「藤堂高虎」(とうどう・たかとら 1556 ~ 1630)とは、外様大名でありながら徳川十七将に数えられ、
「常に死を覚悟していれば、心は動じない」
と各地で戦功を挙げ、内政・知略にも定評のある戦国時代のティターン族である。
「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」
の言葉に代表されるように主君を何度も変えていることから、不義理者とされて不当に評価を落とされていることが多い。しかし実際には仕えた主君を裏切った事はなく、自分を評価してくれた者には相応の結果を出そうと滅私奉公の如く働いた。知勇兼備の将であり、戦国時代の三大築城名人の一人に数えられる一級建築士でもある。
近江国藤堂村の土豪・藤堂虎高の次男に生まれる。元々は武士に家系ながら父の代には衰退してほぼ農民同然の状況だった。
生まれたときから人一倍乳を飲み、泣き声を一切あげなかったと言われ、5歳ごろには大人と同じ量の食事を食べて、身長6尺2寸(約190cm)・体重30貫(約110kg)の巨漢に成長した。
近江国の大名・浅井長政に仕えた藤堂高虎は、姉川の戦いで初陣を飾り、戦功を挙げて浅井長政より感状を与えられる。
しかし当時はまだ巨大な体をもてあましていたのか、同僚を諍いの果てに殺してしまった為に出奔し、元浅井家臣の阿閉貞征に仕えたが一ヶ月程で出奔。
これではいけないと武勇以外の術を学びながら浪人生活を送る中で織田信長に浅井長政が滅ぼされると、元浅井家臣で織田信長に降伏した磯野員昌に仕える。2年ほど仕えた後、織田信長の縁者である津田信澄に80石で仕えた。丹波攻めで戦功を上げるものの津田信澄に嫌われていたのか加増されず、この事を不満として出奔し羽柴秀吉の弟・羽柴秀長に300石で仕えた。
農民出身の羽柴秀長とは気があったのか、それとも播磨三木城攻めに従軍して戦功を上げると名馬「賀古黒」と3000石の加増を受けた事から、自分を評価してくれる上司に巡り合ったと感じたのか、藤堂高虎は羽柴秀長に対して忠節を貫く。
羽柴秀長に従って中国征伐や賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いに従軍して戦功をあげて4600石に加増され、紀伊雑賀攻めでは雑賀党の首領・鈴木重意を自害に追い込み、四国征伐では敵将・谷忠澄を説得して降伏させる等して謀略面でも活躍。
得意の築城技術を用いて徳川家康の京都屋敷を自費で普請して徳川家康と誼を結び、九州征伐での戦功で2万石の大名になった。
豊臣秀長(羽柴秀長)が没すると、養子の豊臣秀保を後見し、まだ若年の豊臣秀保にかわって文禄の役に参加して渡海する等、大和豊臣家に対して奉公した。4年後、豊臣秀保が早世して主家が断絶すると、主君二人を弔う為に高野山にて出家して隠棲した。しかし藤堂高虎の才能を惜しんだ豊臣秀吉により還俗させられて、伊予宇和島7万石の大名となる。慶長の役には水軍を率いて慶長の役に参加して海戦で勝利し、8万石に加増された。
が、秀吉が没した後の時代を先読みした藤堂高虎は、いち早く徳川家康に接近して諜報役として働き、情報分析に務めて徳川家康の危急を度々救った。豊臣秀吉が没した後に発生した関ヶ原の戦いでは、豊臣恩顧の武将でありながら徳川家康の東軍についた。
このとき朽木元綱・脇坂安治・小川祐忠・赤座直保らを裏切らせる事前工作を担当し、本番では大谷吉継の本隊と戦って東軍を勝利に導き、戦後は伊予半国分にあたる20万石を与えられた。
その後は、多くの外様大名が江戸から遠ざけられる中で、徳川家における外様筆頭の藤堂高虎は逆に、伊予・今治20万石から伊勢・津24万石へとより江戸や徳川家康の居た駿府に近いところへと異動となるという異例の人事を受ける。徳川家康に一目置かれた存在となり、大坂冬の陣においても徳川軍として参加して外様組の先鋒を務めた。
このときは真田丸に籠もる真田信繁に大ダメージを与えられた他、家臣の統率に失敗する等あってこれといった大きな戦功を上げることは無く、大坂夏の陣では多数の家臣を失った。しかし犠牲を厭わぬ猛攻が評価されて戦後に32万石に加増された。
江戸幕府の体制が確立して以降も、外様の筆頭として仕えて日光東照宮の造営や、徳川秀忠の娘の入内に奔走し、
和子姫が入内できなかった場合は責任をとり御所で切腹する
と言って反対派を黙らせる等、老いても盛んに働いていたが、晩年には眼病を患って失明し、享年75歳の人生を終えた。
藤堂高虎が造営を担当した徳川家康の廟・日光東照宮には、徳川家康の像の隣に南光坊天海と共に藤堂高虎の像が並べられている。
※その他「藤堂高虎」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
「忠臣二君に仕えず」の風潮が強くなった江戸時代以降は、七人もの主君に仕えた藤堂高虎は、
と言うひどい評価を受けている。※転職回数は可児才蔵の方が多いのだが・・・
コーエーの「信長の野望」シリーズ近作では、能力そのものは高めになっているものの、義理=1と言う所謂ギリワンに分類されており、調略に応じて寝返りやすかったりする。
しかし藤堂高虎自身は調略によって寝返った事がない。そもそも戦国時代の価値観では、自分の働きに見合った恩賞を与えて且つ将来性のある主君を自分で選ぶのは当たり前で、何度も主君を変えるのは不忠でも卑しい事でもなかった。江戸時代に儒教の教えが広まってはじめて藤堂高虎は不忠キャラにされてしまった。
この評価の原因には、リクルート回数の多さや、豊臣秀吉の死後に豊臣恩顧の武将ながら徳川家康に近づいて
自分を家臣と思って使ってください
と接近した事があげられる。藤堂高虎はこの事については、
己の立場を明確にできない者こそ、いざというときに一番頼りにならない
と言う正論を残しており、羽柴秀長に仕えた際はきちんと評価してくれることから15年程つかえて滅私奉公の如く働いている。他にも
といった前の主君に対して筋の通る行為を行ったり、忠義や評価を忘れないところを見せた。徳川家康に仕えていた際も、重要視されることについて藤堂高虎自身は、
わしも特別なにかやった覚えはない。
だが、わしは誰よりも早く江戸城に上がり、帰るときは誰よりも遅かった。
と答えている。
世渡りの為に主君を取り替えていったわけではないことは明白であり、その才能は豊臣秀吉と徳川家康が認め、その奉公振りは徳川家康が大坂夏の陣に備えて伊賀上野城の改修を藤堂高虎に命じた際に、
万一の時は高虎と上野城で枕を並べて討ち死にし、秀忠は彦根城でもう一戦やらせよう
と考えていた程だったといわれている。
他には徳川家康が外様の藤堂高虎を重要視した事も、藤堂高虎の悪評につながっていると言える。徳川譜代の家臣からすれば功績十分で攻めるところが無い藤堂高虎に対して「お前は主君をとっかえひっかえした不忠な奴なんだぞ。俺らは譜代なんだぞ。忠臣なんだぞ」と言い張ることしかできない。そんなつまらない事が背景にあると考えられる。
不義理者でも、裏切り者でも変節漢でも無く、律義で滅私奉公する藤堂高虎こそ、正しく評価されるべき戦国武将である。
とりあえず・・・義理が松永久秀と同じと言うのはどうにかならないものだろうか。コーエーさん。
戦国時代の三大築城名人に上げられる藤堂高虎の築城術は、武勇だけでは出世が望めないと判断して勉学に励んだ結果のものだった。
藤堂高虎の築城スタイルは、白壁を多く使い、高く積み上げられた石垣と掘の設計、そしてとにかく堅牢である事に定評がある。
特に藤堂高虎が築いた
の改築等に参加し、城の縄張りや城下町の設計まで行った事がある他、徳川家康の廟となった日光東照宮の造営や、徳川家の菩提寺となる寛永寺の建立にも携わった。
藤堂高虎は、自らが農民同然の身から立身出世した事もあり、家と言う概念に縛られない実力重視主義者だった。
その為、常日頃より家臣たちには
自分が嫌になったら、他に仕えても良い。
そしてそこが嫌になったら、又戻って来い。
元の禄で召抱えてやる。
と言い、実際に一度出奔した後に戻ってきた家臣は元の禄で召抱えた。
家来を使うのに、禄だけでは人は信服しない。
仕えている以上、禄をもらうのは当然だと思っているからだ。
人には、情けをかけて接しないといけない。
そうしてはじめて意気に感じ、命を捨てて恩に報いようとするものだ。
と苦労人だけど律義者な藤堂高虎らしい理由を述べた。
しかし江戸幕府が立ち上がると、やれ届出なしに城を改造したとか、やれ跡継ぎ認めないからとかのつまらないいいがかりで改易される大名家が続出した事も考慮したのか、家臣の入れ替わりに厳しくなった。大坂の陣の頃には、関ヶ原の戦いで大暴れした渡辺了を2万石で召抱えていたものの、大坂冬の陣の時は、家臣の失態を激怒した藤堂高虎が「この臆病者どもが」と悪態をついたり、夏の陣の際は、渡辺了の
備えをきちんとして堂々と戦えばよい
と言う進言を無視して、大きな戦功が無い事を気にしてか豊臣秀頼軍最強武将の毛利勝永に正面からぶつかるよう命じた為に70名もの戦死者をだしてしまった。愛想をつかした渡辺了は出奔してしまい、藤堂高虎も「奉公構」の触れを出して渡辺了を他家に仕官させないようにするようにしてしまった為に、渡辺了は浪人のまま没するといった事も起こしていたりする。
戦国時代のジャイアントこと藤堂高虎は、体格の割りに酒をあまり飲まず、家臣や他人に振る舞う方を好み、夜な夜な宴会を催していた。
宇和島を領していたある時、家臣達が飲めや踊れやと騒いでいる夜中に雨が降り始めると、藤堂高虎は庭先に下りて刀を一閃した。
酒の肴を作ったぞ
関ヶ原の戦いが、藤堂高虎の尽力もあって東軍勝利で終わると、捕縛された西軍総帥の石田三成と藤堂高虎が巡り合った。
藤堂高虎は、
この度の戦において貴公の部隊の戦い振りは、敵ながら誠に見事でした。
もし貴公の目から見て我が部隊の至らぬ点があれば、ぜひ御教授願いたい。
貴公の部隊には鉄砲隊に高い身分の指揮者がいないように思えた。
改善すれば鉄砲隊の威力も大きく変わってこよう。
と答え、以降、藤堂家では、先鋒の鉄砲頭は千石以上の家臣が担当する事が厳命されることとなった。
戦国時代から江戸時代初期は、尊敬する主君が死んだ際には、後を追って殉死することも美徳とされていたが、藤堂高虎は、
わしが死んだときに、殉死する者は姓名を書いてこの投書函に投書せよ。
我が家中にはこれだけ忠義の家臣がおり、わが家の宝でござります。
この者達が殉死すればわが家は天下の先鋒の役目を果たすことが出来ません。
どうか、上様の上意をもって彼らの殉死を禁止し先鋒を申し付け下さい。
天下に大事ある時は一の先手を高虎、二の先手を直孝
との言を残した事で、戦争時には譜代は井伊家が、外様は藤堂家が先鋒を務める事が確定した。
跡継ぎの高次は不肖の子で、国を保てませぬゆえ、某が死んだ後は速やかに国替えをお申し付け下さい。
と願いでたが、その話を聞いていた徳川家康は、
そなたは先年殉死者名簿を提出し、彼らの殉死を禁止したことがある。
彼らのようなよき侍が多ければ、せがれの出来が悪かろうと立派に奉公できるであろう。
と言って藤堂高虎をなだめ、
藤堂家は末代までも伊賀・伊勢から動かしてはならない
と言い残したことから藤堂家は明治まで所領を変更されることなく存続した。
藤堂高虎大勝利!
徳川家康が死の床にあった際に、藤堂高虎は外様大名では唯一枕元に侍ることを許された。
徳川家康は、
そなたとも長い付き合いであったが、わしの命も尽きたようじゃ。
そなたの働きを、わしは感謝しておる。
ただ心残りはわしが死んだら、もはやそなたと来世では会うことができぬことじゃ。
と藤堂高虎に無念の気持ちを言葉にして伝えると、藤堂高虎は、
それがしは来世も変わらず大御所様にご奉公する所存でございます。
と答えた。このとき徳川家康は天台宗で、自身は日蓮宗と宗派が違うことを指摘されると、藤堂高虎は別室に居た南光坊天海を訪ねて、その場で日蓮宗から天台宗へと改宗の儀を執り行って徳川家康の枕元に戻り、
これで来世も大御所様にご奉公することがかないまする
人によってはあざとい行為に見えるかもしれない。しかし一般的な不義理武将ではなく、評価してくれる人物の為なら滅私奉公の如く働く藤堂高虎にとって、譜代同然の外様筆頭と言う立場にしてくれた徳川家康に対して、自身の宗派の事など小さな問題にすぎなかったのだろうと思われる。
藤堂高虎は、二百に及ぶ遺訓を口述筆記したものを残している。
大まかには
等が200にも記されているのだが、最後に更に不安になったのか4つ程追加されている。
※高山公御遺訓の原文と現代訳及び解説は、おおた葉一郎氏のブログ「おおた 葉一郎のしょーと・しょーと・えっせい」に記載があるので興味ある方は↓のリンクから開きます。
六尺二寸の御遺骸にはあいたところのないほどに戦場傷があって数えられないほどであった。
右手の薬指と小指は切れ爪が無かった。
左手の中指も一寸ほど短く、左足の親指も爪が無く、
左右の手の残った指の腹には、ふしくれだったまめがいくつもあった。
と言う羽柴家(豊臣家)そして徳川家で戦場を駆け回った満身創痍の体だった事が残されている。
特に、徳川家康に従ってからは、関ヶ原の戦いでは、西軍の名将・大谷吉継と正面から潰しあい、大坂の陣では真田信繁を超える戦功が埋もれている大坂方最強武者・毛利勝永と戦う等、敵軍の主力に相対している。
この忠節をもってしてもギリワンと評価されるべきなのだろうか。
戦国無双クロニクル2ndにてプレイヤー武将として初登場。CV松風雅也。使用武器は細剣。
主君への忠義(特に浅井長政に対して)が強く描かれており、忠義のために死ぬのはただの犬死であり、「生き延びてこそ真の忠義」であると考えている。その考えは長政よりの言葉による物で、その言葉通り彼は最終的に下級武士から徳川一番手まで上り詰めた。
同じく築城の名手である加藤清正とはどちらがいいかで揉めて言い争いをしていたりする。
ちなみに基調は青色であり、パッケージなどでも真田幸村とともに描かれていることから、幸村との対比キャラとしてデザインされたものと思われる。また、基調が青色なのは、彼が最初期に仕えた浅井長政のイメージカラーが空色で最終的に仕えることになる徳川家康のイメージカラーが青色だからと思われる。
戦国無双4にてナンバリングに初参戦する。本作では同時に参戦した大谷吉継との友情を主軸に描かれており、関ヶ原の戦い(西軍)の後のイベントムービーは必見。東軍シナリオでも戦後イベントが用意されている。
「生き延びてこそ忠義」という信念は浅井長政から直接諭されたもので、直江兼続に「友を討つからこそ、『生きて』戦国の時代を終わらせなければならない」と熱弁する場面もある。
ちなみに、今作では浅井滅亡後は秀長他に仕えた時代をすべて飛ばして家康に仕えており、そのことを残念がる高虎ファンも多い。史実じゃ六回主君変えたのに一回だけっておい・・・
しかし「生き延びてこそ忠義」という信念と生き様、一見斜に構えているように見えて実は熱い性格、吉継との友情とそのイベントムービーに心打たれた人も多いようで、戦国無双4における人気投票では初登場で3位にランクインした。
本編以外でも、朝日新聞に「戦国武将・藤堂高虎、人気じわり ゲームにも登場」という記事でまとめてもらったり、ANAの機内番組「SKY EYE~空からのメッセージ~愛媛編」で解説役をしていたりと、江戸時代以降のひどい評価および同じコーエーゲームでのギリワン設定からのし上がるべく、日々奮闘している無双高虎である。
めざせ、大河主人公!
「俺が藤堂高虎だ、良く覚えておきな!」
Ver1.1で浅井にいた時の高虎が登場している。1.5コストとしては最高峰の武力6統率4とバランスのよいハイスペックに攻城持ち、と浅井だけでなく他の勢力にも問題なく混ざれる単独で完成された能力である。
計略の「流転の構え」は武力が上がるだけの計略だが自分にかかっている計略を消すと武力が更に上がる。相手の妨害計略を無効化しつつ武力を上げられる他、浅井・朝倉には敵味方無差別で妨害をかける計略が豊富に揃っているので、所属勢力にも合った計略となっている。
▼浅井家の将として武勲を立てて名将の片鱗を見せる「伊織立志伝/伊織幻戦記」
▼黒田家に所属する如月千早の副官を務める軍師として史実通りな有能さを見せる「アイマス戦国酔夢譚」
▼「信長の野望革新PK」地方別武将ランキング近畿編にチート枠で登場。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 70 | 政治 | 79 | 魅力 | 68 | 野望 | 73 | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 76 | 政治 | 68 | 魅力 | 70 | 野望 | 67 | 教養 | 70 | ||||
覇王伝 | 采配 | 82 | 戦闘 | 61 | 智謀 | 65 | 政治 | 87 | 野望 | 77 | ||||
天翔記 | 戦才 | 136(B) | 智才 | 172(A) | 政才 | 174(A) | 魅力 | 72 | 野望 | 85 | ||||
将星録 | 戦闘 | 70 | 智謀 | 91 | 政治 | 93 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 72 | 戦闘 | 62 | 智謀 | 87 | 政治 | 93 | ||||||
嵐世紀 | 采配 | 69 | 智謀 | 83 | 政治 | 84 | 野望 | 84 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 69 | 知略 | 83 | 政治 | 85 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 70 | 知略 | 84 | 政治 | 82 | 教養 | 65 | ||||||
革新 | 統率 | 77 | 武勇 | 64 | 知略 | 95 | 政治 | 93 | ||||||
天道 | 統率 | 77 | 武勇 | 64 | 知略 | 93 | 政治 | 92 | ||||||
創造 | 統率 | 81 | 武勇 | 78 | 知略 | 87 | 政治 | 92 |
掲示板
158 ななしのよっしん
2021/11/21(日) 00:04:24 ID: q7RxCNl5Yz
他家の大名の家臣を勝手に大名にすることに定評のある秀吉も、
さすがに弟の家臣には手を出さなかったな
秀吉が好みそうな武人だから、コナくらいはかけてたかも・・・
159 ななしのよっしん
2021/12/24(金) 08:10:11 ID: hTj4B31YKl
秀長とか養子の秀保が亡くなった時に高野山に引き籠ったけど才能惜しんで説得して伊予の宇和島に復帰したから大名にはしてるっちゃしてる
てかこのエピソード知ると滅茶苦茶義理堅いなぁって思う
160 ななしのよっしん
2023/06/15(木) 15:25:25 ID: eLQy9qPcsz
>>159
あの話、大和羽柴家を再興しろっていうストライキだったかもしれないんだよな
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最終更新:2024/04/19(金) 15:00
最終更新:2024/04/19(金) 15:00
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