藤原隆家とは、藤原道隆の息子であり、藤原道長に追い落とされた中関白家の一員、さらに水無瀬流藤原氏の祖である(979~1044)。
古文でおなじみの兄・藤原伊周や姉・藤原定子にくらべると、受験生にとっては日本史の刀伊の入寇でおなじみの人でもある。
11世紀初め、藤原道長が摂関政治の頂点に立ち栄華にあずかったそんな時期、その裏には当然彼に敗れ消えていった人々がおり、その代表的な存在が中関白家である。
彼の父藤原道隆といえば、円融天皇の外戚と摂関の座を兄・兼通と争い、花山天皇の失脚によってついに一条天皇の下で繁栄を謳歌した藤原兼家の長男である。当然兼家の死後その座を受け継ぐこととなり、一条天皇に定子が嫁ぎ、古典『枕草子』に見られるような中関白家の繁栄の時代が花開いたのである…いや、であった…
破滅は唐突に訪れる。10世紀末、特にこの長徳年間は疫病が蔓延しており、それと関係してかしなくてか、藤原道隆が酒毒のために995年に亡くなったのである。そして跡を継いだ弟である粟田殿・藤原道兼も「7日関白」という異名が残るほど短期間で亡くなり、さらに弟である藤原道長がタナボタ式に政界のトップの栄冠を得ることとなったのである。
この時藤原道長29歳、対する中関白家の人々は藤原伊周22歳、定子18歳、藤原隆家16歳、この事態に対処できないのは明白であった。『小右記』によると伊周によってある程度の抵抗は行われたものの、何ら対処できないまま朝廷の政界地図は塗り替わってしまったのである。
さらに悲劇は続く。このような状況のさなか996年、伊周・道隆兄弟が、前述した通り失脚してすでに政治生命を絶たれていた花山院に痴情のもつれと誤解から矢を射かけてしまったのである。伊周は若干21歳で内大臣、道隆は17歳で中納言につくように出世街道を上りつめていた彼らも、それぞれ太宰権帥、出雲権守に左遷、中央から排除されることとなった。
彼らはその後1、2年で帰郷を許されたものの、依然として伊周と道長の対立は続いていく。そのなかで定子が999年に一条天皇との間に敦康親王を産んだことが、一家にとっては最後の希望の星となったかもしれない。しかし道長による彰子の入内によって皇后定子・中宮彰子、という同じ立場の后が二人並立するという異例の事態が生じたのである。
そして1000年に定子が亡くなり、さらに彰子と一条天皇の間に二人の王子(のちの後一条天皇と後朱雀天皇)が誕生、失意の中藤原伊周も1010年、37歳の生涯を終えた。
藤原隆家はその後敦康親王の即位をかけ反主流派である三条天皇のグループに接近、道長の家司でありながらアンチ道長であった小野宮流・藤原実資とも協力関係を築く。しかしそんな彼の後半生を彩るのが刀伊の入寇である。
刀伊の入寇とは1019年に満州・沿海州方面から女真族が北九州を襲撃した事件であり、元寇に比べるまでもない規模ではあったものの、当時大混乱を巻き起こした。その対処にトップとしてあたったのが、当時眼病治療にかこつけて1014年以降太宰権帥についていた隆家である。
当時は中小貴族が家業によって家門を形成し、承平・天慶の乱の功臣たちの子孫も蝦夷から伝わってきた武芸などをそれとし、武をつかさどる清和源氏・桓武平氏・秀郷流藤原氏、といった軍事貴族が現れつつあった。隆家はこれらの人々、つまり平為賢、平致方といった「都ノ武者」、大蔵種材といった地元の住人、を現地で指揮し、2週間にわたる防衛戦を見事に耐えきったのである。捕虜を護送してきた高麗の使者に黄金を渡すなどの、彼の豪放で快活な性格がその任に適していたのかもしれない。
しかし一方で中央では三条天皇は廃され、完全に道長の天下となっていた。隆家は刀伊の入寇の4年後である1023年中納言を辞し、以降各職を歴任するもどちらかといえば冷遇されたといっていい生涯を送った。そして1044年67歳で亡くなったのである。
中関白家は以降も伊周の息子・藤原道雅が乱行などの暴走を起こし、以来政界からはパッとしない存在として徐々に消えつつあった(ていうか伊周の子孫は消えた)。
しかしそんな中、藤原隆家の子孫に再び表舞台に上がる転機が訪れる。それは院政の始まりである。天皇とそれを支える摂関などの機構とは別に、院とそれを支える人々が核となるシステムが前提として必要であった。その役割を担ったのが各国受領を歴任し財政基盤となった、あるいは文筆を家業とし官僚的性格の強かった、そのような中級貴族たちである。そしてその中の一つが隆家の子孫だったのである。
隆家の豪胆な性格が影響したのだろうか。承平・天慶の乱と軍事貴族の成立は遠い昔となり決して武をつかさどる家ではなかったのだが、どうも子孫は武門的な性格を帯びていくこととなった。保元の乱のあと平清盛とともに朝廷の軍事をつかさどり、平治の乱の原因となった後白河院の寵臣・藤原信頼(学会の東と西の対立で異論も多いけど)、その兄で奥州藤原氏と協力関係となり、藤原秀衡を娘婿として運命を共にした藤原基成、後鳥羽上皇のもと院に仕え鎌倉とのパイプ役として娘藤原信子を将軍・源実朝に嫁がせた坊門信清・およびその息子で実朝の暗殺後承久の乱で上皇方の大将軍を務めた坊門忠信、といった人々である(あと平家に嫁いだ池禅尼あたりも)。
ただしメンバーを見ればことごとく察しが付くと思うが、こうした人々は順次失脚していき、隆家の系統は承久の乱のあと子息に後鳥羽上皇から離宮を預けられた藤原親兼の子孫が続いていくこととなる…
その離宮の名、水無瀬を苗字としながら…
こうして隆家の子孫は水無瀬と分家の七条、町尻、桜井、山井の五家が堂上公家として残り、明治維新以降、そして今もなお脈々と続いているのである…
掲示板
5 名無し
2019/11/26(火) 02:27:01 ID: 1xdlFkI/Yc
刀伊の入寇から1000年
奮闘したのにNEWSにも取り上げて
貰えなくて可哀想
6
2020/12/31(木) 17:45:27 ID: EmGzXfPpYP
ボンボンDQNでしかなかったが軍才はあったので人間適材適所だわな
晩年は(伊周にやらされたとはいえ)射殺そうとした花山院や実資ともうまくやってるし落ち着いたんだろう
7 ななしのよっしん
2023/09/27(水) 17:42:50 ID: 5ZwTMME4/C
高校国語でほぼ枕草子のクラゲの骨の下りをやらされるせいで何もしらんボンボン属性つくのかわいそう
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最終更新:2024/04/24(水) 16:00
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