藤原定家 単語

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藤原定家(ふじわらの ていか / さだいえ、1162~1241)とは、平安時代後期~鎌倉時代前期の貴族歌人である。

概要

「新古今和歌集」の撰者で、日記「明記」の作者
小倉百人一首を制定し、定自身も97番の作者となっている。
藤原俊成の子で、藤原道長の来孫(5代目の子孫)である。西園寺公経は義にあたる。

歌人として名を馳せていた・俊成から和歌を師事し、歌に優れた御子左を継承、当時の歌壇の第一人者として活躍した。しかし、長の子孫でありながら庶流であったことに加え、自分にも他人にも非常に厳しい苛な性格が災いして(宮中で乱闘騒ぎを起こす、後鳥羽上皇の歌会で詠まれた歌を酷評して、後鳥羽上皇の怒りを買うなど)、なかなか出世の機会には恵まれず、71歳の時にようやく権中納言に昇進した。

1201年から後鳥羽上皇の命を受けて、「新古今和歌集」の編纂に参加する。同メンバーは、寂藤原飛鳥井経・通具・六条有の計6名(寂経は百人一首にも加えられている)、また後鳥羽天皇自らも編纂に深く関わり、4年後に完成。先述の通り、後鳥羽上皇の不を買って一時遠ざけられるが、皮にも承久の乱後鳥羽上皇が追放されたことによって歌壇界に復帰する。1232年には2作の勅撰和歌集「新勅撰和歌集」の編纂を開始、3年掛けて完成した。この直後辺りから、宇都宮頼綱依頼を受けて私撰和歌集となる「百人一首」の編纂を始めたと言われる。百人一首制作については不明な点も多いが、後述の「明記」をほぼ書き終えた定にとって、最後の大事業だったことには間違いない。

自分が選び抜いた百人一首の中に、定自作の和歌も載せている。「来ぬ人を まつほのの 夕なぎに 焼くや藻の 身もこがれつつ」がそれである。藻とは、にたっぷり含ませて、それを焼いたり煮詰めたりすることでを精製する古い作り方で(効率が悪いので、現在天然でもほとんど行われない)、藻が焼き焦がれるような狂おしい思いを歌にした作品である。

歌人以外の業績

はまだ10代だった1180年から、百人一首の選定を始める1235年頃までの半世紀以上にわたって日記っており、後世「明記」として伝えられている。で起こった大飢饉や、鎌倉幕府と朝廷の対立への懸念などがリアルタイムに記されている他、定より古い時代の記録についても残されている。その中でも特に有名なのが、超新星爆発である。その残骸がおうし座のかにとなった1054年の記録の他に、1006年・1181年にも同様の出来事が起きたと記している。特に1006年の超新星爆発間でもきが見えたと伝えられており、天文学科学的に明されなかったこの時代、人々は不吉な出来事の前触れとして大変恐れおののいたと言う。このような記録は東洋・西洋でも残っており、全世界共通の事だったようである。

うた恋い。の定家像

漫画うた恋い。」では物語のナビゲーターを務めている他、式子内親王とのにまつわる伝説と先述の百人一首の歌を交えた話が登場する(定が「来ぬ人を~」を読んだのは1218年と、円熟期に入った頃の作品なので、実際には式子内親王への慕を歌ったものではさそうである)。百人一首を選んだ頃の定は既に70歳過ぎのはずだが、うた恋い。の定は非常に若々しく、おまけ金髪であることがアニメ放送当初はしばしば摘されていた。藤崎竜漫画封神演義」における太公望のようなキャラクターとして見るのが良いだろう。また、アニメアバンタイトルでは東京スカイツリーに変奏したり、某ドラマの鑑識課に扮する他、アニメオリジナルの6話では藤原公任百人一首の札でカードゲームを繰り広げるなど、さらにフリーダムとなっている。

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最終更新:2024/04/20(土) 06:00

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