西南戦争単語

セイナンセンソウ

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西南戦争とは、士族たちの最後のあがきである。

概要

1877年(明治十年)1月から9月に発生した、西郷隆盛トップに据えて現在鹿児島県を中心に熊本宮崎大分といった南九州一帯を巻き込んだ大規模な内乱である。明治維新を迎え、様々な諸革を断行してきた明治日本にとっては総決算ともいえる大事件であり、以後においてはこれほどの内乱は発生していない。西南の役とも呼ばれる。

江戸時代においては支配階級として鎮座していた武士階級は、明治維新によって次々と様々な特権を剥奪され、特に1876年に出されたと秩処分は事実上の特権と食い扶持を失う死活問題となった。しかし、小学校中学教科書ではこれらをな原因として取り上げてはいるが、実際の所、いわゆる不士族たちはその法律の前から西洋化や四民等などを理由に常々政府批判しており、秩処分についても決起の因として一次資料にあまりでてこないことから、原因は複合的かつ慢性的なものとする見方もある。

とにもかくにも、この直後から明治政府への不満が反乱という形で本格的に爆発し、10月24日太田黒伴雄率いる敬党が熊本で決起した連の乱を皮切りに、秋月の乱、萩の乱が発生。そして、1877年1月29日に士族に使われるのをおそれて、政府示で丸に載せて秘密裏に武器弾薬を輸送しようとしていた所、それを察知した薩摩の私学校生徒たちがこれを襲撃。一般的にこれを西南戦争のはじまりとしている。

通説や大河ドラマなどでもよく見られるように、西郷は当初乗り気ではなく、明治政府とも最後の最後までなんとか平和的な共存をしていたが、この事件をうけて西郷は決意を固め、2月5日に率兵上京を決議。つまり、兵を率いて上京し、天皇に士族たちの気持ちを奏上するという決断を下したのである。しかし、当然ながら新政府側もこれを黙って見過ごす訳がなく、有栖川宮熾仁親王総司令官として征討軍を派遣することを決定、熊本鎮台を当面の前線基地として対峙する構えを見せ、2月20日より交戦が開始された。

戦争はおよそ八ヶ間続き、士族たちの勢いに押され、政府軍側が不利になる局面もあったが、最終的には抜刀隊などの活躍や民皆兵の常備軍たちの強さが上回り、田原坂の戦いなどの戦を経て、9月24日山籠戦の最中に西郷自害。官軍軍あわせて12000人の死者を出しながら、西南戦争は官軍の勝利に終わった。

明治政府はこの戦争でようやく士族という不安要因をとりあえずは除くことに成功し、近代国家への地歩をより固めることとなった。

経緯

前史

この戦争における首西郷隆盛はおそらく知らぬ者はいない、維新の三傑の一をしめる倒幕と明治維新の立役者の一人である。

盟友にして、後に宿敵となる大久保利通と同じく薩摩の軽輩から島津斉彬や久の重用を受けて重臣にまで駆け上がり、御側役として連合の締結や王政復古の実現に動き、戊辰戦争では東海道先鋒軍参謀として江戸に攻め入り、無血開城の一方の当事者となった。

戊辰戦争終結後は薩摩に帰り、鹿児島に屋敷を構えて大参事として郷里の政治に参与していた。しかし、西郷抜きの明治政府は統制を欠いていた為、大久保・従の説得を聞き入れて1871年2月東京へ行き、政府に帰参した。そこでは近衛師団の先駆けとなった御兵の創設に尽したり、置県や官制革に関わったりと、政府の中枢の一員として活躍を続けた。しかし、大久保岩倉具視らとはこの時点より折り合いが悪く、衝突を繰り返していたとされる。

そして、書の文言を原因にして日関係が断絶したことに起因する、『征論』をめぐる論争で対立は決定的となり、朝鮮への遣使を望んだ西郷の提案は退けられた為、1873年10月24日下野西郷を慕っていた桐野村田新八などの旧薩摩士や、板垣退助江藤新平といった大久保の方針に反発する参議も次々とそれに続き、参議の大半を失った明治政府は再編成を余儀なくされることになる(明治六年の政変)。

これを契機に、明治政府に対して有専制を非難して国会建設を訴える民撰議院設立建書を提出する動きが出たり、不士族たちを糾合して武に訴え出るなどの様々な抵抗運動が起こるようになった。

佐賀の乱

明治六年の政変を契機とし、先述の通り士族反乱が発生するようになった。最初に起こったのは政変から4ヶ後の江藤新平義勇が起こした佐賀の乱であり、数千人の不士族が小松王率いる政府軍と戦うも、敢えく敗れた。

なお、この際に江藤や彼の率いる征党は自らが起てば、薩摩西郷たちも立ち上がるだろうという算で決起に及んだとされているが、旧佐賀内ですら決起に反対する勢が多く、その願いがうことはなかった。そして、江藤は田手・寒の戦いで大敗し、未だ戦い続けてる義勇率いる憂党を見捨てて西郷に助めたが、長時間の議論の末、「当てが違う」と言い捨てて西郷は加勢を拒んだ。

その後江藤高知(旧・土佐)に逃れて同士を募ったが、その最中に捕縛され、4月13日首となった。この捕縛の際には、皮にもかつて法卿時代の江藤自身が考案した指名手配書が適用されている。

佐賀の乱は一月ほどで落着したあっけないものだったが、新政府事実上の首班であった大久保はこの反乱を軽視せず、内の不満を少しでも外に向けさせるため、同年5月に前々より外交上の懸念事項となっていた台湾に対して出兵することを決断した。この近代日本初の海外出兵となった台湾出兵は5月から12月にかけて行われ、3600人の鎮台兵とは別に士族たちで構成された植民兵も送られ、その不の分散をしたのである。

私学校の設立

下野した西郷は、鹿児島県現在で言う県知事)・大山綱良や同じく維新に功績のあった薩摩士・桐野(人りで名を馳せた中村次郎のほうがピンとくる人も多いだろうか)らの出資協を得つつ、1874年6月陸軍士官養成を的とした、幼年・隊・学校を設立した。監督には元御陵衛士で、かつては伊東甲子太郎の下にいた篠原幹が学校につき、西郷分であり、戊辰戦争などに功のあった村田新八学校についた。

これが後に西南戦争の担い手となる「学校」である。ここでは、西郷が当初から考えていた対外的な危機に対処できるような「難に当たり一統の義を立つ」人材の育成も的としていたが、どちらかといえば不の溜まっていた士族たちに働き口を与えて暴発を防ぐことが当初の的であったとされている。ちなみに原資は鹿児島県の予算支出と、明治維新に功労のあった者に与えられた賞典(しかも大久保利通も出資している)で、これが後に反乱の原動となるのだから、また皮な話である。

しかし、西郷の思いとは裏に士族たちへの政府からの圧迫や不が強まるとともに、この私学校西郷(≒士族特権の維持)の集う政治結社的な意味合いを強めた。そして、鹿児島県における行政はほとんど私学校生徒によって握られた(警察幹部や区長、戸長といった職に就いて浸透していった)為、西南戦争終結まで鹿児島県明治政府の統治権の及ばぬ独立同然の様相を呈するようになる。

強まる士族への統制

一方、明治政府武士の支配する封建国家から、(建前上は)民主体の国家への転換を更に進めるべく、旧支配階層の士族への締付け、具体的に言えば特権の剥奪を強くしていった。

武士の特権といえば苗字、帯があげられるが、それぞれ説明していく。

四民平等(苗字の名乗りを許可)

まずは苗字だが、四民等の一環として1870年から段階的に武士以外に苗字を名乗ること(近年では実際は隠れて苗字を持っていることが多かったという通説が一般的になっているが、あくまで的に名乗れるようになったという意味合い)が許され、それと共に戸籍の整備が本格的に行われるようになった。

秩禄処分

次にについてだが、よく言われるように1876年の秩処分によって武士への俸事実ストップされたという理解が一般的である。しかし、実際のところはここにこぎつけるまでには明治政府は数多くの段階を踏んでいる。

そもそも江戸後期から諸は価値の基軸となっていたの実質的な価値の低下や、見栄や名分を保持する為の武同士の付き合いや付届けなどの交際費がかさんだことなどが原因で大量の借財を抱えておりその償還(返済)に苦慮していた。その対応策としての削減や臣からの上納の強制などが行われるようになり、幕末の時点で事実上俸だけで食べていけるのは武士の中でもある程度の地位についてる者に限られていた。

大政奉還と戊辰戦争を経て、明治政府が成立すると諸を通じての間接統治から直接統治へと切り替える為に、政府はまず財政状況の報告と革を義務付けた。私学校でも触れた賞典の支払い(が支配していない領や旗本領への士族への支給は政府が行ったため)は歳出の3割強にも及び、将来的にその削減は急務だった為である。

直接統治切り替えへの集大成である置県までに諸革のおかげで4割近い俸の削減が実現したが、置県はをなくして全からの歳入が直接庫に入るようになったのと引き換えに、それまでが支払っていた士への支給も政府が直接行うようになった。それ故、差し引きで実態はあまり変わっておらず、1871年時点で未だ歳出の37が賞典支給に占められていた。殖産業や軍事強化にできる限り資を注入したい政府にとって、もはやニート無職同然である大半の士族に払うは極削減したいということで、政府は次の手に出る。

明治六年の政変で、大久保利通が中心となった政府1873年にという、帰農(士族身分を捨てて農民となること)や業(士族授産)を促すために自的にや賞典を返上した者に、数年分のをまとめて支度という形で支払う政策を実施した。現代で言えば期退職制度が近いだろうか。

この秩債によって約194万人いた士族のうち、13万人がそれに応じて受け取っており、限定的ではあるが成果は見られた。しかし帰農した者は(廉価土地払い下げという特権で)まだ地として生計のは起てられたものの、的であった業については大半が失敗して資本家食い物にされた為、この政策自体ではめぼしい成果は得られなかった(士族授産政策そのものは地方産業創生や北海道開拓という形で一定の成果は得ている)。

その後政府税という、現代で言う所得税に近い形でに課税するなどの政策を行ったが、やがて、政府は最終手段として、木戸孝允などの反対を押し切って1876年に遂にという5年から14年にかけて利子、30年以内に元金を償還する形で支給を強制かつ全に打ち切る政策を施行した。これがいわゆる秩処分である。利子の5から7とかなり低く、具体的には日割り換算で労働者の日当の3分の1と、折からのインフレも相まってとても生活できるものではなかった為、多くの士族は債を受け取れる権利である債券を売却した(これも中に事業資を供給する役を果たした)。鳥取県ではなんと1882年時点までに9割の士族が債券を売却したという記録も残されているほどである。

こうして、士族の大きな特権の一つであったを強制的に剥奪するという秩処分が行われたわけだが、概要でも触れた通り、士族の決起趣旨に秩処分が書かれている例は少なく、またそれ以前から士族の明治政府批判は多く行われていたため、痛手には違いないものの、これがどの程度士族反乱に直結したかは不確定なところがある。秩処分については士族授産政策という事業資貸付や、屯田兵制度などの救済策も盛んに行われており、それで吸収できたという側面もあるだろう。

それよりも士族反乱につながる因とされるのは、最後にあげる帯、すなわち軍事的特権の剥奪である。

徴兵令・廃刀令

武士とは合戦の際に戦場へ出て、命を賭けて戦うことをその職分としている。代名詞ともいえる二本差し(太刀脇差し)はその明であり、アイデンティティであった。

しかし、で行う戦争はもはや遠い過去のものとなり、後装式のライフルや、高威大砲戦場で飛び交う時代となってはもはや武士の役は終わってしまっていた。においても戊辰戦争で、旧来の武士が幅をきかせるような時代の終焉をこれ以上ないほど物語らせた。

明治政府は本格的に西洋諸と同じような兵制と軍備を整えるべく、民皆兵を合言葉武士ではなく、民たちによる軍隊を整えることをした。これは兵部大輔に任じられた重鎮であり、民皆兵のを積極的に行っていた大村益次郎維新直後に暗殺されたことから一度は頓挫する。しかし、四民等によって(法律上は)身分制度をした明治政府は、大村の遺志を受け継いだ兵部少山縣有朋(後に西南戦争の参軍として、塔になる)の導のもと、1870年頃より具体的な法整備が進められることとなった。

とはいえ、その頃の明治政府内には旧薩摩島津久光西郷隆盛桐野ら旧薩摩士などが、士族への配慮から志願兵制をしていた。そのため、1871年1月徴兵規則で1万石につき5人を身分の区別なく選別して差し出すよう要した一方で、3ヶ後には薩摩長州・土佐の三出身者を中心とした兵を組織するという、折衷したものになった。

その後、西郷隆盛が時勢を見て民皆兵支持替えしたことも奏功して、1872年12月には民皆兵の理想と心得を説いた徴兵告諭が出された。これには特権を剥奪される士族だけでなく、労働を取られる農から不満が噴出したものの、それを押し切って翌年1月(新切り替えのにより、実日数に直すと2週間ほど)には徴兵を施行した。そのため、1873年3月から2年近くにわたって、徴兵告諭への誤解を起因とするいわゆる血税一が、岡山県(美作騒擾)や鳥取県などの全各地で発生することになった。政府はこれら反乱を鎮圧し、鎮台制の整備や英国など海外からの武器輸入などを進めて近代軍制を着々と構築していった。

についても、維新直後の1869年より議論が行われ、1871年に帯自由とする、散が施行された。薩摩出身の内務官僚・路利良の発案により1874年に東京警視庁が設置され、翌年には日本の府県で現在地方警察の原である第四課が設置。そこの職員である邏卒(現在でいう巡査)たちは帯を基本装備としており、士族たちへの暗黙の圧となった。

そして、1875年12月陸軍卿となっていた山縣有朋の「従来の帯は護身を的としていたが、民皆兵と巡査制の整備によって一般人が帯する必要はない。よって、速やかにを出し、武士の弊を除くべし」という建議が容れられ、1876年3月にはが出された。これにより儀礼を含めた一般人の帯が禁止され、士族たちは先にあげた秩処分と共にその特権を全に喪失することとなった。

しかし、折から政府への不満をいだいていた不士族たちがそれを承するはずがなく、連の乱のな勢となった敬党では『奏議書』を著すなど、反乱への大きなきっかけとなった。

士族反乱の頻発と私学校

これら士族への圧迫的な政策により、1876年10月連の乱を皮切りに九州地方各地と山口県で大規模な士族反乱が頻発するようになった。まだ生まれたばかりであった日本陸軍素人同然の兵士たちを抱えて紆余曲折しながらもなんとかこれらを鎮圧することに成功する。

西郷自身はこれを見て愉快に思うと同時に、士族たちを刺しないよう温泉西郷の隠棲場所)を動かないとする慎重な態度をとっていた。実際に西郷明治六年の政変で帰郷を果たしてから政治の表舞台に立つことは控え、を連れて狩猟をしたり、を牽いてを耕すなど晴耕雨読生活を続けていたのである。基本的に名乗らず、写真自体が普及してなかったのもあるが、西郷自身がそれを嫌っていたため多くの人には顔を知られておらず、しく接している人の中でも西郷だと気づかなかった人もいたほどである(とはいえ、私学校導や区長の人選に関与するなど全に政治から切れていたというわけでもない)。

しかし、私学校では折からの明治政府の施策に反抗的な態度をとっており、例えば制についてはへの切り替えが行われなかっただけでなく、秩処分についても騒動とそれによる陳情により、最高でも利率が7分(7)だったのを、鹿児島県については一割(10)とし、向こう10年分の債券をまとめて発行するという依怙贔屓特例措置が行われる有様であった。また、は当然のように無視され、地租正も難航しておりほぼ行われてなかった。

他にも外交政策についても、1875年5月5日付の『評論新聞(私学校機関誌)』で欧列強への明治政府の態度について「大恥辱」と受け止めて痛批判し、政府が頼りなければ「下の士族」がその責を負うべきであると書いていた。また桐野1876年に明治政府を「見たばかり飾って、下手な術ばかりに頼る「醜体」である」と断ずるなど、鹿児島県の幹部クラスの志士からも苦言が出るほどであった。鹿児島の士族たちは尚武の気からか特に海外へ打って出る強硬策を唱える者が多く、欧に譲歩してばかりの明治政府に対しては慢ならなかったものとみられる。

一方で明治政府側でも長州出身の木戸孝允をはじめとして、私学校に対して、政府へ反乱を企てているのではないかという疑念や曲解を増幅させており、不をなくすという国家統一の観点からも上記のような特別扱いをやめるように要するが大きくなっていた。事実上の首班である大久保は懸命にそのような意見を宥めていたが、1876年には遂に折れて、県高官の刷新などを内容とした鹿児島県革案を受諾し、鹿児島県へ提案することとなった。

しかし、鹿児島県である大山綱良が県官総辞職を持ち出して猛反発したり、上記にあげた士族反乱の”警備”を名にした、士族たちの武装などのでその大部分は実行に移されずじまいだった。全てというわけでなく、1877年1月中原尚雄以下24名の警察官を帰郷の名で、私学校の偵察に向かわせることには成功した。事実上の視察団である。彼らには大警視(現在の警視総監)の路より私学校側の意図や反乱を思いとどまるよう説得する事などの使命を課せられた。しかし、残念ながらこれが私学校側の不信感を呼び起こし、西南戦争への直接的な導火線となる。

弾薬略奪事件と西郷暗殺計画

実際のところ、木戸が抱いていた鹿児島県士族たちへの懸念は当たっていたと言わざるを得ないだろう。明治政府の放った密偵の報告書によれば、1876年12月時点で桐野の別荘に西郷篠原幹、別府介などといった鹿児島県の重鎮が集まって、折からの士族反乱に呼応して「姦臣を討ち、民の疾苦を救う」べきなどという言説が持ち上がっていた。西郷は時機を待つべしとして押さえていたものの、もはや明治政府に対する信頼は彼らの中で失墜しており、武も辞さない雰囲気になってた事は否定できない。

1877年1月から開戦直前にかけて前項にあげた視察団は路の示どおり説得をり強く続けていた。しかし、状況に変わりはないどころか刻々と最悪の方向へ向かっていた。そこで政府木戸孝允もあってこのまま鹿児島においている武器弾薬や工を放置してはおけないと判断し、三菱の汽丸を派遣してそれらを秘密裏に引き上げることを決定した。

この決定を察知した私学校側は憤慨して、1月29日松永高美ら数名が、の勢いに乗じて番兵を捕らえて火庫を襲撃して弾薬六万発と小銃を奪取。更に2月2日までに1000人の私学校党が次々と軍関係の施設を襲撃して軍需品を大量に略奪する事件が発生した。海軍施設も襲われたため、造所は閉鎖し、政府関係者は退去。名称も島津斉彬がかつて名付けていた集成館に復して、今後は私学校側の軍事施設として武器製造を担っていくことになる。

更に2月3日から7日にかけて先の視察にきていた警察官を私学校党が逮捕し、西郷暗殺計画を5日付で自供させた。西郷を暗殺すれば私学校は自ずと瓦解するというのがその動機というのである。だがこれは私学校党が彼らを拷問にかけて理やり吐かせてでっち上げたものというのが政府側の認識であり、また通説であるが、私学校側はこの"自供"を受けて一気に吹き上がり、決起へと傾くことになる。

決起へ

ここまで記述した通り、西郷は決起を止める側であり、隠遁してからの三年間も不士族や桐野ら武断鹿児島士族から直接的な言動や行動を明示されても、一したり、長時間の議論で説諭したりで西郷なりに懸命におしとどめていた。

しかし、弾薬庫襲撃事件を隠遁先で聞いた西郷は「ちょしもたー(しまった)」と思わず膝を打ったという。この解釈については私学校の暴発を止められなかった事への後悔又は、政府軍に出し抜かれて武器弾薬を運ばれようとしたことへの怒りなど様々なものがあるが、なににしてもこの事件が西郷にとってまさに青天の霹靂であったことは疑うべくもないだろう。

2月5日には私学校本校で西郷はじめだったものが一堂に会して、大評議が行われ、今後の方針が話された。このな議題は西郷暗殺計画への対処であり、西郷原などが上京して政府に詰問すれば良いとする論と、それはあまりに危険だから兵を率いて上京すべきだという強硬論で割れた。最終的には桐野が強硬策を支持し、それが賛成多数を得て決定された。これにて私学校政府行動を起こす覚悟を固めたのである。

2月6日には出兵の具体的な作戦が話し合われ、三に分けての進軍や、長崎にある政府軍の軍艦を奪ってそのまま上京するなどの案が出たが、池上四郎の全軍を鎮台(軍部)のある熊本に向かわせ、抵抗されれば一部を抗戦させてそのまま前進する案が満場一致で通った。

いま々から見れば、いくらなんでも性急に過ぎるし、政府に勝てるわけないだろうと思いたくなるが、当時の私学校内では折からの政府への不満や、このままでは政府に潰されるという焦燥、それに飛び込んできた西郷暗殺疑惑による憤怒がない交ぜになっており、冷静な判断が落ちていたものと考えられる。そして、彼らの中には維新を成し遂げた成功体験が大いなる傲慢自信となっていた。

もちろん、このような脳筋バリバリの強硬論ばかりではなく、西郷暗殺計画は名分となるのか、戦争になった場合の具体的な兵站戦略などの追及や疑問を持っていた者もいたが、それは支配的なものとはならなかった。賽は投げられたのである。

出兵

しかし、この時点では私学校側は戦争を必ずしも念頭に置いてなかった。あくまで名西郷暗殺計画への糾問を理由にした”率兵上京”である。戦後鹿児島県大山ったところによると、西郷は「2月下旬から3月上旬までには大阪に達すべく」という展望を示しており、少なくとも大阪まではさしたる抵抗も受けず進められる算だったことがうかがえる。

2月12日大山へ、西郷桐野篠原の連名で提出した届もあくまでそう書かれていた。2日後には出兵の準備をすべて整え、私学校本部に併設された旧練兵場で閲兵式が行われ、15日に鹿児島にはしい大(60年ぶりといわれる)に見舞われながら遂に当面の標である熊本して出兵が開始された。(以下、私学校ではなく、軍と記述する)

だが、政府は黙って通すわけにもいかないため、2月19日に詔勅を発して征討軍の派遣を決定。有栖川熾仁を総督(総司令官)とし、事実上の総司令官にあたる参軍には山県有朋陸軍中将川村純義海軍中将を任命した。

政府側も最初から軍で応えようとはせず、火庫略奪事件の時点では同じ旧薩摩士の川村純義を状況精のため派遣したり、勅使派遣も検討するなど戦争回避の努はしていたが、最避けられぬものとして干を交える事としたのである。西郷の盟友であった大久保は、西郷の反乱首謀にも当初疑いをかけており、鹿児島にいって説得を試みようとしたが、その身を案じた伊藤博文に諫止されて断念している。

熊本城の戦い

山県は1月より熊本鎮台に警を出したり、2月上旬には東京大阪の連隊や小隊に動員をかけるなど戦争の準備を着々と進めていた。しかし、熊本鎮台には当初その援軍は間に合わず、陸軍少将麾下4000人で熊本城に籠しながら三倍以上の14000人ほどで攻めかかる軍に向かわねばならなかった。

また、西郷も鎮台参謀長の樺山資紀が旧薩摩士であったことから、軍への寝返りを期待しており、同じ思いだった大山西郷の名において、熊本鎮台の樺山宛に「兵隊整列揮を受けられるべく」という事実上の寝返りめる照会書を送った。

もちろん、鎮台側は戦争準備を進めており、樺山も「如何に西郷大将とはいえ、一私人が大兵を率いて鎮台を通ることなど断じてあってはならない」と跳ねのけている。西郷にとってこれは大きな計算違いであった。この戦争における”名分”に外交問題や人権問題などの的性格がなく、私人への危という小さなものにまとまってしまっていることの脆弱さがくも露呈したのである。

2月19日熊本城内で守が焼け落ちるほどの火災が発生し、弾薬事だった一方で食料が焼失するなどの事態に見舞われるも、22日より鎮台側からの攻撃でついに開戦の火蓋が落とされた。ここから半年以上にわたる西南戦争が本格的にはじまることとなった。

熊本城は西南戦争の前に、連の乱での一部が反乱士族に占拠された際に戦闘となった。児玉源太郎率いる連隊が救援にかけつけたことでわずか一日で鎮圧されたが、当初の奇襲で政府は県と鎮台官を失うという失態を犯しており、鎮台兵の引き締めに功を奏した。

また、児玉源太郎と同じく日露戦争で活躍することになる木希典も陸軍少佐として、小倉から鎮台兵(歩兵第十四連隊)を率いて加わっており、熊本城近くの植木高瀬などで軍としい戦闘を繰り広げている。

軍は当初、桐野村田などの精鋭を用い、大砲による集中火の強襲によって熊本城攻略を図ろうとしたが、鎮台兵のスナイドルなど最新鋭装備での堅や、加藤清正が築いた武者返しという特別な石垣に進軍を阻まれた。橋頭堡として熊本城一の弱点であった段山という台地確保には成功するも、落とすどころかには一歩も立ち入れなかった。この為、西郷は同日の軍議で包囲戦による兵糧攻めに切り替え、浮いた兵を小倉など北九州へ差し向けることとした。

しかし、包囲を続けているうちに、山縣有朋を頭とする征討軍が博多港より南下してきており軍はその応戦を迫られる事になる。

田原坂の戦いと熊本城からの撤退

2月22日に上陸した征討軍は攻囲下に置かれている熊本城を救うべく南進し、軍はこれを妨すべく北進した。3月4日には熊本城から約14km北の田原坂と吉次で両軍は突する。これが西南戦争最大の戦と言われる田原坂の戦いである。大砲が通れる博多から熊本への田原坂方面しかなかったために起きた戦いであった。

3月4日より征討軍は軍に猛攻を加えるも、軍は強固な地と抜攻撃によって百姓中心であった征討軍を震え上がらせ、攻略を難渋させた(とはいえ一日軍の重鎮の一人である篠原幹を戦死させるなど、戦果はおさめている)。そこで3月13日に征討軍は警視隊(鎮台兵とは別に警視庁の邏卒で編成された部隊)から剣術に優れた者を選抜して抜刀隊を結成。文字通り切り込み隊長として14日より軍にあたらせ、互の戦いを繰り広げた。15日には重要地点である横平山を占拠し、難攻不落と思われた軍の防衛線に大きなダメージを与えることに成功した。

しかし、防衛線を全に突破することは出来ず、18日に征討軍本営で作戦会議が開かれ、19日を休養日として20日に総攻撃を開始することを決定。その決断の通り、征討軍は開戦以来最大兵田原坂の奪取にかかって、軍本営への集中火という戦術が功を奏したこともあり、遂に軍は田原坂より植木方面へ敗走した。

攻撃開始から17日のことであり、征討軍はこの戦いで一日あたり30万発もの弾薬を使ったとされる。中での弾のかちあいが見られたり、あまりの消費量に供給が追いつかなかったことから、地元住民に戦闘後弾を拾わせた逸話などが残っているほどである。現在でも田原坂に行くと使われた弾がでてくるとか。

3月19日には黒田清隆陸軍中将を参軍とする4000人の別働隊(これ自体は田原坂の苦戦をみた14日に編成された)が口のに上陸し、その日のうちに熊本城から南に約50km離れた八代を制圧して背後から軍を脅かした。

包囲下にあった熊本城では糧食不足に苦しむも、については井戸が多数掘られていたためなんとかしのぐことに成功し、田原坂やその後に続く戦いで包囲軍が減ったのを見て4月8日に出撃して、軍を急襲した後に兵糧を奪って引き上げた。これを見た黒田の別働隊は4月12日より進撃を開始し、途中の御川尻戦の末に占領して、4月14日には遂に軍に撤退を決意させ、50日以上に渡る籠戦から熊本鎮台は解放されることになった。

撤退の最中、西郷は「官軍に敗れたのではない。清正に負けたのだ」とこぼしたという。実は熊本城自体は1870年に用の長物として解体される予定であった(解体作業開始日に撤回される)が、熊本城の堅固さが軍を追い払うのに貢献したのは事実の為、結果的にはとても役に立った遺物といえよう。

城東会戦

熊本城から撤退した軍は後退しながらも、残った8000人の部隊を用いて約11㎞東の木山に本営を作り、大津から御に至る20㎞あまりの長大な防衛線を構築し、征討軍を壊滅させようと論んだ。対する征討軍は熊本城を根にして3万人の軍勢を配置し、軍へ相対した。

撤退から5日後の4月19日より征討軍が軍へ攻撃を仕掛けた事により、戦いは熊本平野全域という広大な野戦となった。関ケ原以来ともされるこの大規模野戦は、軍が優勢に進めていたものの、御方面で征討軍の猛攻に敗れたため、大津と御から本営が挟撃される格好となってしまった。

桐野は21日の軍議で木山で決戦するも、池辺や野村忍介の説得でそれは思いとどまり、更に東方へ約30㎞後退して町まで退却することになった。

征討軍はこの戦いで700人の死傷者という先の田原坂での最終攻勢を上回る死者を出したが、軍の痛手も大きく、これを以て軍の不利は決定的なものとなった。

西郷はこの頃常時数十名から数名の警護に守られており、その警護は前線が危険な状態にあって衛兵の一人が救援に行きたがっても離脱が許されないほどであった。元々西郷暗殺計画が名分の一つだから当然な話ではあるが、西郷の存在は軍にとっては不可欠なものであるが故に桐野をはじめとした幹部は西郷の警護を最優先事項であるかのように扱い続けた。

この頃、維新三傑の一を占め、薩摩を警していた木戸孝允は病床にしていた。熊本城開通を受けて大いに安心したと日記に記していたが、未だ抵抗り強く続けている軍を見て人民へのを憂慮していた。

5月26日に療養先の京都において、病床に駆けつけた大久保の手を握って「西郷もいい加減にしないか」とつぶやいたのが最期の言葉になったという。西南戦争の帰着を見ないまま、木戸はこの世を去った。

宮崎への転進。困窮する薩軍

その後軍は人吉を根拠地として、三州(薩摩大隅日向)を基軸とした巻き返しをはかった。しかし、6月1日から4日にかけて征討軍の攻撃をうけてここからも退却を余儀なくされた。

また、人吉攻防戦の頃より投降ないし逃亡する兵士が出始めており、その対応にも追われることになった。逃げ出す兵士の大半は強制的に駆り出された郷士たちであり、私学校党の士族たちとそこまで志を同じにしているわけでもない故の行動だったと思われる。

抜け出た兵士を埋めるために鹿児島宮崎などの支配地では募兵が行われ、協しなければスパイと糾弾されたり、募兵の妨になりそうな者は殺されることもあったという。また、事実と異なり、軍の勝報ばかりが喧伝されるなど、約70年後のを彷彿とさせるような行動が見られるようになった。

このころには鹿児島は既に熊本を確保した征討軍の攻撃を受けていたため、較的安全地帯であった宮崎方面へと軍はその軸を移すことになる。人吉陥落前に、桐野によって5月末頃に宮崎支庁軍の支配下に入り、宮崎支庁を軍務所と称してめて本営とした。

この段階でもう当初用意していた戦費はつきかけていた為、桐野の提案で軍票を起こすことを決定した。いわゆる国債などの債券と同じで、和額を印字してワラビノリと綿布をり合わせた簡素な券面だった。この製造には贋作りの囚人を釈放して作らせたという逸話がある。この軍票、いわゆる西郷札は14万円から18万円分ほど刷られ、これは現在の価値に直すと約10億円ほどであった。

また、弾薬不足も深刻化しており、民家寺院鐘などを供出させて補おうとするも、精錬技術や設備の不足からか質や量共に大きく劣後する物しか作れなかったという。英国黒砂糖の売却と引き換えに弾薬を手に入れようと交渉した事もあったが、ほぼ相手にされずに終わった。

宮崎の戦い

6月24日までに鹿児島要部を確保した征討軍は、宮崎を根にしている軍をくべく、鹿児島宮崎の県付近に位置する都市・都を標的にして進軍を続けた。霧島連山を背に防御を固める軍に征討軍は歩のような侵攻を余儀なくされるも、7月中旬までに都のすぐ近くにまで迫った。

村田新八を総指揮官とする都防衛戦は、都城市地にまで誘い込んで敵を撃滅するという作戦を立てていたが、征討軍の予想外の動きに狽し、ほぼ抵抗のまま放棄せざるを得なかった。宮崎への鹿児島方面からの関所ともいえる都を失った軍の運命はもはや明らかであった。

宮崎に居た軍本営は延岡や清武、尾泊、飫肥などに部隊派遣して征討軍への備えを行った。征討軍は地の利を活かした軍の決死の防戦に苦慮するも、着実にこれらの拠点を確保し、7月30日には宮崎手前の大淀河畔に迫った。軍は増で渡れるはずがないと油断していたが、31日に征討軍は泳ぎの得意な者を選抜してを奪い、渡河を強行し、宮崎市へ突入。軍はほぼ抵抗できずに敗走し、8月初旬に延岡へ本営を移した。

このころまでに官軍の規模は援軍や補充を得て約5万人にまで膨れ上がり、対する軍は約3000人にまで数を減らし、最掃討戦や殲滅戦の領域に入りつつあった。

続く延岡でも、和田越の戦いで敗れ、8月15日軍は延岡より10㎞北の可岳に本営を置き、最終決戦に臨もうとしていた。それまで前線からは距離を置いていた西郷も開戦以来はじめて頭に立って、桐野村田池上別府介らと共に揮を取った。しかし決死の揮むなしく、征討軍に大敗して更に北東に5㎞ほど離れた長井へ敗走した。

しかし長井に引いたときの軍はもはや極限状態であった。武器弾薬や、コメは尽き、サツマイモすら尽きようとしていたと熊本隊の中島典五の手記には書かれている。

8月16日西郷はもはや戦いにならないと判断し、解軍命を発。飼っていたと別れ、陸軍大将軍服も焼却した。その後西郷は精鋭300名ほどと共に長井や可岳にる征討軍の包囲を破り、約二週間かけて宮崎鹿児島の険阻な山えて鹿児島まで帰り着いた。征討軍官の山県は、西郷を取り逃したことに落胆し、西郷に宛てた手紙にその慙愧の念を露わにしたという。

退路の先についての議論桐野などは再起をしていたが、最西郷は軍として政府に対抗することは諦め、最後の死に場所として故郷の薩摩を選んだのである。

城山攻防戦

8月28日霧島山麓の小林に到着した軍は、鹿児島に向かって進軍を続けた。征討軍も黙っているはずがなく加治木に本営を設置して抗戦の構えを見せたが、押しとどめることができず、9月1日には鹿児島市へ突入。大山に代わって政府によって県に任じられた岩村通俊を追い出し、再び鹿児島握した。

岩村は県庁を去る際に軍に暴力や破壊行為などはしないようめていたが、彼らにその説得は通じず、病院への略奪や政府側の人間への暴力などが横行した。

軍は鹿児島を見下ろせる山に最後の本営を構えた。征討軍の撃を避けるべく西郷たちは洞窟に身を隠し、揮を行った。

鹿児島軍襲来を聞いた征討軍の本軍は宮崎から鹿児島へ取って返し、山県は可岳の失敗からか病的なまでに細心の注意を払って山を包囲した。この時、軍は400人を切っており、征討軍は3万人の兵を配置した。

征討軍は降勧告を出したのち、応じないのを見て9月24日を総攻撃の期日と定めた。しかし、西郷を殺すことについては軍内でもそれはさすがにしのびないとする意見が強く、使節をたてて征討軍参軍の川村純義と交渉を持ち、川村は猶予を与えて西郷助命の時間を稼ごうとするも、西郷当人が死への覚悟を固めており、駄に終わった。

攻撃前の23日に西郷は賑やかな宴を開き、ここまで付き従ってきた面々と最後の別れを惜しんだ。

9月24日午前4時、予定通り征討軍は山への総攻撃を開始。初めは抜攻撃を体とする軍に、近接戦闘に慣れていない征討軍を圧倒するも、徐々に押し切られ、撤退していった。そして西郷部と大腿部に弾を受け、別府介に抱えられながら山をさまよい、西郷は「もうここでよかろう」とをおろし、別府は「ごめんなったもんし」とりかけ、西郷の首を切り落とした。西郷は一切の弁明を行わず、賊としてその命を終えた。

別府桐野をはじめとした残りの軍の兵士自決ないし戦死を遂げ、山攻防戦は終結した。5時間ほどの戦いで軍は全滅、征討軍の死者は30名ほどだった。

戦後処理

戦争が終わると、生き残った軍には”賊”として法の裁きを受けることとなった。

裁判は長崎に設置された九州臨時裁判所で行われ、に重職にある人間に重罪が課され、軽くなるにしたがい刑罰が軽くなっていった。何らかの刑を受けたのは分隊長クラスまでで、一般兵士は全て無罪となった。一方、鹿児島県大山綱良はじめ死罪となったのは22名である。大隊長以下は懲役10年から1年の判決を受けたが、その多くはのちに減刑され、釈放されている。

西南戦争の死者は征討軍側が6400名、軍が6800名と戊辰戦争を上回る犠牲者を出した。

影響

西南戦争は概要でも述べた通り、維新以来10年にわたる新政府の色々な意味での総決算ともいえる出来事であり、これによりすくなくとも大規模な武装反乱による転覆をはかろうとする動きは沈静化していった。

また、政治面でも同じく下野していた板垣退助は、西南戦争を受けて高知でも旗揚げしようとしたが、不利を見て言論による政府批判に切り替える方向へと転換していく事になる。

西郷友であり、政府重鎮であった大久保利通は、戦争終了後も一部の士族から西郷暗殺計画の黒幕としてをつけられ、命を狙われることになる。これについて大久保自身は「暗殺を企てようとしたことはなく、明に誓ってそれについては陰なく明なものである」とっていたが、1878年5月14日に紀尾井坂において襲撃され、命を落とした。

軍隊という側面からしても、西南戦争という大規模内戦の経験は、大きな糧となった。民皆兵の軍隊が戦闘を職分とする武士を打ち破ったことは、この体制の安定に寄与し、軍事的な体制の確立へつながった。この戦争指揮官として活躍した児玉源太郎木希典は日清日露戦争でその経験を活かして大いに活躍することとなる。また、銃器の摘発についても本を入れ、エンフィールドなど旧式のの回収につとめた。

警察制度としても、抜刀隊の活躍は後々までり継がれる伝説となるが、これ以後警察は内乱鎮定ではなく、治安維持の方向へ転換する動きが進み軍隊との分離がより明確に行われるようになった。その左として陸軍より一時的に借り受けていた小銃などの装備は返却されている。

また、西郷隆盛に関する人気は反逆者であるということを忘れてしまいそうなほどに高く、政府1889年の大日本帝国憲法発布と国会開設に合わせて、西郷に対する反逆の罪を赦し、正三位の位を追贈した。これは西郷だけでなく桐野などの私学校幹部も同じ処置がなされた。そして、その人気によるいちばん有名な産物が、1898年上野恩賜公園に建てられている西郷像であることはもがしるところだろう。

題材になった作品

西南戦争はその悲劇的な要素が強いこと、の大きさなどから大河ドラマはじめ様々な創作舞台となった。特に西郷隆盛役の作品ではクライマックスとして置かれる為、不可分なほどに取り上げられる傾向にある。

この傾向は西南戦争の直後から続いており、翌年には東京の新富座で『西南雲』という西郷隆盛役の歌舞伎が上演され、大きな人気を博したほどである。

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