西武黄金時代(せいぶおうごんじだい)とは、広岡達朗の下で基礎を作り上げ、森祗晶の下で常勝軍団となった西武ライオンズの一時代である。
1982年から1994年の13年間で4連覇・5連覇を含む11度のリーグ優勝、8度の日本一に輝いた。
根本陸夫監督辞任後に広岡達朗が監督に就任。後に監督になる森昌彦(現:祗晶)がヘッドコーチとなる。
徹底した管理野球で選手とは不和になるが、勝つことがそれを乗り越えさせた。球団創設4年目にして初の前期優勝を果たし、後期は3位に終わったもののプレーオフでは江夏豊を打ち崩して<日本ハムファイターズを破り、ついに初のパリーグ優勝(ライオンズとしては19年ぶり)を成し遂げた。日本シリーズでも中日ドラゴンズを破り、初の日本一(ライオンズとしては24年ぶり)に輝いた。
1983年は前期後期制が廃止される。2位に17ゲーム差をつける独走で連覇を果たし、さらに日本シリーズでは巨人を下して2年連続の日本一に輝いた。
1984年はベテランの衰え、前年の田淵幸一の引退などもあって3位に低迷し、シーズン終了後に田淵と山崎は引退を表明した。
1985年にチームは一気に若返りを果たす。工藤公康と渡辺久信がそれぞれ防御率1位、2位となり、秋山は40本塁打を記録した。新外国人選手の郭泰源も、豪速球で大きな話題を集めた。東尾修らベテランも若手に負けじと結果を残し、2位に15ゲーム差をつける独走で優勝を果たした。しかし、チームリーダーの田淵が抜けた穴は大きく、日本シリーズの時点でチームは空中分解を起こしていた。シーズン終了後に契約期間1年を残して広岡が監督を辞任し、ヘッドコーチから遠ざかっていた森が監督として復帰した。さらにこの年のオフ、ドラフト会議で6球団競合した超大型新人の清原和博の獲得に成功した。
1986年、森昌彦が「森祗晶」と改名して監督に就任。この年、ドラフトで西武は「KKコンビ」の清原和博を獲得。清原らの活躍で1986年、1987年、1988年のシーズンを3年連続日本一で飾った。この間に秋山幸二、清原和博、オレステス・デストラーデ、石毛宏典などの最強打線を築き上げた。
特に、1988年のリーグ優勝は0ゲーム差であり、パ・リーグの一番長い一日とされている「10.19」の近鉄-ロッテのダブルヘッダーを近鉄が制したものの、1位を渡すことなく優勝した。
1989年、平成最初のパ・リーグでは近鉄バファローズに首位を譲り、この年は日本シリーズ進出すらならなかった。
1990年代に入り、1990年、1991年に日本一を果たす。
1990年は、2位以下を大きく突き放しリーグ優勝を果たした巨人を4勝0敗のストレートで下し、球界の盟主交代を決定づけた。
1992年には野村克也を率いるヤクルトスワローズを下し3年連続日本一を果たす。
1993年はデストラーデが退団し、攻撃力低下が危惧されたものの、日本ハムとの首位争いを制し、4年連続でパ・リーグを制するも日本シリーズでは2年連続でセ・リーグを制した野村ヤクルトに後塵を拝し、ついに森西武が日本シリーズで敗退することになった。さらに、オフには主力の秋山幸二、さらに内山智之、渡辺智男が福岡ダイエーホークスの佐々木誠、村田勝喜、橋本武広との3対3交換トレード(世紀のトレードとされる)で流出。外野の主力は佐々木と秋山が入れ替わる形となった。
1994年は多くの戦力が流出した中、ダイエー、オリックス、近鉄との優勝争いになるが、地力と経験の差を活かし、パ・リーグ新記録のV5を達成。しかし、巨人を相手に日本シリーズで敗れたため、森は監督を辞任。東尾修へと政権を譲った。
1994年オフ、球団は石毛宏典に引退して監督に就任するよう要請するが、本人は拒否。結局東尾修が監督に就任することになったものの、石毛宏典、工藤公康、辻発彦が次々と移籍し、黄金時代の主力を失うことになった。その後、松井稼頭央をショートにコンバートし、高木浩之をセカンドにおいて新二遊間を定位置につけるものの、ファーストで4番だった清原和博が巨人へFA移籍し、次第にチーム力が低下。
1995年、1996年をオリックス・ブルーウェーブが制し、1997年と1998年に王座を奪回するが、日本一に輝くことはできなかった。1998年ドラフト会議にて、ドラフト1位で松坂大輔を獲得している。
1999年に福岡ダイエーホークスが打線を爆発させ福岡移転後初の日本一。2000年にもダイエーが優勝した。
2002年から監督を務めたのは、森監督時代に守備・走塁コーチを務め「西武の頭脳」とも言われた伊原春樹。また、西武黄金時代を築いた一人でもある捕手、伊東勤が選手兼任の総合コーチに就任した。この年は球団史上最多となる90勝を挙げてパ・リーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは読売ジャイアンツに1990年の借りを返される形で4連敗を喫し敗退した。
2004年からは伊東が監督として指揮を執った。松井が抜けたショートを中島裕之が務め、アレックス・カブレラなど打撃陣の活躍、松坂大輔や西口文也、許銘傑、豊田清らの投手陣の活躍でプレーオフ導入初年度2位の成績からダイエーを破り、パ・リーグ優勝。中日ドラゴンズを倒し、日本一に。
しかし、2005年、2006年は低迷の一途をたどり3位、2位となった。
2007年シーズン、26年ぶりのBクラス、5位でシーズンを終え、伊東が辞任。
2008年からは球団名を埼玉西武ライオンズと改め、新監督には渡辺久信が就任。こちらも西武黄金時代を支えた選手。2008年に巨人を4勝3敗で下し、日本一となる。これが平成終了時点での西武最後の日本一となっている。
2009年にはライバル球団・ソフトバンクの監督に秋山幸二が、さらに2013年からは伊東がロッテの監督に就任。2013年は続投していた渡辺久信も含め、西武黄金時代を支えた3人がペナントを競うことになったが、優勝は星野仙一率いる東北楽天ゴールデンイーグルスに攫われた。
2014年には渡辺が西武監督を退任。伊原春樹が再び監督に就任したものの成績不振を理由にシーズン途中で辞任、それ以降は田辺徳雄が監督代行として指揮をとった。
2015年は、田辺が正式に西武監督へ就任。また秋山と入れ替わる形で工藤公康がソフトバンク監督に就任。また東北楽天には、黄金時代にはほぼ二軍暮らしだったものの西武OBである大久保博元が監督として招聘され、この年のパ・リーグは西武OB4人が覇権を争う形となった。ペナントレースを制したのはソフトバンクで、工藤は就任1年目で完全優勝での日本一を勝ち取っている。一方で最下位に沈んだ大久保は一年限りで監督を辞任した。
田辺は代行時代を含めおよそ3年間指揮を執ったものの一度もAクラス浮上を果たせず、2016年シーズン終了をもって西武監督を辞任。後任には実に21年ぶりの西武復帰となる辻発彦が就任した。またセ・リーグでは西武黄金時代にコーチとして投手王国を築き上げた森繁和が中日の監督に就任した。両チームとも深刻な低迷期にあり、両監督にはチームの再建が期待されている。
辻の監督就任初年度となる2017年は2位で4年ぶりのAクラス復帰。翌2018年には、西武ライオンズ誕生40年という記念年に10年ぶりのパ・リーグ優勝を飾り、2019年にも連覇を達成。ちなみに2019年5月に元号が令和に変わっているため、史上初の元号をまたいだ連覇という珍しい記録付である。
しかしポストシーズンまでその勢いが続かず、クライマックスシリーズは一度も突破できていないため、黄金時代復活と呼ぶには不安と疑問を残している。
投手 | 捕手・内野手 | 外野手 | 外国人選手 |
---|---|---|---|
工藤公康 | 伊東勤 | 秋山幸二 | O.デストラーデ |
渡辺久信 | 仲田秀司 | 大塚光二 | T.バンバークレオ |
潮崎哲也 | 大宮龍男 | 平野謙 | |
石井丈裕 | 清原和博 | 笘篠誠治 | |
鹿取義隆 | 辻発彦 | 安部理 | |
郭泰源 | 石毛宏典 | 羽生田忠克 | |
東尾修 | 奈良原浩 | 吉竹春樹 | |
森山良二 | 鈴木健 | 金森栄治 | |
渡辺智男 | 田辺徳雄 | 西岡良洋 | |
松沼博久 | 笘篠誠治 | 立花義家 | |
杉山賢人 | |||
新谷博 | |||
小田真也 |
活躍した選手を随時追加して行って下さい。
1990年頃からのオーダー。左翼手・遊撃手は競争させるポジションで多数の選手が出場した。
掲示板
39 ななしのよっしん
2020/11/25(水) 07:27:42 ID: fcDr9vQnx5
ここから2014年以降のはいはいソフバンソフバンまで連続日本一が一度も発生してなかったのが面白い
40 ななしのよっしん
2020/12/03(木) 21:35:01 ID: ilErlzlWrJ
ライオンズだけではなく西武グループ・セゾングループ自体が
プリンスホテルや池袋西武が日本一を誇る黄金時代だった
41 ななしのよっしん
2023/12/26(火) 11:36:19 ID: cTOHledEyy
やっぱり金ある球団が強いんやなって
近年の低迷も金がないからだしもう終わりや
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最終更新:2024/04/25(木) 03:00
最終更新:2024/04/25(木) 03:00
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