藤原彰子 単語

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藤原彰子(ふじわらの しょうし / あきこ、988~1074)とは、第66代天皇一条天皇皇后である。

概要

藤原道長倫子の長女で、藤原頼通

999年に一条天皇の女御として入内し、翌年に中宮となる。これによって、それまで中宮だった藤原定子子から見れば従姉)は皇后宮と形式的には身分が繰り上がり、日本史初の一二后となった。長の強引な政策で心労が重なった定子は間もなく難産で死去、子が名実共に一条天皇の后となるが、定子を深く愛していたの悲しみは計り知れず、子も幼かったこともあり、しばらくは形ばかりの夫婦だったと言われている。

清少納言を輩出した定子のサロンに対抗するため、長は子のサロンを活気づけて一条天皇を向けさせることに力を注いだ。彼女教育係として、源氏物語が口コミで人気を集め始めていた紫式部を起用した他、良妻賢で人望が厚い赤染衛門多き女性として良くも悪くも名高い和泉式部とそのの小式部内紫式部推薦によって名を高めた伊勢大輔、式部の一人・大弐三位など、多くの優れた歌人が女房として子の元へ集まった。

1008年に第一子の王(後の後一条天皇)を出産、「紫式部日記」では孫の誕生を大喜びす長の姿が描かれている。その翌年には王(後の後朱雀天皇)を産み、子は2人の天皇母親となった。1011年に一条天皇が病し、三条天皇が即位すると、王が皇太子となった。しかし意外にも子はが子の立太子に反対だった。と言うのも、彼女は定子の忘れ形見である王を実子以上に可がっており、長の側近である藤原行成に養育させていた。自分が入内したことで命を縮めてしまった定子に対して、子は心苦しく思っていたようで、その罪滅ぼしとして王を育てていたのである。

行成の日記「権記」や赤染衛門が記したとされる「栄花物語」によると、子は長が王を差し置いて、王を皇太子にした長の行動に怒り、の関係は悪化の一途を辿っていくこととなる。三条天皇には同の妍子が入内していたが、王を即位させたい長は眼病や内裏の火災男子が生まれないなどの様々な難を付けて、遂に三条天皇を退位に追い込んでしまう。を犠牲にしてまで天皇の外祖になりたがる長に対して、子は長のライバルである藤原実資を重用、子の対立は決定的なものとなってしまう。後一条天皇の即位後、の寛子・嬉子・妍子が相次いで亡くなり、達に先立たれたショック長もやがて病に倒れて死去。その前年に子は出し、上東門院と号した。

長の死後、子はの頼通と協力して藤原摂関を支えるが、後冷泉天皇皇后となった頼通の一人の寛子(長のとは同姓同名の別人)は男子が生まれず、摂関との血縁関係が薄い後三条天皇(但し、子にとっては孫にあたる)が即位すると、摂関の衰退はもはや止められないものとなった。また、頼通が藤原教通から、末子の師実に関白の座を譲るように迫った時は、頼通が長の遺言に背くとして反対した。頼通が亡くなった8ヶ後、子は87歳の長い生涯を終えたが、その後半生は摂関皇室の間で常に気苦労が絶えなかった。また、長生きした分、息子の後一条天皇と後朱雀天皇、孫の後冷泉天皇・後三条天皇に先立たれる不運に見舞われ、彼女が亡くなったのは後に院政を始める白河天皇の御世のことだった。

子でたびたび登場する定子にべて、子は古典文学作品ではあまり立たない存在である。しかし、意外にも平安時代古典を元にした現在漫画小説では、子の登場回数は多い。特にライトノベル少年陰陽師」ではメインヒロインとして描かれており、pixivイラストの大半が少年陰陽師関係のものである。

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