袴田英利(はかまだ ひでとし)とは、元プロ野球選手である。
OB | |
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袴田英利 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 静岡県静岡市 |
生年月日 | 1955年8月13日 |
身長 体重 |
174cm 80kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 捕手 |
プロ入り | 1977年 ドラフト1位 |
引退 | 1990年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
1955年8月13日生まれ。静岡県静岡市出身。中学時代は県大会優勝チームのメンバーに名を連ねるなど県内でも有名な選手であった。
静岡県自動車工業高等学校に進学。4番・キャッチャーとして攻守でチームの中心選手として活躍し、3年夏には県大会決勝まで勝ち進んだものの敗退し、甲子園大会出場の夢は叶わなかった。その後、秋にはドラフト会議でロッテオリオンズから3位指名を受けたが、東京六大学リーグでプレーしたいと入団を拒否している。
卒業後、法政大学へ進学。同期には江川卓、1学年上には高代延博らがいた。当時の法政大は捕手の層が非常に分厚かったが、2年時から正捕手として活躍。江川とバッテリーを組み、5度のリーグ優勝・2度の明治神宮野球大会優勝を経験するなど、法政大の黄金時代を形成。袴田自身も在学中4度ベストナインを受賞し、大学日本代表メンバーに選ばれるなど、大学No.1捕手とも評されるようになっていた。
1978年ドラフト会議にて、ロッテオリオンズから1位指名を受け入団。
初年度の1978年、期待は高かったが、高橋博士・土井健司らの壁は高く、なかなか出場機会を得られない日々が続いた。
1982年、一軍に定着し96試合に出場し、打率.208、2本塁打、19打点をマーク。オールスターゲームにも初出場を果たした。翌1983年には86試合に出場。
1984年、初めて規定打席に到達し、打率.259、5本塁打、49打点をマーク。
1985年、打率.242、8本塁打、50打点をマークし、オールスターゲームにも出場。
1986年、自己最多の9本塁打を放った他、パ・リーグ最多の34犠打をマーク。
1989年頃から徐々に出場機会を失う。
1990年、同年は12試合の出場にとどまった。村田兆治の引退試合でバッテリーを組んだ際、袴田も引退を決意し、袴田にとってもこの試合が引退試合となった。
引退後は古巣のロッテや埼玉西武ライオンズ、独立リーグの武蔵ヒートベアーズなどでコーチを務め、里崎智也、森友哉らを育成した。また1997年~1999年にかけてはロッテのスカウトとして活動し、前述した里崎智也の逆指名獲得に漕ぎつけている。
堅実なリードと強肩、ブロッキング技術の高さでロッテ投手陣を引っ張った正捕手。
アマチュア時代は江川卓、プロ入り後は村田兆治の相棒役としても有名。村田と組む際には、ノーサインで投球させていた。後逸しやすいフォークを決め球とする投手であったことからリスクが高かったが、ブロッキング技術の高さを活かし最小限の後逸数にとどめていた。
1990年にラルフ・ブライアントとのクロスプレーにより脳震盪を起こし伸びていたところ、白衣を着た高齢の医師がゆったりとした歩調で診断にやってきた様子が「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」でコミカルに取り上げられ、現在でも歴代の名珍プレーとしてよく話題にあげられる。また、袴田本人も後に映像を見て笑ってしまったと語っている。
漫画「ドカベン プロ野球編」では、里中智を指導し、スカイフォークを習得させた他、相棒役の瓢箪駒吉を育成し、里中の結婚式では仲人を務めるなど、重要な役割を担った。
通算:13年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 911 | 2560 | 2247 | 209 | 519 | 38 | 231 | 9 | 143 | 9 | 138 | 23 | 314 | 67 | .231 | .281 |
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最終更新:2024/11/24(日) 01:00
最終更新:2024/11/24(日) 00:00
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