藤原不比等 単語

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藤原不比等(659~720)は飛鳥奈良時代卿、政治家名前は「史」ととも。

実質的な藤原氏の祖にあたる。

概要

中大兄皇子の側近である中臣足をに持ちながらも、申の乱で中臣氏の勢が一層され後ろを失ったため、下級官人としてその政治家人生を始める。

しかしながらその法律の知識や文筆の才から判事として抜されると、仕えていた皇子の皇子である軽皇子(後の文武天皇)の擁立に貢献し、大宝の編纂に携わる事で歴史の表舞台に躍り出る。

その後後妻・千代と協天皇婚姻関係を結び、後に外戚として強大な権限を振るうための下地を築き上げると、自身の一族のみが「藤原臣」を名乗れるようにするなどで自身の一族の権の礎を確立させた。

その他の功績として「日本書紀」編纂の中心メンバーの一人と見られている。

出自

斉明天皇5年(659年)に中臣足の次男として誕生、母親王女とされる。もともと王女天智天皇の妃であり、妊娠中の王女足がぐ際に「産まれてくる子が男なら足が、女なら朕が育てる」と天智天皇が言ったという伝説がある。

等≒史という名前も、申の乱の後に天智天皇の皇子として狙われる事を避けるためにカバネに"史"を持つ「田辺大隅」によってしばらく匿われていた事から来ている説もあり、後の大出世の事と合わせて「天智天皇の落胤説」はかなり信じられていたようである。

青年期

天智天皇8年(669年)不等11歳の時に足が亡くなり、天智天皇10年(672年)天智天皇が崩御。後継となったのは天智天皇の皇子である大友皇子だったが、これを天智天皇である大海人皇子が挙兵して討ち滅してしまった。古代最大の内乱・申の乱である。

政権を打ち立てた天皇は専制を行い要職に自身の皇子を始めとする皇族のみを就けた。これを「皇政治」と言う。足を始めとして中臣氏は政権の中枢を担う人間が多かったが、これにより中臣氏の勢は中央政治からは一掃される事となってしまった。

等は足の息子という立場ではあったが、申の乱時点ではまだ幼く政治に関与はしていなかったため特段処罰の対にされる事はなかったものの、バックアップをしてくれる一族が中央政治の場におらず、政治家としては下級官人からのスタートを余儀なくされたようである。

青年期の不等の行動明らかになっていないが、後に聖武天皇の遺品として伝わる「作懸佩(くろつくりのかけはきのたち)」が皇子→不等→文武天皇→不等→聖武天皇と渡っている点から、皇子に仕えていた可性が高いとされる。

壮年期

元年(686年)天皇が崩御。このときの後継最有皇子であったが、皇子はの喪が開ける前に27歳の若さで亡くなってしまう。すると天皇皇后・鸕野讚良皇女は孫である皇子の皇子・軽皇子の即位を望む。しかし皇子の兄弟には適齢とも言える皇子が存命で幼い皇子を皇太子にする事が難しく、自らを軽皇子成長の中継ぎとして即位する事にした。持統天皇である。

等の名前が「日本書紀」に見られるようになるのは、持統天皇3年(689年)に判事として抜されたことである。不等のの高さもあるが、皇子に仕えていた不等に軽皇子の後ろとなってもらいたいという意味での持統天皇からの後押しもあったと考えられる。実際、697年の軽皇子=文武天皇の即位には不等の功績があったようである。

翌年にはこの功績により不等の一族のみが「藤原臣」を名乗り、太政官の官職に就くことが出来るとされた。不等の一族以外は元の中臣氏に復姓し、本来の官としての役割にする事となった。

また不等はこの少し前に文武天皇であったとされる千代婚姻関係を結んでおり、そのによって藤原宮子を文武天皇夫人として擁立している。宮子は後に首皇子(後の聖武天皇)を産む。なお首皇子には、その後三千代とのである明子をがせている。明子は後に息子藤原兄弟によって人臣初の皇后となり、奈良時代における藤原氏の繁栄を支えることになる。

藤原氏の繁栄は他氏排斥や天皇の外戚による所が大きいが、不等の時点ですでにその芽が見られるのが特徴的である。

晩年

4年(707年)に文武天皇が崩御。皇子である首皇子はまだ7歳と若かったため、天智天皇四皇女で皇子の妻で皇太妃(天皇の生)である皇女が即位した。元明天皇である。デジャブである。

翌年和元年(708年)に不等は右大臣に登ると、和3年(710年)への遷都の際に左大臣であった石上麻呂藤原を管理させるために残したため、不等が最高権者として君臨することになった。

また不等はへの遷都に伴って、王女が創建した山階寺を現在の位置に移転し「興福寺」と名付けている。興福寺藤原氏の氏寺として強権を振るい、安土桃山時代まで大和事実上支配するまでに至る。

後継には長男・武智麻呂を想定していたようで官位等は武智麻呂が先頭になるように配慮していたようであるが、霊3年(717年)には政治に勝る次男・房前を参議に昇進させ、武智麻呂に先んじて参議官にさせている。

そして修正版・大宝として養老に編纂に取り掛かるも、養老4年(720年)に62歳で病死。不等の死で養老の編纂作業は一旦停止してしまう。なおその実施には37年後、孫の藤原麻呂の登場を待たなくてはならない。

なお不等の死後、後任の右大臣に叙任された事で長屋王が政権を握るが、6年(729年)に長屋王の変で排斥され不等の4人の子供達に自死に追い込まれる。

日本の原型を作る

歴史的に見たときの不等の大きな功績は「大宝の編纂」と「日本書紀の編纂」である。

智2年(663年)に「江の戦い」で倭は唐・新羅連合軍に惨敗を喫する。これは現行の倭の制度のままで唐への対抗が出来ない事を意味していた。そのため、唐の仕組みを倣い・学習しそれを日本アレンジして取り入れて律令国へと脱皮する事がめられていたのである。

そして近江飛鳥浄御原を経て大宝元年(701年)に大宝が制定される。日本初の刑法行政法・民法った本格的な法典である。編纂の筆頭は天皇第九皇子・刑部皇子であるものの、その中身に一番大きく携わっていたのは不等であると見られている。

なお、不等の法律への深い知識のルーツはハッキリしていないが、幼少期に預けられた「田辺大隅」から教育された説、足が長男・定恵を外交官として、次男・不等を書記として育てていたから(不等=史は書記官の意)等がある。

また日本書紀の内容にも深く関わっていると見られており、大宝理念足からの中臣及び藤原氏歴史などは不等の意図する形で記されていると考えられている。

どちらも最初期の"日本"というものの成り立ちに深い関係性のあるものであり、日本というを作り上げた人間の一人であることは疑いようもない。"等しくべられるものが居ない"という名はその功績の深さを表している。

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