天保2年(1831年)4月4日、上田藩士・芦田官兵衛勘兵衛の次男として生まれる。諱は友裕、惟敬。号は宇宙堂。
嘉永2年(1849年)、江戸で蘭学を学び、帰藩後に上田藩士・赤松弘の養嗣子となる。
安政2年(1855年)に再び出府し、勝海舟の私塾に通う。その後長崎の海軍伝習所に赴き、数学、兵学、航海術などを学んだ。
慶応2年(1866年)、「英国歩兵練法」を和訳し、京都で私塾を開く。この時期薩摩藩からの要請でお抱えの講師となるが、翌慶応3年(1867年)9月3日、上田藩へ帰藩しようとしたところ、薩摩藩士・中村半次郎らによって暗殺された。享年37。暗殺された理由については、赤松が幕府と通じて薩摩藩との融和策を推進していたためとされる。
なお、赤松が慶応3年5月17日に松平春嶽に提出した建白書『御改正之一二端奉申上候口上書』に議会政治に関する提言がされており、坂本龍馬のいわゆる船中八策はこれの剽窃であるという意見があるが特に証拠はなく、同様の建白は他藩の人々によっても行われていたため、当時は有志による次代の政権構想が盛んだったと考えたほうが自然であろう。
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最終更新:2024/04/20(土) 06:00
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