賈南風とは、中国史に登場する女性である。西晋の恵帝(司馬衷)の皇后。
河東郡襄陵(現在の山西省)の出身。晋の功臣である賈充と後妻である郭槐の長女(賈充にとっては三女)。
晋の初代皇帝司馬炎が息子で皇太子の司馬衷に后を娶らそうとした時、衛瓘の娘と賈充の娘が候補に上がった。衛?の娘は色白で賢くて美人なのに対し、賈充の娘(賈南風)は背が低く色黒で醜いというのである。当然前者を選ぶところだが、荀勗(荀彧の族孫)や司馬炎の皇后楊艶(司馬衷の実母)らに押し切られる形で賈南風が皇太子妃となった。272年、賈南風17歳の時である。
さて司馬衷は相当な暗愚で(飢饉の時に人民が食う米が無いと聞いて「米がなければなぜ肉粥を食べないのだ」と返したという、マリー・アントワネットの元祖みたいな逸話があるくらいである)、早くから衛瓘を初め色々な人物が皇太子を別の皇子に替えるよう司馬炎に進言していた。司馬炎はとりあえず今の時勢の問題を司馬衷に与え、これを解かしてみる事にした。
賈南風はその問題の回答を作ってやったが、あまり完璧な回答を作ると他人が作ったと思われるため、わざと及第点ギリギリな内容の回答を書いたという。かくして回答に満足した司馬炎は廃太子の議題を先送りにしたが、賈南風は特に廃太子を建議した衛瓘を恨む事になった。
賈南風は陰険で嫉妬深く、司馬衷も彼女を恐れていたという。自ら人を殺したと史書に描かれている程であり、司馬衷の別の身重だった側室を胎児ごと殺した時は司馬炎も激怒して賈南風を金墉城(洛陽城の一角、西北にあった城)に幽閉したが、荀勗や、楊艶の後に司馬炎の皇后になった楊芷のとりなしで助かった。
290年に司馬炎が崩御すると司馬衷が即位、賈南風が皇后となる。
最初、司馬炎の皇后の楊芷の一族が外戚として権勢を握ろうとしたが、賈南風は楊氏から権力を奪おうと汝南王司馬亮(司馬懿の子、司馬伷の同母兄)と楚王司馬瑋(司馬衷の弟)を呼び寄せて291年クーデターを引き起こす。楊氏一族は皆殺しになり、前皇后の楊芷はかの金墉城に幽閉され翌年餓死させられる。恩人ながら、いつも訓戒や忠告をしていた楊芷を賈南風は恨んでいたのである。
さらに、クーデターの功労者なのに疎外されていた司馬瑋を抱き込んで、司馬亮と衛瓘をこの機会に滅ぼし、用済みになった司馬瑋も誅殺して、かくして賈南風や甥の賈謐らの賈氏が西晋を牛耳ることとなった。
賈南風の子供はみな女子であり、司馬衷の男子で唯一生存していた司馬遹に対して警戒感を抱いた賈南風は色々な策を籠して299年にこれを廃太子に追い込み、翌年3月に皇太子に復帰しようと画策していると見るやこれを撲殺させる。賈謐の子を司馬衷の子と偽り皇太子に立てようとしていたと史書にはある。
だが、司馬遹の復位計画に関して、裏で糸を引いていたのは斉王司馬冏(司馬攸と、賈南風の姉の子)と趙王司馬倫(司馬懿の末子)であり、300年4月に司馬冏や司馬倫が打倒賈氏の名目で挙兵、賈南風は捕らえられる。
賈南風は「犬を繋ぐのに頭でなく尻尾を繋いだか」と言ったが時遅く、賈謐、その母で賈南風の妹の賈午ら一族は皆殺しに遭い、賈南風は毒酒を飲まされ殺害された。享年44歳。
これ以降、「八王の乱」と呼ばれる諸侯王の権力争いは激化し、中国は内乱や異民族の蹂躙に襲われる事となったのである。
『晋書』『資治通鑑』によると、賈南風は淫乱で、亭主の司馬衷以外にも密通しており、さらには道端に美少年がいるとこれを捕まえ、一夜を共にするとこれを殺すということを行っていた、と記載されている。
しかし晋書自体がかなりデマや誇張の多い史書で(資治通鑑も晋書を参考にしている)、話の信憑性に関しては、ここまで記した賈南風の生涯含めて割り引く所はあるかもしれない。
賈南風の次女、清河公主は、西晋が滅亡して洛陽が異民族の手に落ちた時に逃げ延びたが、混乱の中で呉興県(現在の福建省南平市)の銭温という人物に奴婢として売り渡された。銭温には娘がいたが、彼女は事あるごとに清河公主を鞭打ったり何日も食事を与えない等、虐待していた。
司馬一族の司馬睿(司馬懿の曾孫、司馬伷の孫)が建康で帝位につき東晋王朝を開くと、清河公主は司馬睿の元まで逃亡して窮乏を訴えた。初めは信じなかった周囲も彼女の悲惨な体験談を聞くとそれを信じ、司馬睿は清河公主に同情すると共に、銭温とその娘に激怒して共に死刑に処した。さらに清河公主を臨海公主に封じて曹統という人物に嫁がせた。その後は平穏な生活を送り、71歳で没した。
Ver2.0で早くも父の賈充を差し置いてUC賈南風として参戦(父親もVer3.59でやっと登場することができた)。
その後一時排出停止になるも、Ver3.5でSR賈南風として再登場。三国時代の人じゃないとかSM嬢にしか見えないとかの突っ込みどころはともかく、なかなか城内水計の使い勝手が良く使い手も増えているせいか、関連動画も結構多い。
余談だが、彼女の容姿は史書に「短形青黒色、眉後有疵」と描かれているから普通に捉えると背が低く色黒でスカーフェイスとなるが、孔明の嫁みたいに現代の人から見れば実は美人じゃね?と思う人もいるとかいないとか。三国志大戦のグラがそれを表している気がする。
掲示板
28 ななしのよっしん
2021/10/02(土) 08:13:48 ID: /otcOsRDMp
賈南風は言うほど圧政は敷けてない(敷こうとはしてるし表面上は敷いてる)ので、呂雉や武則天を持ってくるのは権力者として大きく捉えすぎ
29 ななしのよっしん
2022/06/07(火) 02:30:19 ID: ZxjOuc23zc
実務は張華・裴頠・賈模といったあたりに丸投げしてたから、宮廷外で積極的に悪政を布いていてたかというとちょっと違う。
斉万年の反乱討伐のぐだぐだを見ると、朝廷首脳陣の無責任体制が拡がっていた様に見え、そこが司馬遹廃立で表面化したように思える。
30 ななしのよっしん
2022/08/21(日) 01:51:58 ID: ZxjOuc23zc
>>13
母の郭槐は「皇太子を実子のように大事にするように」と常々いっていたという。この郭槐の死去が296年。
また、賈充の甥の賈模は賈南風と反りが合わず、裴頠の提案で張華と共に「賈南風を廃立して、皇太子の実母の謝玖を皇后に立てた方がよい」と協議したが、断念したという。この賈模の死去が299年。
時系列的に、この二人が死んだので、政権内で賈南風を止められる者がいなくなったように見える。
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最終更新:2024/04/25(木) 11:00
最終更新:2024/04/25(木) 11:00
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