諸葛瑾 単語

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ショカツキン

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諸葛瑾』とは、

  1. 三国志に登場するロバ人物
  2. ねこねこソフト公式サイト内の漫画蒼樹うめ漫画が一番多いが、後半は蒼樹うめ、胡せんり、藤井の3人が順番に交代して担当することとなった。オダハラハコネが担当したこともある。活動再開後は諸葛恪となった。

である。本記事は1.について説明する。

概要

Zhu ge Jin
諸葛瑾
人名
諸葛
基本情報
出身地 徐州琅邪陽都県
出生-死去 174 - 241
別名 -
孫権
三国志の登場人物の一覧

174年、徐州琅邪陽都県にて誕生。諸葛叔父諸葛玄がいる。子には諸葛恪諸葛喬ら。7歳下のにあの諸葛亮がおり、もう一人諸葛均という名前は未詳だががいる。

若い頃は勉学のため首都陽に赴き、『左氏』『毛』『尚書』などを読んで多くの学問を修めた。また親孝行者で、実や継に尽くしていた。しかし陽で董卓の暴虐が始まった事で陽から脱出。この頃泰山に任命されたばかりのが病死し、一族は叔父に率いられ故地である琅邪へと戻ったものの曹操による徐州虐殺が発生、二手に分かれて戦火から逃れた。

この時、諸葛瑾はの後妻(継)についていき、諸葛玄が袁術劉表説もある)によって章太守に任じられ任地へ赴いた為、彼に引き取られていたとは離れ離れとなった。

揚州へと逃れた諸葛瑾は、とある人物と友人となる。その人物の正体は孫権の夫である咨という人物であり、諸葛瑾の才覚を見抜いた彼によって孫権に推挙された。ちょうどでは孫策が亡くなった直後で、人材確保に追われている時期であった。孫権も諸葛瑾の才覚を認め、召し抱えられる事となった。

諸葛瑾は大変温厚な性格で、裏切りとは縁の実な人物であった。独特な人柄によって交友関係を築き上げ、あっと言う間に重臣へと駆け上がった。さすがは孔明である。孫権は気に入らない臣下を遠ざける気難しい君であったが、やんわりと諭す諸葛瑾はされた。また虞翻孫権の機嫌を損ねて処刑されかけた時、孫権必死に説得して救った事もあり、あの三國志折りの偏屈者の虞翻から好感を得ている。一夫多妻が当然だった時世にも関わらず、後継者問題を避けるため正妻だけを愛し続けた。正妻と死別してからは後妻を持たず、死ぬまで独り身を貫いた。女性関係まで実というまさに人間の鑑である。

208年、80万の大兵力を有するに対し孫呉は降徹底抗戦かの二択を迫られていた。多くが降であったが、諸葛瑾は中立を貫いた。また孔明という事で、赤壁の戦いの前に使者として劉備のもとへ赴いている。これがきっかけで対外交官となる。

219年、関羽討伐のため出し、戦果を挙げる。義を討ち取られて激怒した劉備討伐の軍をあげ、東征してきた。この時も和解の使者として劉備のもとへ向かったが、怒り心頭劉備は届かなかった。その後生起した夷陵の戦いは快勝し、劉備軍は壊滅。またから攻められないよう団を焼き払った。

222年の夷陵の戦いでの大勝後、に侵攻した。諸葛瑾は潘璋と共に、夏侯尚軍に包囲された江陵の救援に向かった。文官タイプの諸葛瑾は戦が苦手で、とにかく兵を損なわない事を心がけた。そして反撃に転じて敵軍を蹴散らし、後に左将軍へ昇格した。

226年には襄陽を攻めるも、司馬懿に敗れる。229年に孫権皇帝となった際、大将軍に昇格。

241年に死去。享年68。何気に孔明より長く生きていた。

入念に作戦計画を立てる行動ぶりへの賞賛こそあれ、臨機応変に欠ける評価をされている。

兄弟として、忠臣として

赤壁の戦い前の開戦降議論で持ちきりとなったに、劉備の使者として参上した諸葛亮を見た孫権は諸葛瑾に彼をに引き入れてくれないかと相談、諸葛瑾は「私がを裏切らないように、もまた裏切らないでしょう」と回答した。

また、荊州返還や劉備との講和において、諸葛瑾が使者として赴く事が度々あり、臣(演義では張昭)は孫権に、諸葛瑾が諸葛亮と通じて帰ってこないのではと危惧したが、孫権は「子が私を裏切らないのは、私が子を裏切らないのと同じである」と言い返した。先の諸葛瑾の回答で感銘を受けた孫権もまた、諸葛瑾に全幅の信頼を寄せていた事がわかる。夷陵の戦いの前でもとの内通を疑われる諸葛瑾であったが、孫権が疑惑を一蹴。強い信頼で結ばれている事をはっきりと明した。

公式の場で諸葛亮と面会することも多かったが、会談を終えても私的に会う事はかった。これは孫呉()の重臣から内通を疑われないためだとされる。

兄弟って君を裏切らない考えは最後まで変わらず、二人が互いの君を見捨てる事はかった。

諸葛瑾=ロバ

面長の諸葛瑾を見たイタズラ好きの孫権は、宴の場で自分の驢馬(ロバ)を出して顔に「諸葛」と書いてからかった。周りの将軍も大笑いしていたが、諸葛瑾は微笑んで冷静に流した。諸葛瑾=ロバというイメージはこのエピソードから来ている。

そして話には続きがあり、父親を貶められた事が慢ならなかった息子諸葛恪が前に進み出て「文字を書き足す」事を孫権に申し出た。孫権がこれを認めると諸葛恪は「之驢馬」と書き足した。つまりこのロバは「諸葛瑾のロバ」とし、父親の名誉を守った訳である。父親想いかつ気が利く諸葛恪を見て孫権は感心し、その驢馬を諸葛瑾に与えた。

本人は息子諸葛恪を見て、この才で身を滅ぼすのではないかと予感したという。実際その予感は的中してしまい、のちに諸葛恪傲慢なりすぎて処刑されている。

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