明であるが、李信蒙恬20万の兵を率いて楚の攻略を行った。 

二手に分かれた李信蒙恬は、次々と楚の領土を攻略していったが、途中でかつての「相邦(しょうほう、の宰相)であり、楚の子(王族)であった「昌平君(しょうへいくん)」が楚に寝返ったこともあって(明確にそのような史書には記されてはいないがそのように読める)、李信蒙恬は一度、合流しようとした。 

しかし、この時を狙っていた楚の名将・項燕コウエン)が3日3晩不休で追ってきて、軍を攻撃したため、李信蒙恬は七名の武将を失って敗走した。 

紀元前224年。嬴政は、李信たちの敗戦を聞いて、王翦に謝り、彼に60万の兵をつけて、楚討伐に送り出した。 

この時、王翦の裨将軍(ひしょうぐん、副将軍のこと)として、蒙武が任命された。蒙武としては子の蒙恬が失った信用を取り返す機会を与えられた形であった。 

蒙武は王翦とともに、軍を率いて、項燕の楚軍を戦う。戦いは軍の勝利に終わり、蒙武と王翦は軍を追撃して打ち破った。『史記』「六年表」、「楚世」、「蒙恬列伝」では、軍は、この時に項燕を討ち取っている。 

紀元前223年。蒙武は王翦とともに、楚を攻め、楚王の負(フスウ)を捕らえ、楚のを滅ぼした。 

なお、『史記』「始皇本紀」では、紀元前224年に、楚王の負は、王翦と蒙武に捕らえられ、その後に、項燕が、から寝返った楚の子(王族)であり、負にとっては兄弟にあたる「昌平君」を新たな楚王として立てている。 

昌平君項燕は、南の地で反乱を起こし、自立しようとした。 

紀元前223年に、蒙武は王翦とともに、再しようとした楚を攻め、楚軍に勝利する。この戦いで、昌平君は戦死、項燕自害し、楚は全に滅んだ。 

紀元前221年には、子の蒙恬が、王賁李信とともに、斉が滅ぼし、によって下は統一された。嬴政皇帝を名乗る。これが「始皇帝」である。 

その後の蒙武については、不明であるが、紀元前214年に、始皇帝により、蒙恬匈奴討伐を命じられ、オルドス地方を制圧し、「万里の長城」を築き始める頃には死去していたものと考えられる。 

子の蒙恬毅は始皇帝により重んじられたが、始皇帝の長子である扶(フソ)の後見のような存在に蒙恬がなったことや、毅が宦官(かんがん、皇帝の側近、この時代は必ずしも去勢した男性を意味しない)の趙高チョウコウ)に憎まれていたことが災いする。 

二世皇帝に胡(コガイ始皇帝の末子、扶)が即位すると、すぐに、蒙恬毅は逮捕される。毅は自害し、蒙恬は殺され、趙高により、氏は滅ぼされてしまった。 

李信のや王翦・王賁の子孫(と名乗る人物たち)が繁栄したとされたことにべると、大きな違いとなってしまっている。

創作における蒙武 

原泰久『キングダム(漫画)』 

中華最強の武をもっている事を誇り、の「六大将軍」制度復活めている。 

の実権を握る呂不韋心である「呂氏四柱」の一人となっている。「呂氏四柱」の残り三人は、昌平君李斯、蔡沢(サイタク)であり、昌平君とは幼少時代からしい関係にある。 

戦いの基本は、自らが中華最強と誇る武を用いて味方兵と共に相手を押しつぶすというものであるが、単なる脳筋ではない優れた知略を時おり、見せる。 

それでも、はじめはそれでも血気にはやるところがあったが、次第に、「大将軍」としての覚め、成長をはたしている。 

蒙武と昌平君の関係については、すでに発表されている読み切り「蒙武と楚子」参照。キングダムの先の展開のネタバレも含めて、『キングダム』とは少し容貌が違うが、蒙武と昌平君の若い頃の関係がうかがえる。 

蒙武の父親の蒙驁も登場する。「老」と呼ばれる、体格はいいが、温厚そうな老人。の最高位の大将軍となっているが、武将としては、天才的な部分がない「庸な武将」と設定されている。 

史実通り、斉からに来たが、それには理由があり、ある人物に強いコンプレックスをいだいている。 

しかし、人物を見るはとても優れており、副将に、人格に問題はあるが、大将軍の才を有する王翦と桓騎(カンキ)を抜している。また、孫の蒙恬や「三百人長」に過ぎない李信の隠れた才を見抜いていた。

兵馬俑(へいばよう)について 

かつて、驪山(リザン)にあった始皇帝陵(始皇帝の墓)には、約8,000体もの等身大の兵士をかたどった副葬品が埋葬されていた。これは、陶器でできており、「兵俑」と呼ばれる。この発見により、当時、蒙武も揮したであろう当時の軍の実態がかなり分かる。 

俑にはカブトをかぶったものはなく、そのため、当時はカブトをほとんどつけていなかったという説の根拠となっている。冠をつけているのも士官(軍吏)だけであるが、兵士たちの多くはヨロイをつけている。 

を持った隊は軽装で三列に並んでおり、絶え間なく打てるように各列が順番に矢を射たものと思われる。 

戦車は全て4頭立てで、者が一人、兵士が一人か二人乗っており、(しょ)という6メートルもある長い武器を持っていた。また、鐘と鼓を有した戦車もあり、これがとなって、部隊に前進と後退を命じたものと思われる。 

兵士を持っておらず、ヨロイを身体の一部しかおおっておらず、の軍は機動性を重視し、攻撃をむねとする軍隊であることが明らかにされた。多くの兵士は長矛を持っており、背後にいる戦車により、相当に厳しい軍が課されていたであろうことは想像できる。 

俑の武器は実物で、ほとんどが製であり、製のものは少なかったが、製の武器にはクロムメッキという特殊な処理が施され、出土した時点でも、かなり鋭いものであった。また、当時のヨロイ製や皮製であったと見られている。 

1号坑には6,000体以上の兵士40台以上の戦車がいて、方(四形)を組み、実際に使われた形であると考えられている。形はいくつかの部隊に分かれ、それぞれに指揮官がいる。出前のをかたどったものと言われる。 

この形は前衛・両・後衛・本営からなり、前衛の兵士の矢で敵のを乱すと、両に撤退し、本営の兵が突撃したものと考えられる。 

2号坑は、900体以上の兵士400体以上の89台の戦車がいて、行軍中の臨時駐屯地である「野営地」をかたどっており、4つの区域に分かれて配置されている。移動に便利なように配置され、軍はいつでも戦闘できるようになっている。 

3号坑は、統幕部である。戦車が前方で命を待ち、衛兵たちは儀(ぎじょう、儀礼用の武器)を持ち、向かい合って立って、将軍を待っている。 

俑の兵士の容貌は似たものは一つもなく、始皇帝にとって兵士たちがいかに大事な存在かが分かる。

関連書籍

秦漢 雄偉なる文明 図説中国文明史4exit」(創元社)劉煒 (著)、 稲畑 耕一郎 (監修)、 伊藤 晋太郎 (翻訳) 

全てオールカラーの「図説中国文明史」シリーズの一冊。 

については、史料が少ない上に、断片的であるため、一般向けに大系的にまとめられている書籍は案外ないが、こちらの書籍は、カラーであり、写真や図解が豊富なうえに、難しい漢字には「ふりがな」がふられているため、歴史の概説書の中では読みやすい。 

歴史書にない、「」や「」に関することを知りたくなったら、まず、この書籍にあたることをおすすめする。 

この項のうち、「兵俑(へいばよう)について」はにこの書籍を参考にしている。

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