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賈似道単語

カジドウ

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賈似道(12131275)とは、中国の南時代の軍人、政治家である。

出自

字は師、今の浙江台州の出身。は賈渉という官吏で、東制置使(地方の軍官)という職に就いた時に息子の賈似道も楚州(江)に一緒に付いていったが賈似道が11歳の時には病没している。
その後はの生前の功績で官職に就いていたが、賈似道のが時の南皇帝理宗()の妃として寵を受けており、その働きかけで賈似道は科挙の予備試験を免除してもらい最終試験の殿試を通って進士となった。

賈似道は1246年(6年)に、名将として知られるの後を受けて制置使となり、当時を接していたモンゴル帝国への防備強化に努めた。やがて両制置大使となった彼の権勢は次第に増大していくが、そこにモンゴル帝国侵略が発生する。

鄂州の役

当時の中国華北モンゴル帝国が制圧し、華南を南が治めていたが、モンゴル帝国第4代ハーンのモンケ・ハーンは積極的外征を行っており、先にモンケクビライ雲南の大理を征させていた。
1258年(宝6年)、モンケ自ら四に親征し、クビライは鄂州()、ウリヤンカダイ(猛将スブタイの子)は広西から同時に攻めて鄂州で落ち合うという大規模な軍事行動に出たが翌年モンケは病没してしまう。

一方、クビライモンケ死後の大ハーン争いの動向を気にしつつ、鄂州を包囲しウリヤンカダイの軍勢を待って合流してから本軍を撤退させようとした。ウリヤンカダイの軍勢が合流し鄂州を包囲するがそこを賈似道は呂文徳と共に攻撃し、長江を渡って撤退しようとしたウリヤンカダイ軍を追撃、170余の首級を上げた。

この戦果により、1259年(開慶元年)に賈似道は右丞相となり翌年には単独の丞相として南の実権を握する。ただ、この時話が出来過ぎているということで賈似道がクビライと密約を結んでいると噂されるようになった。

半閑老人

賈似道は丞相となると、論功行賞を行うだけでなく戦利品の着など不正行為のあった将軍達を処罰した。文官達には温情で望み、猟官運動を厳しく断ずる一方隠遁していた学者達に出仕を乞いそれなりのポストにつけた。
首都臨安府(浙江)で普段から何かあると示威運動をして強硬な態度を取る学校学生達にも学費の援助、試験の易化などで懐柔させてしまった。

当時、軍隊に支給する兵糧の買い上げに政府は会子という不換紙幣を使っていたが、賈似道は会子の発行を抑制し、大地の所有する田圃のうち3分の1を強制買い上げしてそこからの収穫を兵糧に回そうとした。1万畝を寄進した賈似道だけでなく栄王与芮(理宗の、度宗の)にも所有田を寄進させて反対の口を封じようとしたがわず、この施策は浙西だけに留まったが、常に600万石の兵糧を蓄えることができた。
さらに賈似道は大地らの反発を押し切って大規模な検地を実施し、会子に代わる紙幣を通用させた。

1264年(定5年)に皇帝理宗が崩御し、甥の度宗()が即位する。太師、となった賈似道は西湖に面した私邸(半閑亭。賈似道は半閑老人と号した)で政務を執り、心と政務を処理して朝廷官はただ盲判を押す体制が出来ていた。
政務の傍ら文芸を愛し美術品の保護に勤しむ賈似道はこのまま寿を全うしていたら名宰相と讃えられ後世に美名を残したはずだったが、運命の暗転はその前にやってきた。

失脚と最期

モンゴル帝国の大ハーン位をとの抗争の末手に入れたクビライは、中央アジアの反勢と戦いながら南遠征を再度計画する。1268年(咸4年)、アジュ(ウリヤンカダイの子)と史沢に揮されたモンゴル軍は南の要衝である襄陽と樊双子都市を攻める。ここを制圧されると南首都臨安は丸裸にされたも同然である。
襄陽の守将呂文煥(呂文徳の)はさすがによく守り、南も二度救援部隊を送ったがいずれも撃退され、賈似道の婿范文虎の10万の軍勢も持久戦の準備を整えていたモンゴル軍に敗する。1273年(咸9年)、新兵器回回の攻撃を受けてついに襄陽と樊は陥落、呂文煥はモンゴル軍に降伏した。

襄陽の失陥と呂文煥の降伏は南に衝撃を与える。翌年、クビライバヤンに命じ20万の大軍で南征伐の軍勢を率いさせ、同年のうちにモンゴル軍は鄂州を落とす。その前に南皇帝度宗は崩御し、4歳の隰が即位していた。
ここへ来て賈似道自らモンゴル軍と戦うべく船を集めて決戦を挑もうとするも婿范文虎モンゴル軍に投降て行きは怪しくなる。賈似道はバヤンに和議を請うも一蹴され、近辺の丁の戦いで大敗を喫した賈似道は臨安に戻らず、皇帝に謝罪と上に避難を勧める手紙を送った。だが朝廷ではかつて賈似道の心だった陳宜中がこれに反対し、賈似道は廷臣たちの弾劾にされる。太皇太后謝氏(理宗皇后)のとりなしで漳州(福建漳州)へ流罪となった賈似道だったが、流刑先で鄭虎臣という人物に撲殺された。私とも陳宜中の示ともいう。享年63歳。

首都臨安が無血開城したのはその翌年の1276年(徳2年)だった。

范文虎

大元(モンゴル帝国クビライの政権)に降伏した范文虎だが、1281年(至元18年)にかつて南の領土だった江南の軍勢を率いて官として日本征伐に赴く。いわゆる安の役である。しかし彼の配下達が江南軍と合流した東路軍(高麗から来た軍勢)との協議前に勝手に帰還してしまい、元の大船団は暴風雨に襲われて壊滅、日本軍の襲撃もあり范文虎はほうほうの体で本に逃げ帰った。

時は過ぎ1301年(大徳5年)、かつて日本を攻めた軍勢の生き残りが范文虎及び戦前に勝手に逃げた范文虎の部下達を告発した。大ハーンだったテムル(クビライの孫)は激怒して調の上、范文虎やその妻(賈似道の)、部下達の一族を皆殺しにさせた。

エピソード

  • 賈似道は董の収集として知られる。名品のためなら人事に融通を聞かせたり、古墓の盗掘をも厭わなかった。またコオロギ相撲(闘蟋)に造詣が深く、『促織経』なるコオロギ大百科を著すほどだった。『悦生随抄』というエッセイも残している(悦生は賈似道の号の一つ)。
  • クビライ・ハーンが南の降将達に問いただしたことがある。(『元史』)
    「なぜお前たちはたやすく降ったのだ」
    「賈似道が文士ばかり優遇して、々武官を軽んじたからです」
    お前たちを軽んじたのは賈似道であって皇帝ではない。なのにお前たちは皇帝に忠を尽くさなかった。賈似道がお前たちを軽んじたのも当然であろう」

関連動画

シミュレーションゲームチンギスハーンIV」ではシナリオ2の南オープニング悪役を演じている。しかし賈似道自身の値は高く、ゲームではその智謀を生かして戦闘での混乱係や間諜をやらされることが多い。

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関連項目

掲示板

  • 1ななしのよっしん

    2016/12/30(金) 18:22:47 ID: xkJNnpmjnu

    おお、いつの間にか賈似道の記事ができてる。作成乙
    立ち位置的には檜と似ているとも思うが、檜ほどかれないのは賈似道一人がいてもいなくてもクビライによる征を防ぐことはできないってのが大きいのかな。

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最終更新:2019/09/19(木) 18:00

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