藤原実方(ふじわらのさねかた、?~999)とは、平安時代中期の貴族・歌人である。
百人一首51番の作者で、中古三十六歌仙の一人。藤原忠平の曾孫で、藤原公任、藤原義孝、藤原道隆・道長、藤原斉信・道信とは又従兄弟である。
一世紀前に活躍した在原業平と並ぶ、平安時代きってのプレイボーイで、美貌と優れた和歌のセンスの持ち主だった。「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルの一人とも言われており、清少納言の恋人でもあった。円融天皇・花山天皇に重用されたが、一条天皇の代になると陸奥守に任命され、東北へ赴く。現地で落馬事故に遭い、倒れた馬の下敷きになってあえない最期を遂げた。源頼朝や源信など、実は落馬事後が原因で命を落とした歴史上の人物は意外と多い。
実方の陸奥守赴任は、「十訓抄」に記された藤原行成とのトラブルによる左遷と長年信じられてきた。「十訓抄」によると、実方が行成に陰口を叩かれたことに怒って、行成の冠をたたき落とす狼藉を働いた。行成は慌てず冷静に対処したが、実方は一条天皇の怒りを買って左遷され、行成は蔵人頭に出世。実方は遠く離れた陸奥の地で失意の内に死に、死後は雀に転生して宮中の穀物を食い荒らすという、菅原道真や崇徳院に比べて妙にしょぼい祟りをなしたと伝えられる。
しかし、行成が蔵人頭に任命されたのは源俊賢の推薦によるもので、行成自身も日記「権記」で、実方が天皇から陸奥守赴任に伴い、褒美を大量に与えたと記しており、この話は後世の創作と言われる(「大鏡」「権記」はリアルタイムで書かれた史料なのに対して、「十訓抄」は250年後の鎌倉時代に記された説話集である)。陸奥守は蝦夷の鎮撫や、現地で産出した砂金を、北宋との貿易のために朝廷に献上するなど、非常に重要な職務であった。おまけに、俘囚からは大量の税収が期待できるうま味のある役職でもあり、前九年の役は当時陸奥守だった、藤原登任が税収をめぐって俘囚の長であった安倍頼良と対立したのが原因である。よってこの逸話は、実方が現地で不幸な最期を遂げたことから作られたと考えられる。
「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」は、恋人に送った百人一首にも採用された和歌である。「さしも草」とはヨモギのことで、お灸に使われたことから、この歌の激しさが伝わってくる(この激しさが、先述の行成との事件のせいで、実方が気性の激しい性格だったと言われてしまうこともある)。漫画「うた恋い。」では清少納言に送ったとされているが、もしかしたら本当に彼女に歌った可能性もなきにしもあらずである。
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最終更新:2024/04/19(金) 02:00
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