赤井時家(あかい・ときいえ 1494 ~ 1581)とは、丹波国の戦国武将である。赤井忠家の長男。弟に赤井長家、本庄長政。子に赤井家清、赤井直正、赤井幸家、赤井時直、山口直之がいる。
赤井氏は清和源氏の一族で、源頼義の弟・源頼季の末裔と言う。頼季の六世孫の葦田朝家が承久の乱で討死し、朝家の子・赤井為家が赤井姓を称した。為家の次男・荻野重家が荻野姓を称し、戦国期に赤井直正が継ぐこととなる。
赤井氏が本格的に歴史上の舞台に現れるのは1526年7月のことで、時家は33歳という立派な一武将であった。まだこの当時は父・赤井忠家も健在であった時期である。またこの1526年7月は細川高国の重臣・香西元盛が細川尹賢の讒言により高国によって謀殺された時でもある。
元盛の兄・波多野稙通と柳本賢治はこの一件に激怒して挙兵した。尹賢が波多野討伐で丹波へ入ると父と共に波多野方に味方して尹賢を京都へと追い払ったという。
1531年に高国が大物崩れで自害させられると、細川家は細川晴元と細川晴国(高国の弟とも子とも)の対決へと変わった。丹波国内でも勢力を二分とし、波多野氏らは晴国方に味方し、丹波守護代の内藤氏や赤井氏らは晴元方に味方した。
1533年に稙通の攻撃を受けて父が討死して、時家は幼少の赤井家清らを連れて播磨の別所氏の元へと逃れた。丹波における諸城を奪われたが、烏帽子岳城を築いて所領を奪還して勢力を徐々に回復していった。晴国が三宅国村の裏切りで自害を余儀なくすると、稙通が晴元に帰参し、時家も家清らと共に丹波に無事帰国することができた。
いつごろかは不明だが、天文年間に家清に家督を譲り隠居し、88歳という高齢で病没したという。赤井氏没落後の3年後に亡くなったということから少なくとも織田方により身の安全は保障されていたのであろう。
シナリオ毎に隣国に強国がいる丹波において貴重な戦力になれる存在である。
| 軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
| 戦国群雄伝 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
| 武将風雲録 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
| 覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
| 天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
| 将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||||
| 烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
| 嵐世記 | 采配 | 31 | 智謀 | 49 | 政治 | 49 | 野望 | 25 | ||||||||
| 蒼天録 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||||
| 天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||||
| 革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
| 天道 | 統率 | 73 | 武勇 | 68 | 知略 | 64 | 政治 | 51 | ||||||||
| 創造 | 統率 | 65 | 武勇 | 64 | 知略 | 64 | 政治 | 51 | ||||||||
| 大志 | 統率 | 63 | 武勇 | 63 | 知略 | 64 | 内政 | 51 | 外政 | 57 | ||||||
掲示板
1 ななしのよっしん
2023/05/21(日) 17:31:56 ID: 7qFUNNSChC
この人の顔グラはなんとも言えない表情してんだよな
気が抜けてホッとしたような、やる気がないような
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最終更新:2025/12/10(水) 04:00
最終更新:2025/12/10(水) 03:00
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