要約すると弥生時代のクニの首長がさらに成長した存在。その中でも大和にいた後の「古事記」や「日本書紀」と言った祖霊概念を共有するヤマト王権が次第に列島全体を序列化していき、こうしたクニの首長も豪族として組み込まれていった。
その中でも中央の政治にかかわっていた一部の豪族が貴族となっていくが、やがて藤原氏と源氏以外は次第に消えていき、中世のイエが成立していく。
実は、『国史大辞典』に立項されておらず、『考古学事典』で津出比呂志がそんなに厳密な定義がないとしている古代豪族。これに対して割と知られている概念が「氏」である。要するに、父系の共通の祖先を持つ血縁者の(あるいはそうだと信じている)集団が、氏である。
この氏もさらに、居住地を名前にする一族と職業を名前にする一族に大きく分けられる。はやい話、日本史における豪族とは、前方後円墳に埋葬される地方の有力首長をも含めた古代の有力氏族、というかなり漠然とした存在ということなのだ。
後述するヤマト王権は、かなり雑な理解でいうと大王を中心にした有力な豪族が集まってできた連合政権である。そうした首長達を序列化するために開発されたのが、氏姓制度ということなのだ。つまり、氏姓のトップである氏上が地域政権のトップであり、これを治めるのが中央の大王、ということである。
氏上は、氏集団を率いてヤマト王権に参画していた。そこでヤマト王権に与えられたのが、地位を示す「姓」である。もともと成立期に協力した氏には「臣」、職能をもって仕えてきた氏には「連」といった、あれである。ということになっていたが、最近では継体天皇の側近として彼の即位戦争に協力した氏族が「連」だったともいわれている。こうした臣や連のさらに有力な存在が「大臣」や「大連」として大王の側近となり、地方の行政官となった存在は国造や県主となっていった。
が、ぶっちゃけ、色々あってヤマト王権が強くなった。結果として成立したのが「冠位十二階」や「八色の姓」といった、ヤマト王権内の完全な序列化である。一方、この結果として地方の豪族の政治参画が進み、一方で完全に特権階級化した中央豪族が貴族化し、両者が混然一体となりながら、中世の諸勢力が出てくる、というのが古代史の立場である。
なお、豪族には大雑把に、中央系・地方系・渡来系という3区分がある。これもまた、蘇我氏って結局何なのだの、秦氏とは?だの、蝦夷やクマソ・隼人の類って何だの、色々めんどくさいので、ここはちょっとノータッチでいさせてほしい。
弥生時代になると拠点集落遺跡が多数みられるようになるが、その中でも経済の三要素の再分配すら成立させるほど、交易のネットワークを掌握し差配した存在が、畿内などを中心に登場した。こうした集落は、分業体制、つまり他の集落と何らかの形で差別化される専門業務を担っており、例えば唐古・鍵遺跡といった傑出した存在による、クニが誕生していったのだ。
その後、3世紀半ばに箸墓古墳が登場する。これはそれ以前の楯築墳丘墓をはるかに超える大きさである。これが有史最初の古墳だったわけではないと思うが、この時期をメルクマールにして、日本全国に、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の4種類の建造物で序列化された秩序が広がった。早い話が、列島の大部分に同じ秩序が共有されたのである。
その中心にいたのが、現在の天皇家につながるともいわれているヤマト王権である。彼らが三角縁神獣鏡や古墳を用いて、全国のクニを統制したのである。なお、この話とは一ミリも関係ないので、邪馬台国についてはスルーさせてもらう。
なお、実は崇神天皇と思われる実在した最古のヤマト王権の首長と、箸墓古墳を中心にした初期の前方後円墳の作り手の間にわずかな差があり、「プレ・ヤマト王権」的なものを見出す学者もいる。また、前方後円墳の祭祀は北條芳隆によると各地域のちゃんぽんであり、奈良盆地に特有の祭祀が反映されたものではない、ということである。
この時期を初期国家論として定義したのが、津出比呂志である。以下の5つの要素が次第に出そろっていくのが、古墳時代である、としたのだ。
ただし、津出の言うヤマト王権の絶対的な支配がどの程度あったか、つまり各クニの首長たちの主体性はどの程度あったかについては議論のただなかであり、あくまでもヤマト王権と各クニの首長とは同盟レベルにとどまり、ヤマト王権は影響力を及ぼそうと努力していたのがこの時期であるとする見方も多い。
というか、ぶっちゃけ、このような属性をこの時期にもてていた地域は、畿内、吉備、北部九州くらいである。
とはいえ、5世紀に入ると、巨大古墳の時代に入る。古市古墳群・百舌鳥古墳群を筆頭にした畿内、それどころか、それ以外の地域にもそれには及ばない巨大古墳が見られるようになったのだ。
文献史学としては、この時期はちょうど倭の五王の時代だが、一つ立ち止まってほしいのが、古市古墳群と百舌鳥古墳群の2つがあることである。つまり、大和と河内は同じ王権か、別々の王権か、ということである。
ここで文献史学に基づくと、応神天皇、仁徳天皇、反正天皇に限っては、大阪平野に王宮を作ったことになっている。早い話、この時期だけヤマト王権が河内にいたのは、後世公式設定として盛り込まれているのである。
とはいえ、ぶっちゃけると、大和の三輪山祭祀は途切れることなく続いていたようなので、王権輪番説なんかも唱えられているが、この話も豪族にはあんまり関わりないので、スルーで。
この時期の古墳の重要な変化として、古墳の外延部に衛星のように作られた小さな古墳に埋葬される身分「陪冢」の出現である。つまり、官僚機構のようなものができ、政権と呼んでもふさわしい洗練されたものが、大和でできつつあった。そして、この時期に、中央と地方の統治方法として重要なのが、鉄製武具の配布である。5世紀半ばには、武力を集約したヤマト王権が、一種の砲艦外交を行っていた、ともいわれる。
早い話、鉄器生産の独占、馬の飼育・生産の独占といった、資源を一手に引き受けた存在がヤマト王権であり、地方の首長の間に、中央から派遣した中間首長、陪冢といった存在を、落下傘的に配置することすら可能になったのである。
この時期倭王武、おそらく雄略天皇の時代にようやく稲荷山古墳などから文字史料が見つかりだす。こうした史料からは後の部民制につながる人制がすでに埼玉県や熊本県にまで広がっていた、ということである。
以後、割と未だに出自が確定していない継体天皇が、敵対勢力をボコりながら、大和に入った。そして、天皇の側近・大連の大伴金村が、朝鮮半島の任那四県を割譲したことで失脚するように、既になんかヤマト王権の中に序列ができているのである。
継体天皇にとって問題になったのが、この朝鮮半島への足掛かりを後退させてしまった案件である。これに関連して起きたのが、磐井の乱であり、磐井を倒した物部麁鹿火が継体天皇に磐井の領地をミヤケとして拠点化した差配が見られる。また、武蔵国造笠原使主が小杵と争った結果、笠原使主がミヤケを割譲された記事等、あきらかに地方の争いを利用してヤマト王権が支配を拡充させているのである。
さらに継体天皇と安閑天皇・宣化天皇の間に政変あらへん?的な辛亥の変説もあり、これを言い出した喜田貞吉を継承した林屋辰三郎は、この時期ぶっちゃけ内乱があって、それを収めた欽明天皇が全国への支配権を確立した、という説を提起している。が、今城塚古墳と新池埴輪製作遺跡からは内乱は読み取れず、この話も割とスルーさせてほしい。
5世紀後半から6世紀にかけて、全く新しい古墳群が成立した。つまり、それまで古墳群の中心だった地域から、明らかに軸足が移り、群衆墳が誕生したのである。
この群衆墳からは、親族モデルすら再建され、女性家長もまだ見られるなど、双方的親族構造が見いだせる。
さて、とてつもなく前置きが長くなったが、ここでようやく豪族に関する話になる。5世紀末から6世紀にかけて、部民制が敷かれた。これは、後に大化の改新で廃止される制度である。簡単に説明すると、人をよこせと地方豪族に要求する制度である。
まず、地方に設定された部がある。そこのトップである伴造と中央に派遣された伴造が協力してそれぞれの部を管理していくのである。この部には以下の3種類がある。
この部から舎人・膳夫・靫負といった人的資源「トモ」を集約させ、中央で各豪族を差配していたのが、ヤマト王権であったのだ。
一方で、磐井の乱などでヤマト王権が完全に直轄地として手に入れたのが、ミヤケである。この土地は、外交拠点や軍事施設などに利用されていく。
こうして、大王と大臣・大連といった中央に仕える豪族たちが、部とミヤケを通じて地方を統治していた、というのが飛鳥時代直前のヤマト王権だった、というわけである。
かくして、欽明天皇の代になる。欽明天皇は蘇我稲目を大臣に任命し、部民制の組織化・ミヤケ制の展開など、専制王権化がいっそう進む。この時期に来たのが、仏教であり、新興勢力蘇我氏と結びつき、今後取り扱いをどうするのか問題になっていくのである。
これ以後の物部大連家滅亡と崇峻天皇の暗殺を引き金にした、推古天皇推戴以後壬申の乱に至るまでは、別の記事で取り扱いたいのでここでは割愛させてほしい。
大伴氏とは、前述した伴造の一番トップにあたる存在であり、早い話ヤマト王権の近臣集団の最頂点に位置する存在である。そのため、大伴氏にとって自分の祖先は天孫降臨や神武東遷にも従った最有力近臣である、ということになっている。
大伴氏といえば、大化の改新以前の軍事を統括する存在だったことが大きい。対外関係でも重要視された大伴氏は、壬申の乱でも活躍し、平安時代にかけても征夷戦争に深くかかわった。が、応天門の変で没落していくこととなる。
物部氏もまた、大伴氏と同様ヤマト王権のある時期まで軍事を担った近臣集団である。当然物部とは物の部のことであり、部民制以後に現れた、新興勢力であるわけなのだ。
この物部氏であるが、部を通じて地方と緩やかな紐帯を多数築いていたようだ。この結果、同系氏族を多数抱えるほど栄えたが、物部守屋の討伐で勢力が衰える。とはいえ、天武朝で有力な人物だった物部麻呂など、以後も有力者を出している。
中大兄皇子と中臣鎌足に滅ぼされた(滅ぼされていない)ことで有名なあの人たち。渡来系というのはすでに否定されたが、推古天皇期に厩戸皇子と同ランクの有力者だった半面、ほぼ蘇我稲目あたりから出始めたぽっと出のような気もしなくもない。
ただし、古来よりいた「大臣」と継体天皇期のぽっと出である「大連」の対立を征した蘇我馬子によって急速に地位が高まり、乙巳の変で本宗家が滅んだ後も、分家達は引き続き天皇家に仕えていった、というわけである。
漢字がぶれまくっている氏族筆頭。この阿倍氏であるが、同じく大和地域の氏族であり、蘇我氏の側近的存在としてヤマト王権で重役を担った存在である。
実はこの阿倍氏は複数の雑多な一族が共通する系譜伝承によってまとまっていた氏族である、という見方が有力である。
王権の馬の管理者として有力な一門だったが、権勢を誇り大王家に滅ぼされた。
近江を拠点にした皇別氏族のひとつで、継体天皇にも連なるともいわれている。
大伴氏とセットになって「御門の守り」を司る氏族。早い話が古代の軍事氏族である。
武内宿禰の後裔を名乗る氏族の内、かつての中央氏族から地方豪族に転じた存在……なのだが、同じ氏族でヤマト王権にスタッフとして残ったものが朝臣となっていったややこしい存在である。
渡来系のいわゆる「ワニ」系氏族。東漢氏は軍事を司ることもあったが、どちらも文筆を担っていった。
読んで字のごとく東国出身の地方豪族。律令制が敷かれて以降、中央に進出した。
名前の通り尾張・美濃を中心にした巨大氏族。擬制的同族関係に基づく集合体でしかなく、真面目に謎の存在である。
名前の通り吉備を中心にした巨大氏族。ヤマト王権の勢力拡大で、かつての規模も陰り消えてしまった。
母体となった土師氏は豪族だが、菅原氏自体は桓武天皇に取り立てられた新興勢力。
なお、土師氏は名前の通り、埴輪製作などを担ってきた専門集団である。
わけのわからないことを言っている素人が大量にいるのがこの分野なので、事典だけを設置したい。
掲示板
1 ななしのよっしん
2022/02/08(火) 21:07:29 ID: 2i4Hpw4gF9
源氏平氏とか出身皇族でも土着すれば豪族って呼ばれるんじゃない?坂東八平氏とか。
2 ななしのよっしん
2022/02/08(火) 21:27:40 ID: e32FyS5sp6
そこら辺は一般名詞としての用法ですね
日本史上で豪族として定義される存在を記載した場合は外れる認識です
3 ななしのよっしん
2022/02/08(火) 21:29:48 ID: e32FyS5sp6
後、中央から国司や受領を経て地方にも進出した家門って、無茶苦茶扱い難しいんですよね
少なくとも、土着というイメージ自体、かなり古いアレです
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最終更新:2024/04/20(土) 01:00
最終更新:2024/04/20(土) 01:00
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