蘆名義広 単語

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アシナヨシヒロ

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蘆名義広(あしな・よしひろ 1575 ~ 1631)とは、陸奥会津戦国大名である。名氏20代。のち蘆名盛重(もりしげ)と名した。

概要

戦国大名としての名氏最後の当

常陸戦国大名佐竹義重息子佐竹氏の東北進出にあたってまず白河結城氏の、その後名氏の養子となって督を継いだ。だがこの督を巡って佐竹伊達とに中が分裂してしまい、その混乱を鎮められないまま伊達政宗に敗れる。

その後は実家のある常陸亡命。関ヶ原で佐竹氏が秋田に移封されるとそれに従った。

生涯

白河時代

佐竹義重の次男として誕生。佐竹義宣

義広が産まれたのとほぼ同時期、州の入り口である白河の地を治めていた白河結城氏で内紛が起こり、庶流の小峰義白河)が当の座を奪い取っていた。この白河バックにいたのは会津の大大名・蘆名盛氏だった。

佐竹義重は更にここに介入して圧を強め、白河氏を従属させた。1579年に義に養子として送り込まれて白河義広名乗り、わずか5歳白河の当となる。佐竹氏はさらに浜通り岩城氏も勢下に置き[1]石川[2]とも手を結ぶなど、着々と南奧へのを強めていった。

蘆名氏の混乱

1580年に蘆名盛氏が死去した後の名氏は迷走していた。盛氏の実の子・名盛(17代)は先立って亡くなっており、代わって二階堂盛義の子・蘆名盛隆が養子として跡を継いだ(18代)。が、盛1584年に暗殺されてしまう。

の遺児・王丸(生後1ヶ)が19代当となるが、1586年に3歳で病死し、名氏は当不在となってしまった。また同時期、伊達政宗が急速な拡大路線にをきっている。名・伊達佐竹という大勢間のバランスは非常に危ういものになりつつあった。

名氏の古参臣の多くは、以前から繋がりの深い伊達から政宗の伊達小次郎を養子に迎え入れようとした。だが政宗の路線変更に警した金上盛備らは佐竹家出身の義広を養子に推す[3]。この争いは凄まじい泥沼と化した末、上の手腕で佐竹勝利に終わった。

こうして1587年、20代・蘆名義広が誕生した。
・・・が、中の裂はもはや修復不可能なところまできてしまう。未だ13歳の義広にそれを収めさせるのは酷というものであった。しかも佐竹から送られてきた補佐役である大縄義上らは伊達を露に冷遇していく。

なお白河結城氏は再び白河が当となり、のちに彼の甥が跡を継いだ。

摺上原の戦い

1585年の人取の戦い以来、佐竹義重伊達政宗に対する包囲網を強めていった。義広の養子入りもその一つである。さらに相馬義胤や須賀二階堂[4]佐竹側につき、いまや三田村氏以外はほとんどが反伊達佐竹となっていた。

1589年。最上大崎との戦いを一段落させた伊達政宗は、名を攻めるにあたって要衝・苗代を守る苗代盛苗代盛胤子が対立しているのにを付けた。盛は以前の後継者レース伊達だったこともあり、苗代ごと寝返りに応じる。こうして伊達軍は米沢苗代の二方面から会津へと侵入してきた。

6月5日名軍は苗代方面の政宗本隊に野戦を挑んだ。苗代子は互いの先に立って突している。ところがここでも中の泥沼っぷりが露呈し、普段冷遇されていた伊達臣たちがことごとく命無視・戦線離脱してしまった。更に石川二階堂の援軍も撤退してしまい、名軍は総崩れ、金上盛備は討死した。

義広はなんとか本拠地・黒川まで戻ったが、もはや伊達に対抗する兵も士気も確保できず、を捨てて常陸へ落ち延びた。ここに戦国大名名氏は滅亡した。このとき義広と共に逃亡したのはごく一部で、名旧臣の多くは伊達替えしている。

その後、石川白河も政宗に降し、佐竹は大きく失われた。

江戸崎時代

常陸に移ってからは蘆名盛重名している。

1590年、豊臣秀吉小田原征伐・州仕置により下は統一された。政宗が切り取った会津の旧名領は惣違反でボッシュートされたが、これは蒲生氏郷に与えられ、盛重の会津復帰はわなかった。

その代わり常陸江戸崎4.5万石が与えられ、名氏は豊臣政権の独立大名として復した。(まあ事実上、佐竹54万石の一部なんだけど・・・)

だがそれも長くは続かず、関ヶ原の戦い佐竹義宣が西軍寄りだったため、領地はまとめてボッシュートされた。盛重自身は・義重同様に東軍を支持していたらしいのだが、これ以降名氏が大名に返り咲くことはなかった。情。

角館時代

佐竹氏が出羽に移封されると、かつて戸沢氏の居だったを任されることになった。以降は一門として佐竹臣・久保田士として生きる。また名義勝名している。現代にまで残る館の下町の基礎を作った。ほか、名氏の菩提寺であった寧寺を館にも創建している(会津寧寺を本寺とする)。

1631年、57歳で死去。若き日は周辺情勢に振り回される身であり、どうしてもその頃の印立つ人物ではあるが、後半生は領として新地をよく治めた。

子孫・その後

正室・小杉山御台は名盛。だが彼女との間に子は生まれなかったようだ。

長男名盛泰は後継男子のいなかった佐竹義宣の養子に迎えられる予定だったのだが、実現前に22歳で世してしまった。(1595-1616)

次男・名盛利は義広(義勝)が亡くなった後に誕生し、名氏21代当となった。こちらも21歳の若さで病死。(1631-1651)

盛利の遺児・千鶴丸が2歳で22代当とされたが、1653年、義広たちの眠る寧寺に参詣した際、縁側から転落して事故死してしまった。4歳だった。

世に次ぐ世の末に1656年、は断絶させられることが決まり、かつて栄を誇った名門は静かに消滅した。その後の館は佐竹が治めていく。

一方、名氏の分筋である針生盛信(14代・蘆名盛滋の曾孫)は摺上原の戦い以降は伊達政宗に仕えていた。本家断絶後、この仙台系が1676年に名へと復姓している。

関連項目

脚注

  1. *のちに義広の(義重三男)岩城が跡を継ぐ
  2. *伊達輝宗の四
  3. *伊達稙宗の妻は蘆名盛舜で、義広も小次郎もその曾孫にあたり、名の血を引いている
  4. *二階堂盛義未亡人で、伊達輝宗である大乗院阿南姫事実上の当を務める
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