豊臣秀頼(とよとみ ひでより)とは安土桃山時代から江戸時代の人物。1593年生まれ、1615年没。
天下人となった太閤・豊臣秀吉の跡取りであり、彼の3人目の息子であると言われている。母は側室であった浅井長政の娘・茶々(淀殿)で異母兄に羽柴秀勝(石松丸)、同母兄に豊臣鶴松(棄丸)がいる。妻は徳川秀忠の娘・千姫で、他の側室達との間に息子・豊臣国松と娘・奈阿姫(天秀尼)がいる。
秀吉が57歳という高齢の頃に生まれており、そのことが様々な憶測やドラマを産むこととなる。
4年の短い人生を終えた兄・鶴松の死の2年後に誕生。それによって親戚で秀吉の養子でもある豊臣秀次や小早川秀秋の後継者としての立場は危うくなり、秀秋は養子に出された。既に関白の地位を秀吉から継承していた秀次は秀頼との兼ね合いに苦心し、秀頼と自分の娘の縁談を結ぶなどしていたが結果的には切腹を命じられた上に一族郎党も粛清されてしまう。
秀吉は幼い秀頼を補佐させるために、五大老・五奉行を用意するなど環境を整えていった。1598年には秀吉が逝去、5歳の秀頼は豊臣家の家督を継承して大坂城に移った。しかし、政権内での権力闘争は深まる一方で、徳川家康が徐々に主導権を握っていく。
7歳の頃には関ヶ原の戦い(1600年)が勃発。石田三成・毛利輝元ら西軍も徳川家康ら東軍も戦いの大義を秀頼公のためとしており、勝利した家康を秀頼は忠義者と労った。しかし、戦後処理で家康に所領を勝手に分配され、秀頼は一大名に転落してしまう。それでも影響力は保っており、10歳の頃には家康の孫娘で母方の従妹・千姫と結婚した。
15歳(1608年)の頃には側室との間に息子・国松が誕生、翌年には別の側室との間に娘・奈阿姫(天秀尼)が生まれている。
18歳の頃には上洛して家康との会見が実現したものの、豊臣と徳川の関係は微妙な状態が続いていた。
その3年後の1614年には大坂冬の陣が勃発。徳川幕府との戦いとなり、既に豊臣に協力する大名は少なく、大坂城に駆けつけたのは関ヶ原西軍に与して改易された元大名や浪人達であった。寄せ集めの軍で統制はよろしくなく、意見が対立することが多かった。大坂城の防御力により戦況は優勢だったが幕府軍が絶え間ない砲撃を行うことで和議まで持ち込まれることとなる。秀頼は反対したとされるが、大坂城内は大筒の砲撃で激しく動揺していた為に和議となった。この和議で大坂城の堀は埋められ城郭の一部は破壊されてしまった。
和議が結ばれても関係改善には至らず、翌年には大坂夏の陣が勃発。最終的に豊臣軍は敗北。秀頼と淀殿、重臣の大野治長らは自害したと伝えられている。享年23歳(満21歳)。
小柄であったとされる父・秀吉と違って、身の丈6尺5寸に体重43貫(身長197cm、体重161kg)であったとされる巨漢。母方の祖父・浅井長政も大柄、祖母・お市の方も長身であると言われているので隔世遺伝なのかもしれない。成長した体躯から醸しだされる威厳に家康が恐怖したとまでする記録もある。
好物は蒲鉾。
秀吉と体格が違いすぎること、遅くに生まれた子供であることなどから本当は秀吉の子供ではないのではないかと言われることがある。秀吉がなかなか子供に恵まれていなかったこともその噂に拍車をかけており、同母兄の鶴松も含めて秀頼兄弟の父親については諸説ある。
よく挙げられる名前には石田三成や大野治長などがある。三成は浅井家にゆかり深い近江出身、治長の母は淀殿の乳母であったなどの理由で創作物などでは彼等との仲が取り上げられることも多い(ただし秀頼は生年月日が記録されている人物なので、淀殿が秀頼を授かった時期をある程度推測することができる。それによると、当時朝鮮半島に渡っていた三成であるとは考えにくい)。
しかし特に決定的な証拠があるわけではなく、徳川の治世において淀殿を悪役とする為の流言や言いがかりでブーストされている側面もある。
死体が発見されておらず、自害の目撃談がないことから伝説的な生存説が複数ある。薩摩の方に落ち延びたという逸話が多い。秀頼が生きていたかは兎も角、後の島原の乱では天草四郎が豊臣秀吉と同じ馬印を使ったことが秀頼生存説の論拠となっており、四郎は秀頼の落胤であるという説もある。
秀頼とは母方の従兄妹同士(秀頼の母の淀殿(茶々)と、千姫の母の崇源院(江)が姉妹)。夫婦仲はよかったが子供が出来る前に大坂夏の陣で秀頼は自害してしまった。千姫は大坂城から救出され、その件で坂崎直盛と一悶着あったものの本多忠勝の孫・本多忠刻と再婚して余生を過ごすこととなる。
秀頼と側室の間に生まれた奈阿姫を養女として助命嘆願している。
秀頼と側室との間に生まれた息子で、奈阿姫とは異母兄妹である。正室の子ではないせいか生後すぐに秀頼の伯母・常高院の嫁ぎ先である京極家にあずけられており、砥石屋弥左衛門の養子となっている。大坂夏の陣で父と今生の別れの後、城を脱出したが徳川方の捜索で連行されて市中車引き回しの後に斬首された。享年8歳。
秀頼と側室との間に生まれた娘。大坂夏の陣の後、異母兄の国松は処刑されたが奈阿姫は千姫の養女となり、寺に入ることで助命される。その後、尼僧となって東慶寺20代目住職に。寺は縁切り寺として有名になった。37歳で死去。
奈阿姫の養育係は秀吉の側室で女ながらに武勇で知られる甲斐姫であったと言われており、大坂夏の陣では果敢にも奈阿姫を守って敵中突破して城を脱出、助命された奈阿姫と共に東慶寺で尼僧となったという逸話がある。
Ver3.0でやっと登場。兵種は弓足軽。時代は関ヶ原なので幼少期らしくショタ枠である。
武力・統率共に1コストとしても物足りないが、特技は魅力・防柵・豊国と3つ所持している。
「こ、ここは逃げる!後は任せたよ!」
親を彷彿とさせる台詞と共に放つ計略は「後は任せたよ!」で、自分は自城へ移動し、城内にいる最も武力の高い味方を戦場の中央ラインに出すというもの。更に副次効果で日輪ゲージも増える。
大坂の陣に舞台を移したVer3.1では凛々しく成長した姿の秀頼が見受けられる。
コスト2で武力6統率7、特技は制圧・防柵・魅力の3つの槍足軽と悪くは無い。
計略は「君臣豊楽」。エフェクトが父の超絶絢爛と同じというのも感慨深い。ちなみに担当声優も同じだったりする。
計略内容は3.1で追加された結集計略中の味方を分離させ、その分離させたコストが多い程、武力と統率と兵力が上がる。
掲示板
253 ななしのよっしん
2025/02/02(日) 08:28:08 ID: 1J8bfEzKHp
伏見とか名護屋とかで政務する秀吉と聚楽第で政務する秀次って感じで権威の所在が曖昧でちゃんと秀頼筋に権力移行するのか不安だしで放置したら応仁の乱か壬申の乱になりかねないし強引な粛清どのみちやるしか無かった感は確かにある(それで最上等が巻き添えになったりタイミングの悪さが悪い意味で神がかった)
家督としての関白と豊臣氏長者を一括で禅譲した(家康→秀忠で将軍は継承するのを示したように近衛ら本来の関白継承する家じゃなく豊臣の家職となったというのを示す為に)ことで秀吉が秀次を掣肘しにくくなってたし
義満や家康辺りはその辺将軍は譲ったけど家督無いし氏長者は最後まで禅譲しなかった
254 ななしのよっしん
2025/02/02(日) 08:55:01 ID: H87Cb75N29
秀次が有能だったとは思わないけどボンクラならボンクラなりに神輿をやっていれば、秀次派という豊臣家中の派閥が関ケ原時点まで存在していた可能性はある
で秀次と中村一氏山内一豊堀尾吉晴はまとめて尾張伊勢から三遠駿を押さえていたので、関ケ原前のたられはを考える余地もあるのでは
まあそれはそれで将来的に秀頼と秀次の対立構造に発展する可能性も当然ありえるけどなブヘヘヘヘ
255 ななしのよっしん
2025/02/16(日) 17:11:46 ID: ywLUaKaWZ/
関ヶ原は結局のところ武威のある秀吉が、唐入りで儲けさせたるから諸大名は秀吉の言う事聞いて軍事動員し続けろ
という国是の秀吉政権が秀吉の死でご破産になって、結局得にもなってねーし政権自体クソ弱くなってんのになんで言う事聞かなあかんのか
という部分が主要因なので、仮に廃嫡前からの形が変わっていないのであれば、秀次の後見を家康がした状態で秀次を後継者指名されたとしてもその不満は消えてないし
小早川家が家臣も総とっかえで毛利と関係ない家になった挙句、秀吉遺言で秀元へ領地割譲命ぜられて不満たらたらの毛利は結局画策するだろうし
石田は秀吉の代では側近してたけど秀次には秀次の側近層が出来上がってて結局干されるのは変わらないから結局なんか画策するだろうしで、この2人が組んで秀頼担ごうとなんかするまでは変わらんのじゃなかろうか
勿論史実ほど上手く行くとも思えないが
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最終更新:2025/04/09(水) 15:00
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