諏訪直頼 単語

スワタダヨリ

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諏訪直頼 / 諏訪頼継 / 諏訪頼嗣 / 諏訪頼寛(普寛)(1329?~?)とは、南北朝時代の武将である。

概要

端的に言うと一人諏訪頼重の孫。祖を引き継ぎ南方の核ともなったが、基本的には小笠原氏打倒に生涯をささげた。

なお、上記4つの名前中世期の前田本『氏系図』から同一人物だろうとしているので、まあ同一人物だろうとしてこの記事を書く。

惣領家の空洞化に伴い

中先代の乱のまさに直前の建武2年(1335年)2月9日父親諏訪時継が大祝を退き、7歳の息子・諏訪頼継にその職を譲ったことが、彼の最初の登場である。つまり、大祝は諏訪の外には出てはいけないので、乱に参加する諏訪時継が準備のために彼に職務を譲ったのである。

そして臨んだ中先代の乱だったが、鎌倉を占拠したものの、襲来した足利尊氏軍に敗北し、祖諏訪頼重諏訪時継は自害。幼かった彼は、『諏訪明神絵詞』によれば、諏訪原郷に身を隠したと言われている。

かくして、一族の藤沢政頼が、建武政権の裁定に従って大祝となった。この『諏訪明神絵詞』は、意にそぐわない藤沢政頼の就任によって諏訪頼継が数々の奇跡によって守護されたような感じに書かれるが、後の展開から反藤沢政頼勢支援されていたのは確かなのだろう。

ところが、足利尊氏建武政権離反と、小笠原貞宗武田政義両名の諏訪侵攻が始まる。ここで、藤沢政頼を追い出し、諏訪頼継が大祝に復権して足利尊氏と良好な関係を結んだ、というのが『諏訪明神絵詞』の筋書きだ。が、はっきり言って諏訪氏の信仰やら足利氏との縁故やらを諏訪頼継に仮託した、この史料にしか記載がないのである。

というわけで、ぶっちゃけ史実かどうかは不明である。

南北朝の争乱に連動して

次に諏訪頼継が登場するのが、応3年(1340年)である。北条時行信濃で挙兵し、諏訪頼継がこれに祖の恩として呼応したのである。とはいえまだ12歳程度の少年であり、体性は不明ではあるが、かつてのと同様諏訪から出るために大祝を退いてはいる。

ただし、この時点で南信や中信で勢拡大を図り、近領にも進出していた小笠原貞宗らへの対抗も、実際はかねていたのであろう。

次に、『諏訪市史』によれば、貞和2年(1346年)に諏訪頼継が大祝を全に引退し、以後諏訪継宗の系統が継いでいったことになっているが、諏訪頼継は史料上以後も大祝と呼ばれているため、詳細は不明。

そして翌年・貞和3年(1347年)、諏訪頼嗣が、信濃守を願い、信濃権守になったという記述が出てくる。つまり、諏訪頼継は諏訪頼嗣に名前め、北に帰順したのである。ところが、諏訪頼嗣は本当の信濃守を狙い、信濃守を称していた小笠原氏と対抗していく。この後、諏訪頼嗣は結局信濃守にはなったようである。

このように、諏訪氏と小笠原氏の対立が深刻になっていたところで起きたのが、観応の擾乱である。当初は足利尊氏側の小笠原貞宗足利直義側の上杉成が近領を折半したことのように、両者の妥協ラインが図られていた。ところが、この際、足利直義北条氏系や南系の信濃武士を引き込むために、諏訪氏を利用した。ここで登場するのが、諏訪頼嗣からさらに諏訪直頼に名前めた彼である。

なお、信濃守直頼という一次史料が残っているこの名前は、おそらく足利直義偏諱じゃないかともいわれ、押も盛大に足利直義を意識しているような気もする。

かくして、在していた諏訪直頼は、信濃に再び下向し、小笠原政長に対抗して信濃守護にもなった。諏訪直頼は小笠原政長に対して快進撃をし、甲斐関東執事高師冬をも討ち取っている。小笠原政長がこの勢いに足利直義に降る一方で、諏訪直頼は再び上したようだ。

宗良親王との抵抗

ところが、足利尊氏方の反撃で中央の足利直義は不利になり、諏訪直頼もともに脱出した。小笠原政長足利尊氏方に戻り、信濃では宗貞と小笠原政長の戦いも勃発していたのである。

こうして関東逃げていった足利直義と別れ、諏訪直頼は信濃に入った。これが彼の運命を決めた。足利直義敗北に関わらず、信濃抵抗として残っていったのである。

これに、さらに結集核が加わる。東を転々としていた、南宗良親王信濃への突入である。観応3年(1352年)、新田義興らと呼応し、信濃宗良親王・諏訪直頼が挙兵。関東へ進撃したのである。ただし、足利尊氏との戦で敗走。両名は生き残り、小笠原政長から諏訪直頼を討てなかったことが心残りとも言われている。

以後も、宗良親王と諏訪直頼は抵抗を続け、小笠原政長の子息・小笠原長基との戦いを続けるが、南弱体化に伴い、彼もまた逼塞していった。

晩年

ところが、足利尊氏の死に伴い、足利直義の復権が進み、信濃守護も上杉房に変更。諏訪直頼も足利義詮に再度取り立てられた。かくして、ふんわり小笠原氏・諏訪氏の対立は続行してしまい、近領を巡って争っていく。

なお、『守屋満実書留』によると、諏訪直頼が大祝をこの時期もたびたび就任していたとのことで、前述の話と明らか矛盾している。なので、この諏訪直頼がこれまでの諏訪直頼と同一人物か、同姓同名の別人で諏訪為員の別名か見解が分かれている。

そして、応安年間にさらに名前を変え、諏訪兵部大輔頼寛を名乗る彼が、さらに登場する。信濃は斯波義種と小笠原長基の対立が始まり、この抗争で諏訪頼寛は斯波氏についたのである。なお、諏訪頼寛は依然として諏訪氏を統括する存在であり、相続問題などにも強いを持った。

応永4年(1397年)を最後に、彼の足跡は途絶えた。以後、諏訪氏は諏訪信嗣の系統が嫡流となり、彼の子息・諏訪貞信の系統は、高遠氏となっていった。

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