藤原伊尹 単語

フジワラノコレタダ

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藤原伊尹(ふじわらの これただ、924~972)とは、平安時代中期の貴族である。

概要

百人一首45番の作者藤原長男で、藤原義孝。諡(贈り名)は謙徳公

・師藤原摂関の氏長者にはなれなかったが、冷泉天皇円融天皇の外戚(当時はまだ皇太子)として・実頼を上回る権威をふるった。その後を継いだ尹も順調に出世し、最終的には摂政・太政大臣にまで昇進した。当時、宮中では冷泉天皇叔父である高明が実力を高めていたが、高明に政権を奪われることを恐れた尹は、清和源氏満仲の密告を取り入れ、高明を太宰府に左遷した。この事件は安和の変と呼ばれ、これによって藤原氏以外の有力貴族排除が事実了した(日本史でも重要な事件なので、覚えて損はい)。

しかし、尹はこのわずか3年後に病。義孝をはじめ、彼の子は多くが死してしまい、藤原氏の政権は尹のの兼通・兼が争った末、最後に生き残った兼とその子孫へ引き継がれていく。伝承によると、藤原定方の子でメタボで有名な藤原成が、尹に出世争いで敗れたことを恨んで、生霊となって尹を祟り殺し、彼の一族が短命になる呪いを掛けたと伝えられているが、矛盾点も多く、義孝らの世とこじつけた後世の作り話である。実際の死因は、糖尿病らしい。

尹は子の義孝と同じく、なかなかの美男子だったと言われているが、謙徳公という諡とは裏に、尹は大の手好きな性格で、「謙」とはほど遠い人物だったらしい。「大」では彼の手好みにまつわるエピソードが多く残されている。ある時、寝殿ずんだ尹は、当時高級だった陸奥を惜しみなく使い、人々の関心を買ったと伝えられる。また、の師は倹約で、自分の葬式を質素に行うよう遺言したが、尹は葬儀を粗略にできないと言って、通常通りに葬式を行った。

百人一首に、「あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな」の歌が採用されるなど、歌人としても名を残した尹だが、彼は村上天皇の勅撰和歌集「後撰和歌集」の編纂と万葉集解読にも深く関与した。中心となったのは、の五人と呼ばれる5人の歌人(大中臣宣、順、清原元輔坂上、紀時文)で、尹はそのまとめ役を担った。

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