藤原兼子 単語

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藤原兼子 / 高倉兼子 / 卿二位1155~1229)とは、平安時代末期から鎌倉時代女性である。

概要

高倉範兼のだが、彼がくに亡くなったため叔父高倉範季を養とした。夫は時子の異円だったが、平家の都落ちに伴い彼のみ西海に行ってしまう。その一方で、・藤原兼子が高倉範季の命によって後鳥羽天皇となり、加えて彼女を付けた源通親に再婚を申し込まれた。

かくして、前夫との・在子とともに源通親護下に入ると、在子は後鳥羽天皇と結ばれ、為仁(のちの土御門天皇)を生む。しかし、やがて後鳥羽天皇高倉範季の・重子に寵を移し、守成(のちの順徳天皇)を生む。事ここに至り、外戚になろうとした源通親と制約から解放されたかった後鳥羽天皇の利が一致し、土御門天皇に譲位。後鳥羽院院政が始まったのである。

しかし、源通親はあっけなく亡くなり、として権勢を誇ったのが、兼子である。兼子は、院近臣藤原宗頼と再婚し、の範子と違い特に名分はなかったのだが、夫とともに互いに後鳥羽のそばで引き立てあって地位をつないだのだ。さらに、重子が王を出産したころには彼女を猶子にしており、建仁3年(1203年)に藤原宗頼が死ぬと、今度は藤原頼実と再婚。前の結婚同様互いに引き立てあうビジネスパートナーのような存在であった彼と権勢を伸ばし、承元元年(1207年)には従二位となり、卿二位と称されるようになった。

かくして、後鳥羽院代弁者としてふるまった彼女は、九条の『玉蘂』承元5年(1211年)8月19日条に、藤原頼実と妻の彼女後鳥羽院の代表的な近臣である旨が残っている。なお、藤原定家の『明記』元久元年(1204年)9月7日条には、源実朝がせる坊門信清のの選定にも彼女がかかわったらしきことが残されている。

ついには、鎌倉から来た北条政子王将軍に関する取り決めをまとめ、慈円には「女人入眼」とまで言われたのだが、源実朝暗殺、承久の乱と、政界に変が走っていく。権である後鳥羽院を失った彼女は、「慈寺本」の『承久記』で後鳥羽院をたきつけた描写とは異なり、特に処断されることもなく生き残ったことから、積極的にかかわったとはなかったとされたのだろう。そのまま寛喜元年(1229年)に亡くなったが、最期まで意気盛んだったという。

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