賈充 単語

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カジュウ

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賈充とは、三国志に登場する人物である。

概要

字は閭。河東襄陵(現在の山西省)の出身。の名臣である賈逵の子。

12歳の時にを亡くし、爵位を継ぐ。やがて出仕し、司馬懿の子司馬師に従事するようになる。毌丘倹文欽の乱の時は司馬師の参軍となり、司馬師の死後にその軍を取りまとめた。司馬師司馬昭に命じられて揚州に駐屯していた諸葛誕の動向を探り、諸葛誕の叛意を報告し、諸葛誕が反乱を起こすよう仕向けている。
260年、皇帝曹髦が司馬昭打倒のための兵を挙げると、配下の成済に曹髦を刺殺させる。さすがの司馬昭もこれには驚き、陳泰司馬昭に賈充をって下に詫びよと直言したが、結局は成済の三族を皆殺しにするだけで後処理を済ませている。

司馬昭息子司馬炎譲によってを建すると、筆頭の功臣として賞される。その一方で「泰始」と呼ばれる中国最初の法典制定に携わったり、この頃から本格的に北方荒らし回っていた異民族の反乱に赴くなどしている。

に対しては終始討伐消極論を唱え、羊祜杜預張華などの批判して、279年にを討伐する大軍の総司令官を任されても度々撤退をしていた。しかし最終的には滅ぼされ(280年)天下統一は成り、賈充は司馬炎に謝罪したが、これが原因で賈充の勢は削がれることはなかった。

282年、66歳で逝去。魯に封ぜられていたため、魯武と諡される。賈充自身はの忠臣であったが、賈南風(後妻の)を強引に司馬炎の子で皇太子司馬衷にがせる一方、別のの賈褒(先妻の)は司馬炎司馬攸いでいる。結果として賈充の子や孫の世代が大きく関わった八王の乱という内紛で、は滅亡のを急速に突き進み、賈充の一族をも巻き添えにしていく。

評価

に仕えながらを殺したり、では己の権を確かなものにするためにを強引に皇太子妃にしたり次々と政敵を排除するなどが滅亡する遠因を作っており後世の評判は悪い。
ただ、泰始の制定にみるようにその政治は確かなものがあった。また、の討伐に反対したのも、建間もないの基盤を固め異民族への対処を重視すべきと考えていた、婿司馬攸喪期間中であり司馬攸を総大将にして討伐を飾らせようと思っていた(司馬攸司馬炎から冷遇され憤死するのは賈充の死後)、などの説もある。

賈充の一族

後述するように、彼の周囲にいる女性はやたらが強い。

夫人(李婉と郭槐)

賈充の先妻は李豊である婉である。婉は李豊侯玄らと司馬氏排除の陰謀を企てたことが発覚して一族皆殺しになった際、婉も離縁されて(シャレではない)流罪となった。その後、直後に恩赦があり、婉も許されたが、賈充は既に郭淮の姪である槐を後妻として結婚していた。
司馬炎は賈充にこの二人の夫人を正妻として置くことを許したが、婉は賈充のには戻ろうとしなかった。

ある日、賈充の後妻の槐は賈充に、婉がどんな女性か見に行きたいとねだった。賈充は「あれは強情で才気があるから行かないに越したことはない」と行ったが槐はそのまま出かけた。
しかし、奢な支度をした槐を迎えようと婉がから出てきた途端、槐はその姿を見るや足からが抜けて跪き、再拝してしまった。帰ってこのことを賈充に話すと賈充は「だから言ったじゃないか」と答えたという。
(『世説新』より)

この一方で槐にはこんな話も伝えられている。ある日賈充がに帰ってきた時、夫が別の側室との間に作った男の子の賈民をが抱えていて、賈充が賈民をあやしていたのを賈充がとデキていると思い、槐はそのを殺した。賈民は泣き止まず他人のを飲まずにとうとう死んでしまった。
もう一人賈充には男の子がいたが、同じように嫉妬心からその子のを殺して結果的にその子を死に追いやったため、賈充が死んだ時男子はおらず、槐は次女賈午の子である孫の謐を理やり賈充の跡継ぎにして賈謐と姓させた。

母親

賈充の母親氏といい、古今の事柄に通じ節義を重んじる人だった。当然皇室に関する想いも強く、曹髦を殺した犯者(ということに司馬昭がした)である成済をしょっちゅう罵っていた。氏の発言は者の間で密かに笑いものになっていたという記述もあるため、相を知らなかったのは母親だけのようである。
母親の臨終の際、賈充は最期に言っておきたいことを聞いた。帰ってきた答えは「婉のこと以外に言い残すことがあるのか」というものだった。

書には母親の罵倒に賈充がどのように思っていたかまでは記載されていない。もっともわざわざ最期に確認したことを載せる辺り、察しろと言っているようなものだろう。

娘と孫(賈午と賈謐)

賈充と槐の次女である賈午は、ある日宴席の場でというイケメン一目惚れし、の元使用人だった女中に取り持ってもらい密通するようになった。
やがて賈充は、の体から、自分が司馬炎から拝領した特別な香の匂いがするのに気づき、の密通を知って、と賈午を結婚させた。
この時代、自由恋愛というものはほとんどなく、の都合で縁談が決まるケースばかりだったため、後世にこのことが恋愛譚として伝えられること自体が特殊だったといえる。
と賈午の子が、賈充の養子となった賈謐である。賈謐は司馬炎死後、伯母皇后賈南風らと共に権勢を振るうが、司馬倫クーデターの際に賈南風、賈午、賈謐らは一族皆殺しになった。

各メディアにおける賈充

三国志大戦

三国志大戦にはの賈逵や賈南風が参戦しているが、他の賈充一族はまだ出ていない。Ver3.59でUC賈充としてようやく登場。

捜神記

孫策于吉呪い殺されたとかの小説が載っている『捜記』にはこんな話が収録されている。

賈充がの討伐戦に従軍していた時、突然行方不明になった。部下の周勤が寝していた時、賈充が大勢の兵士に捕らえられに連れ込まれるをみて、が覚めると賈充が行方不明になったと大騒ぎになったので、探しに行くことになった。
でみたを周勤が見つけ辿っていくと、どこかの役所で長官が賈充を取り調べていた。「を乱すお前と荀勗(荀彧の族孫)だ、息子だけでなく孫にも迷惑かけるのか。他のに追放させようとしたり一括させても駄だし、今度の戦いでを征討してもお前張華をヌッコロセと言う、いい加減にしろ」
賈充が頭を地面に打ちつけて許しを乞うと長官は「今までのお前の出世の功は認めるが、お前の後継ぎ(賈謐)は鐘撞き堂の柱の間で死に、上の子(賈南風)がを飲んで死に、下の子(賈午)が枯れ木に痛めつけられ(てあぼーんす)るはずだ」と言い、帰れと命じた。賈充はなんとか軍営に帰り着いたが錯乱状態で、幾日してやっと回復したという。この長官は言動からし司馬昭らしいが不明である。

洛陽の姉妹

安西篤子『陽の姉妹』は賈充の二人の、賈暉(司馬攸夫人なので賈褒がモデルか)と賈南風主人公に描いている短編小説だが、の賈充についても触れられている。これによると、賈充は本当は暉ので先妻の婉を愛していたと描かれている。

ニコニコ動画における賈充

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掲示板

  • 94 ななしのよっしん

    2022/01/06(木) 22:18:48 ID: gCvoltnLMn

    皇帝殺しにその罪すら部下の成済におっかぶせるとかまぁヤバいことやってるんだが、それ以上にがとんでもないことやらかしてるせいでいかんせんその極悪さがむんだよなぁ…
    あれ?よりかはマシなんじゃね?と麻痺してくるというか

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  • 95 ななしのよっしん

    2023/03/27(月) 21:55:56 ID: 55H2wXuVI6

    曹髦に関しては向こうから攻撃してきてるから、返り討ちにする以外の選択肢だと「そうだそうだ!曹髦様に逆らう司馬昭けしからん!」とか突然言い出して司馬昭死刑にするくらいしか手がない
    もちろんこれをやればお先はっ暗で「アホ皇帝アホ臣下、かわいそうな司馬昭」みたいな扱いになる未来しかない

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  • 96 ななしのよっしん

    2023/05/06(土) 22:21:12 ID: pKngk55O/U

    なわけない。
    皇帝譲を迫ろうとしている逆臣」VS「その逆臣を誅しようとしてる皇帝」では、中国的には(というかどこの君主制国家でもそうだが)後者の方に絶対的正義があるとみなされる。少なくとも道徳的には。
    ただ実権を握ってただけならともかく、九錫まで出させてるんだから強制譲の意志に関しては言い訳のしようがないしね。

    司馬昭の子孫である東の、それも随一の名君とたたえられた明が、司馬昭の所業を知って「こんな不徳不忠の行いをなしたとあっては、らが王統が続くことを到底は許すまい」と言っているのがまあわかりやすい賈充(と司馬昭)の所業の評価だよ。

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