「趙 高」(? ~ 紀元前207年)とは、中国の戦国時代末期及び秦代において、秦の国に仕えた政治家及び官僚である。元の身分は低かったが、秦王時代の嬴政に仕え、嬴政が始皇帝に即位してからも官僚として秦王朝に仕えた。
始皇帝の死後に、遺言をいつわって、始皇帝の子である胡亥を即位させ、胡亥を操り、秦王朝の実権を握る。さらに、秦の厳しい法律を己に都合よく使って、秦の皇族や大臣を大勢、殺害。さらに、恐怖政治と暴政で民衆を苦しめた。
やがて、大規模な民衆反乱が起きて、秦王朝は滅亡の危機に瀕するが、趙高は改めることなく、皇帝である胡亥をも殺害する。
趙高は秦王に即位しようとしたが、人心が従わず、秦王に立てようとした子嬰に殺害される。
中国史の中でも、代表的な悪人・奸臣であり、過去において、去勢した宦官であるということが通説であったが、近年では異論も出ており、かなり有力となっているため、この項目では宦官ではなく、あくまで通常の男子として扱う。
趙高は、趙の国の王族の中でも、王とはかなり遠い血筋に生まれた。趙高の母に罪があり、罪人の一族となった趙高とその弟数人は全て隠官[1]という奴隷に近い低い身分にまで落とされていた。
いつの時か不明であるが、秦王だった頃の天下統一前の嬴政[2]が、趙高が有能で刑法に通じていると聞いて、中車府令[3]に任命する。
ひょっとしたら、自身と母の趙姫が趙出身であった嬴政は、趙出身であった趙高に親近感を感じていたのかもしれない。
かつて身分が低かった趙高は、さらに自分の立場を優位にしようと思ったのか、嬴政の末子であり、嬴政の寵愛あつかった胡亥にひそかに取り入って、彼に刑法を教えるようになっていた。
いまだ嬴政が秦王であった時代のある時、趙高は大きな罪を犯した(詳細な内容は不明)。嬴政は腹心の蒙毅[5]にその裁判をさせた。蒙毅は法を曲げず、趙高は死罪にあたるとし、その名は官僚の名簿から除くという判決を行った。
趙高はすぐに処刑にはならなかったが、その後は牢獄にくだっていたようである。
嬴政が天下を統一し、始皇帝(ここから先は「嬴政」ではなく、「始皇帝」と表記する)を名乗った後(ここでは、『史記』に「帝」とある)、趙高が業務に熱心であったことを思い出し、また、「中車府令」に復職させた。
馬車を扱う長官である「中車府令」であったことから、趙高は、「馬車の車軌(馬車の車輪の幅)の規格の統一化」において、かなりの貢献を行ったと考えられる(後述、「秦の始皇帝時代における車軌の統一について」参照)。
また、趙高は、始皇帝が丞相の李斯の上奏によって、各国でバラバラであった文字を秦の文字に統一しようとした時に、李斯とともに「文字の統一」事業にも貢献をした。
秦王朝の「文字の統一事業」において、始皇帝は、李斯に命じて、『史籀篇』という書物に使われていた「大篆」という文字を修正し、改良させて「小篆」という文字を作成させていた。
趙高は、李斯と太史令[6]の胡毋敬とともに、この「小篆」を取りまとめて、李斯は『倉頡篇』に、趙高は『爰歴篇』に、胡毋敬は『博学篇』という書物にまとめあげている(後述、「秦の始皇帝時代における文字の統一について」参照)。
この書物は、全国に配られ、標準となった文字である「小篆」を普及させるための教科書やパンフレットのような役割を果たしたと考えられる。なお、この時の趙高は、やはり、「中車府令」であった。
趙高が李斯と話もできないような身分差があったとする創作作品もあるが、そのようなことはなく、この時も李斯と協力して「文字の統一」に貢献したものと思われる。
この文字の統一において、趙高が『爰歴編』を編集した時期もやはり不明であるが、李斯が「丞相」に任じられて以降と考えられるので、紀元前218年以降と思われる。
始皇帝が即位してから死去するまで、十年以上あるが、その間、趙高は「中車府令」から昇進しなかったようである。「有能」であり、「仕事熱心」であった趙高は、すでにこの時期から、始皇帝や秦王朝への不満と不平、昇進が頓挫した原因となったと考えられる蒙毅に対する恨みなどがつのっていたのかもしれない。
紀元前210年、始皇帝が秦帝国の東、かつての楚国や斉国、趙国が所在した地方を巡幸した時、趙高は始皇帝の巡幸に従い、皇帝の印璽[7]をつかさどる役職を命じられた。
趙高は、始皇帝からの信任があつく、文字を制定した貢献者でもあり、法律にも詳しく、始皇帝の秘書として、その詔を代筆するのにふさわしい人物である。さすがに丞相の李斯にこの役割を命じるわけにはいかない以上、皇帝の印璽を預け、詔を代筆させるには、趙高がもっとも適任であった。
この巡幸には、その李斯と趙高と親密な胡亥も同行した。もっとも、あの蒙毅も同行していた。
しかし、その巡幸の途中で始皇帝の容体は悪化した。偶然か、それとも、趙高か李斯による誘導があったのか、蒙毅は山や川の神に始皇帝の平癒を祈るため、巡幸から外れることになった。
だが、始皇帝の病状はよくならず、沙丘の地で危篤におちいった。趙高は始皇帝に命じられ、北の地で多くの軍勢を率いていた蒙恬(蒙毅の兄)を監督していた長子の扶蘇に向けて、最期の手紙を書くことになった。
これは、始皇帝が扶蘇を次期皇帝に命じるという意味の文書である。
趙高はこの文書を見て、封をしたが、扶蘇のもとに送ろうとしなかった。
趙高には心に思い浮かんだ謀略があった。
やがて、始皇帝は死去する。趙高のもとには、始皇帝の文書と印璽があった。さらに、始皇帝の文書は趙高が代筆していた。始皇帝の死は秘され、趙高以外では、胡亥と李斯それと5、6人の側近[8]しか知ることはなかった。
つまりは、この十人足らずが黙れば、しばらくは外部には、趙高が「始皇帝」として振る舞うことが可能であった。始皇帝が皇帝の後継者である太子を指名していないと思い込んだ李斯も始皇帝の死を隠すことに同意していた。
始皇帝が乗る轀輬車[9]には、家臣たちが以前と同じように奏上してきて、食事も運ばれてきた。そこで、轀輬車に乗った側近がその奏上を決裁するようにした。
趙高は、扶蘇におくるべき印璽をついた文書を胡亥に見せ、胡亥の野望と不安を巧みにあおり、始皇帝の命令をいつわって、扶蘇から「太子」の座を取って代わるように扇動する。
最初は拒否していた胡亥も、次第に迷いが生じ、消極的とはいえ賛成するようになった。
次に趙高は「始皇帝の命令をいつわって、胡亥を次期皇帝とする」ように李斯を説得する。
はじめは、李斯も抗弁していたが、「扶蘇が即位すれば、蒙恬が丞相となり、李斯は丞相の座を失った上、自身や一族の身も安全でなくなるだろう」と吹き込むと、李斯も嘆きながらも、賛同した。
趙高には幸運なことに、この沙丘の地はかつての趙の地であった。趙の王族出身であった趙高にとっては、その気になれば、かつての趙の地にいた勢力も利用できた。そのおかげか、李斯も味方につけることができた。
※ 特に史書に記されているわけではないが、趙高がかつての趙の勢力を使って、「李斯をおどした説」、「始皇帝を暗殺した説」も存在する。なお、「李斯と趙高が共謀して始皇帝を暗殺した説」も同様に存在する。
その人物の「卑しい本性」と「心の底にある欲望」を見抜き、その「私欲」と「保身の思い」と「野心」をたきつけ、必要なら権力と暴力を使っておどしを行い、それが通じぬ相手には法を悪用して始末する。
それが趙高のやり方であった。
趙高は李斯と胡亥と共謀して、「扶蘇と蒙恬に自害を命じる」いつわりの使者を、二人のいる上郡に派遣する。
扶蘇はこのいつわりの「始皇帝の命令」を信じて自害した。蒙恬は再度の使者を要求したため、使者によって逮捕された。
また、祈りを終え、巡幸にもどってきた蒙毅も逮捕する。蒙毅に対する積年の恨みを晴らす時であった。
趙高ら巡幸の一行は、咸陽にもどると、始皇帝の死を発表し、胡亥が正式に「秦の二世皇帝」に即位する。
趙高は「始皇帝は胡亥を太子にしたいと考えていたのに、蒙毅が反対していた」と、胡亥に蒙毅のことを讒言する。個人的恨みもあるが、ライバルになりそうな人物には早く消えてもらわねばならない。
胡亥には有能な蒙恬・蒙毅兄弟を用いようとした気持ちもあったが、これをきいて怒り、二人に自害を命じる。蒙毅は抵抗したため殺害され、蒙恬も自害した。
やっと念願の昇進ができた。さらに趙高は、つねに胡亥の近くにいて、その相談に乗った。その権力はすでに李斯ら大臣すら上回るものであった。
ある時、胡亥からは、「快楽を尽くしながら、天下を安らかに治めたい」というムシのいい相談がなされた。とりあえず、邪魔になりそうなものは全て消えてもらった方がいいと、趙高はこう答える。
「(胡亥の)兄にあたる公子(皇族の男子)たちや大臣たちが、陛下(胡亥)の即位に疑いを持ち心服していません。このままでは、快楽を尽くすことはできないでしょう。
法律を厳しく、刑罰を過酷にして、一族を連座させ、公子たちや大臣たちを滅ぼし、皇族を遠ざけて、新しく登用した人物をお側に置けばよいのです」
自分の即位にやましいところのある、胡亥は同意して、法律を厳しく適用して、公子や大臣の罪を探させ、捕らえていった。趙高は彼らを裁き、次々と一族ごと始末していった。
胡亥は始皇帝にならって巡幸を行う。この巡幸には、丞相である李斯と馮去疾が従ったが、趙高は、新たな法令を作ることを名目にして、同行はせず、その間に咸陽で権力を固めることを優先したようである。
ある程度は趙高と同調していた李斯と馮去疾であるが、いずれは、秦王朝の実権に握るためには、敵対することも想定しなければならなかった。
なお、馮去疾が趙高にある程度は同調したのは、馮去疾の先祖は元々、趙の国にいて、後に秦王朝に仕えるようになった経緯があり、趙国出身の趙高とは親しみやすかったためだと思われる。胡亥は全体的に、趙出身の人物と親しいため、胡亥の母は、趙出身であるという説もある。
趙高には秦王朝の政治や統治よりも、「権力を自分が握ること」がなによりも大事であった。
趙高はいまだ「己の立場に不安に感じる」巡幸中の胡亥を扇動するために、「大臣は私に心服していません。群臣(李斯や馮去疾らのことと思われる)に相談せず、大いに武力をふるってください」と進言を記した文書を送り、公子や大臣の処罰を行わせるように仕向ける。
このため、罪がつくられて、大臣で処刑されるものが続出し、大勢の公子や公主(皇族の女子)が処刑され、あるいは自害する。その一族もまた連座させられた。群臣で諫めるものもまた処刑され、官僚たちはただ保身を考えるようになった。
趙高も巡幸中であったなら、このようにするのは難しいと思われるので、趙高は咸陽に残ったと、ここでは解釈している。また、李斯は息子・娘が全て公子・公主と婚姻関係にあるため、これには加担していないものと、ここでは解釈している。
趙高は、胡亥の権力を固めるように見せて、咸陽における己の地位を確立し、李斯や馮去疾らの力を削ぐことにも成功した。
しかし、これは同時に秦王朝の統治技術を持った官僚集団を失うことであり、秦王朝は急速にその統治能力を失っていった。しかし、「権力を奪い、秦王朝の実権を握る」ことにただ夢中であった趙高がそれに気づくことはなかった。
巡幸からもどった胡亥もまた、父である始皇帝が晩年に行った「暴政」と「恐怖政治」を見習い、巨大な宮殿である「阿房宮」の建設を急ぎ、兵士5万人を集め、食糧の提供を咸陽周辺の住民に負担させる。秦の本拠地である関中すら飢え始めた。
さらに、秦の法律はさらに厳しさを増していき、罪人は急増していた。直道や馳道の建設(いずれも秦王朝の幹線道路。「蒙恬」の項目参照)や税の取り立ては増える一方で、兵役や労役もやむことはなかった。
始皇帝が晩年に行った南北の外征や大規模な土木工事で、すでに疲れ果てていた民衆の忍耐も限界を迎えていた。
このことも「ただ、権力を握りたい」趙高は意に介することもなかった。
ついに、秦の暴政に耐えてきた民衆の忍耐が限界を越えてしまった。かつての楚の国の地方で陳勝と呉広という人物が反乱を起こし、たちまち秦帝国中に反乱は広がった(「陳勝・呉広の乱」)。
陳勝の反乱軍は関中を守る関所である函谷関まで打ち破る。秦王朝はあやうく滅亡寸前であった。
しかし、ここで秦の大臣の一人である章邯が阿房宮や始皇帝陵(始皇帝の墓)の建設で集められた大勢の罪人たちを許し、それを兵として反乱軍を討伐することを進言する。これについては認めて、章邯に率いさせ、反乱軍を討伐させる。
さすがに、秦王朝が滅びては元も子もなかったが、趙高はこれに反省して、民をいたわるための政治を考えるような人物ではなかった。それよりも趙高にはこの反乱を利用して、「秦の実権を握るために邪魔となった李斯を始末すること」が、はるかに重大な関心事であった。
趙高の頭には、ただ、政争と謀略しかなかった。
紀元前208年になり、反乱が少し落ち着くと、秦の朝廷では丞相でありながら、反乱を起こさせた李斯と、関中の東を守る三川郡守の李由の責任を糾弾する意見が強くなった。李由は李斯の長子である。
胡亥もまた反省することはなく、やはり、「暴政」と「恐怖政治」に明け暮れていた。
趙高は、まずは、胡亥と大臣たちをより一層引きはなそうとして、胡亥に進言した。
「陛下(胡亥)はまだお若いですので、群臣たちと話して何かあれば、権威を落とすことになります。天子が『朕』と称するのは、「きざし」という意味です。ですから、群臣に声も聞かせないようにしてください」
元より、皇帝が『朕』と自称するのは、別段、そういった意味はないのだが、趙高はあえて曲解し、胡亥をそのように誘導した。趙高の言葉は胡亥にも都合がよかったようであり、胡亥は趙高とだけ宮廷で会って全ての物事を決め、群臣とはほとんど会わなくなった。
趙高は、李斯が胡亥を諫めたくて、会うことを求めていると聞いた。そこで、親切をよそおって、その機会を与えるふりをして、胡亥が楽しんでいる時に、わざと、そのことを伝える。3回目で胡亥は李斯に怒りだした。趙高が待っていたのはこの時であった。
「李斯は、息子の李由とともに、陳勝たちと通謀していたのです。李斯と陳勝の出身地は近いです。李斯の権力はとても大きいのでお気をつけください」
胡亥はさすがに怪しんで、李斯と李由が陳勝と通謀していたか、腹心を送って調べさせた。李斯はこのことを聞いて、胡亥に「趙高に野望があり、謀反を起こそうとしている」と伝えるが、趙高を信じ切っている胡亥は全く信じようとしなかった。李斯はそれでも胡亥に重ねて、「趙高は道理を知らず、その欲望は底なしであり、非常に危険である」と伝える。
しかし、胡亥は李斯が趙高を殺害することを恐れて、このことを趙高に伝える。
趙高は、「私が死ねば、李斯は秦王朝を乗っ取るでしょう」と胡亥に伝える。胡亥は趙高に李斯の取り調べを命じた(『史記』李斯列伝では、この時に李斯は趙高によって逮捕されたとされている)。
この頃、章邯率いる反乱討伐軍は楚軍を率いた項梁(楚の名将であった項燕の子)に苦戦をしており、秦からは大勢の援軍を出すことになった。秦の民への負担は、本拠地である関中ですら相当なものとなっていた。
そのため、李斯と馮去疾、そして、馮劫が胡亥に対して、「兵役や労役を減らし、阿房宮の工事を中止してください」と進言する。
胡亥は怒りだし、三人をその地位にふさわしくないとして、牢獄にいれた。馮去疾と馮劫は自害し、李斯は逮捕された。
ついに機会がやってきた。馮去疾と馮劫まで始末できた。李斯の取り調べと裁判を行うのは、もちろん、趙高である。
趙高は李斯の一族と食客全員を捕らえる。そして、李斯の謀反の罪があることを取り調べるためと称して拷問した。李斯は拷問に耐えきれず、謀反の罪を認めてしまう。李由は反乱軍である楚軍の項羽と劉邦と戦い、戦死していた。
胡亥は李斯の判決文を読んで、「李斯の謀反を未然に防いだもの」であると喜び、趙高を完全に信じ込んだ。趙高は、李斯の嘘の供述を書くと、李斯とその一族を処刑にした。
やがて、章邯から楚の項梁を討ち取ったという勝報が届く。全ては趙高の思い通りであるかのように思われた。
紀元前207年、秦では、丞相が二人ともいなくなったため、趙高が中丞相に任命された。今までのような権限を分ける二人の丞相ではなく、単独の丞相である。これで秦の実権は完全に握ったといっていい。秦の政治は全て、趙高が行うようになった。後任の郎中令は弟の趙成に任じた。
趙高は何度も「関東(中国の東の方)にいる盗賊(楚軍などの反乱軍)どもには何もできない」と語っていた。
だが、物事そのものは全て趙高の思い通りになったわけではない。
時期は不明だが、章邯が軍を握っていることを利用して、領土を求め、自立をはかってきた。さらに、戦争自体も、蒙恬の軍を引き継ぐ将軍であり、反乱軍の討伐を命じていた王離が項梁の甥である項羽に敗れ、捕らえられてしまい、秦軍はまた不利になった。
章邯は項羽と戦ったが、戦況は不利であった。また、楚軍の別働軍である劉邦も少しずつ西へと関中めがけて向かってきていた。
章邯から援軍の要請が来たが、章邯が裏切るかもしれない状況で、とてもそんな余裕はなかった。さらに、章邯は副将の司馬欣を送り、援軍派遣を求めてきたが、趙高は章邯を責めて、司馬欣を逮捕しようとした。司馬欣は逃亡し、章邯に反乱を勧める始末であった。
追い詰められた章邯は、項羽に降伏する。章邯は項羽から「雍王」に封じられた。「雍王」とは「関中王」の意味であり、章邯が項羽の力を得て、「秦王」にとって代わろうとしている意図は明白であった。
さらに、あの劉邦も南陽郡を落として、南の武関から関中に迫ってきていた。
あの胡亥すら、このことに気づいて、趙高を責めようとしてきた。
覚悟を決めた趙高はついに反乱を決意する。そのためには群臣たちのうち誰が味方になるか、試す必要がある。
これがあの有名な「馬鹿(バカ)」の語源となった説が有力な「指鹿為馬(鹿を指して馬となす)」の故事である。
この故事は3つのパターンがあるため、それぞれに説明しよう。
まず、最も古いと考えられる陸賈(漢の劉邦に仕えた参謀の一人)が書いた『新語』の一説である。
ある日、趙高が宮廷に鹿をつれてきた。
趙高「これは、馬ですよ!」
続いて、『史記』「李斯列伝」であるが、これは同じような話であるが、群臣は全て「馬」と答え、胡亥は自分がおかしくなったのではないか、と考えた、とある。
最後に、『史記』「始皇本紀」である。
趙高「馬です」
しかし、胡亥が群臣に問うと、ある者は黙り、ある者は『馬』と言い、ある者は『鹿』と言った。
この後、趙高はひそかに「鹿」と答えた人物たちを処罰した。群臣たちは、ただ、趙高を恐れる一方であった。
とある。
これは全て同じ事件が別の形で伝わったのか、それとも、『新語』と『史記』「李斯列伝」は、比較的、以前の話であり、趙高が胡亥を思い通り洗脳するため、その自信を奪おうとしたために行った行為であり、『史記』「秦始皇本紀」は、その後に、趙高が改めて群臣たちを操るために行った行為なのかは、分からない。
だが、以上3つの形で伝わっているのは事実である。
とにかく、この故事は「鹿を謂いて馬となす」といわれ、「人を威圧して、まちがいを押し通す」あるいは、「人をだましておとしいれる」という意味の言葉となっている。
これで、趙高に逆らうものは宮廷にほとんどいなくなった。さらに、趙高は、関中に攻めてきた劉邦の使者と会い、関中を分け取りする約束もした。
趙高にとってみれば、自分の身が助かるために、秦王朝などは徹底的に利用するだけの存在でしかなかった。
後は、「用済み」となった胡亥を始末するだけである。
やがて、胡亥は悪夢を見た後、夢占いの結果を信じて、望夷宮という宮殿に移る。
趙高のもとには、胡亥から、反乱をかくしていたことを責める使者が送られてきていた。趙高は、弟の趙成と、娘婿(むすめむこ)にあたる閻楽と話し合った。
「陛下(胡亥のこと)は諫言を聞かなかったのに、責任を我々一族に負わせようとしている。君主をかえて、人望のある子嬰を立てよう」
趙高はこの時、一族にすら自分が王になる計画を隠しており、さらに、閻楽の母親まで人質にとった。
閻楽は咸陽の都市の長官である「咸陽令」であり、役人や兵士を集めるのは簡単であった。閻楽は「宮廷に敵が入った」という名目で宮廷に向けて役人と兵士を連れて押しかけた。宮廷内では、郎中令の趙成が内応したので、侵入は用意であった。
閻楽と趙成は、抵抗するものには、矢を射て、斬り捨てていった。胡亥の側近たちは死ぬか、逃げ去ってしまった。
閻楽は、趙高に会うことを求め、また、命乞いをする胡亥に、自害を求めた。胡亥はやむを得ず自害をする。
この事件は、後世に「望夷宮の変」と呼ばれるようになる。
暗愚で暴虐だったとはいえ、ひたすら、趙高を信じて、数々の兄や姉、多くの大臣たちを殺害し、秦王朝の全てを趙高に預けた胡亥すら、趙高にとっては、利用価値がなくなれば、ただ始末するだけの存在であった。
趙高はこのまま、秦の君主となろうとしたが、群臣が支持しないため、やはり、子嬰を立てることにした。
劉邦はいまだ、武関を突破していない。使者を送り、劉邦に関中を分け取って二人で王になろうと持ち掛ける。劉邦は、趙高の提案に同意してきた。後は、子嬰に責任を負わせたうえで始末して、うまく立ち回るだけである。
そこで、趙高は、秦の群臣と公子を全て集めて、胡亥を誅殺したことを告げて宣言する。
「秦は元々、王国であった。始皇の君(始皇帝)が天下を統一したため、帝と称したのだ。現在、六国が自立しており、秦の土地は小さくなっている。それで、帝を名乗っても名だけの空しいものとなる。かつてのように王と名乗るのがよい」。
しかし、子嬰は病気という名目で、なかなか、即位を告げるための先祖の宗廟へ報告に来ない。何回も子嬰を呼んだが、子嬰はこなかった。
そこで、趙高は自分で子嬰を呼び出そうとした。この秦の宮廷で、己に逆らうものが存在するなど思いもよらない。趙高は護衛も連れて行かなかった。
「宗廟にまみえるのは大事な事です。王(子嬰のこと)はなぜ、行かないのですが?」
これが趙高の最期の言葉となった。子嬰は、趙高が劉邦と共謀して、関中の王になろうとしていると知っていた。そのため、宗廟に行けば、自分は殺害されると考え、先手を打とうとしていた。子嬰は、趙高がノコノコと一人で来るのを待っていたのだ。
趙高は、子嬰とその二人の息子、子嬰の側近の韓談によって、刺殺される。
子嬰はそのまま、趙高の一族も誅殺した(趙成、閻楽もこの時、殺害されたと思われる)。
子嬰はこのことを公表し、秦王となり、劉邦と戦うことにした。しかし、もう、時はすでに遅かった。秦国は機能不全におちいっており、数万程度の軍勢しか持たない劉邦にさえ、敗れてしまう。
子嬰は即位してたった46日で、劉邦に降伏し、秦は滅んでしまった。
趙高により、秦王朝ばかりか、約700年も続いた秦国も滅ぶことになった。
『史記』を記した司馬遷は、趙高については、歴史の重要人物であるにも関わらず、「列伝」を記していない。これは司馬遷が、趙高のことを「人物として全く評価していなかった」ものと考えられる(『史記』には、「奸臣列伝」は存在しない)。
近年、発見された『趙正書』という書物でも、趙高は登場する。『趙正書』では、胡亥は、始皇帝の正当な後継者とされており、趙高は胡亥を立てるための謀略は行っていないが、李斯が秦の忠臣とされるのに対して、やはり、胡亥に暴政を行わせた人物ということにされている。趙高は、胡亥を殺害した後に、最後は章邯に殺されてしまい、ここでも「奸臣」として扱われている。
趙高については、むしろ、趙高は奸臣であることを前提にして、趙高を用いた始皇帝や胡亥について、その愚かさや過ちを非難する意見が強い。
後世においても、趙高は、王莽や董卓、安禄山らとともに、中国史を代表する悪人や奸臣として扱われる。
ただし、近年では、「悪いことは全て趙高の責任にされたためではないか」や「始皇帝の意思に忠実な臣下でなかったか」と擁護する意見もある。また、趙高が秦の高官として、「文字の統一」、「車軌の統一」に貢献したことも、ほぼ間違いはない。
楚漢戦争を題材にした創作作品では、主人公が秦王朝を敵対する場合であっても、歴史書と同様に、秦王朝を滅ぼす悪人や奸臣の「宦官」として描かれることが多い。
趙高は、長い間、去勢を行った「宦官」であると考えられており、これは少し前までは定説であった。このため、多くの創作作品では現在でも、趙高は去勢を行った「宦官」となっている。
これは、『史記』において、趙高の出身が「隠宮」とあり、これは、罪により去勢させられた宦官を意味すると、唐代につけられた『史記』の注釈がなされていたため、そのように解釈されていたものである。
しかし、近年、出土された文献によって、秦代において「隠官」という身分があったことがわかるようになった。隠官とは、刑罰をうけたあとに役所に仕える者たちを指しているようである。
このため、趙高の出自については、実は、『史記』の「隠宮」は「隠官」の間違いであり、趙高は去勢を行った宦官ではなかったと研究者の間で考えられ始めた。
また、趙高は『史記』では、「宦者」とされており、これは、「宦官」と翻訳されていたが、始皇帝の時代では「宦者」は、ただ単に「皇帝の側近」をあらわす言葉であり、一般の男子もそう呼ばれていた。
「宦者」が全て去勢を行った男子を指すようになったのは、あくまで後漢以降の話である。「宦者」を「宦官」と訳すことは間違いではないが、この場合は、「宦官」は、前漢や新代までは去勢した男性を意味しないことを注意しなければならない。
『史記』を注釈した唐代の人物たちは、趙高を『史記』の記述から、去勢された宦官と断定したが、宦官の政治的弊害が大きかった唐代であったからこその見方であると考えられる。
また、本文で書いた通り、趙高には娘も存在し、このことは古くから指摘されてきた。また、趙高が去勢を行った宦官だとすると、胡亥と李斯の会話において不自然な点も存在する。
まだ、趙高が去勢を行った「宦官」ではないと断言できるほどの強い根拠はないが、趙高はそのような「宦官」だと断定するには、かなりの疑問点があることは注意すべきである。
趙高には、権力を奪うためとはいえ、なぜ、あれほどまで、秦の皇族や大臣を殺害し、秦王朝を滅亡に追いやるほどのことをしたのか、かなりの疑問がある。特に、始皇帝は趙高を取り立てており、李斯は「文字の統一」や胡亥を立てた陰謀の同志であるのに、始皇帝の子孫と李斯に対し、無残な扱いを行っている。
このため、趙高は故国である趙を滅ぼされた復讐のために、このような行為に及んだという説が存在する。
この説によると、趙高は、そのために、始皇帝・李斯・蒙恬に恨みがあり、その復讐として彼らを利用した上で迫害し、一族を滅ぼしたものである。この場合、蒙恬については、彼の祖父である蒙驁、父である蒙武に対する復讐ということになる。
そして、趙高の行った復讐は、民間に伝わり、痛快な復讐劇として市場で芝居として演じられ、これが『史記』に反映されたとするものである。ただ、『史記』では、趙高は悪役とされ、このため、陰惨な謀略者として描かれることとなったとする。
これは、小説ではなく、高名な研究者が主張しているため、かなり広まっている。
また、創作作品でも、趙高は故郷の趙の復讐者ではなくても、去勢させられた宦官にされた復讐を行うため、秦王朝に対する謀略と、様々な迫害を行ったとしていることも多い。
上述した通り、趙高が去勢した「宦官」であることに、かなりの疑問をもたれていることもあわせて、趙高を「故郷のための復讐者」であると主張するには、色々と不自然な点が多いところに気をつける必要がある。
上記の通り、趙高の行動の動機が「趙を滅ぼされた恨み」、「宦官にされた恨み」ではないと仮定すると、趙高がなぜ、秦王朝を滅亡に追い込むほどの行動をしたのかが疑問となる。
趙高が秦王朝の権力を奪おうとして、秦の皇族や李斯ら秦の大臣を利用して迫害したのは、歴史によく見る現象であるが、そうであるとしても、「人気取りのために民衆の負担を減らせば、大きな反乱が起きる可能性は低くなるのに、なぜ、民衆も迫害し、苦しめたのか?」という疑問が生まれてくる。
趙高の行動は、まるで、創作作品の悪役の行動そのものであり、現実として考えればかなり不自然である。
実は、趙高の行動を説明する説としては、
「3」は、『史記』における始皇帝が天下を統一した時の宣言や、「始皇七刻石」に刻まれた始皇帝を称える功績を読むと、秦の皇帝は、あくまで、「天下を統一して平和をもたらした功績とその後の統一事業の実績」をもとに天下を統治する正当性をはかっていることが分かる。
秦の皇帝は、後の漢王朝などの中国の皇帝と違い、「天帝(天)が天下を治めるべき人徳を有する天子に、天下を治める天命を与え、民衆の支持を得て、天下を統治する」という儒教などで正当化を行った人徳ある「天子」としては統治をしていない。
漢王朝などの皇帝である「天子」は確かに民衆の支持が必要とはするが、それ以外は、天命を受けた先祖(劉邦など)から天命を受け継げばいいだけなのに対して、秦王朝の皇帝は、民衆の支持を必要としない代わりに、天命を受けた「天子」であることを証明するために、皇帝としての実績をあげ続けなければならない。
そこで、胡亥と趙高は、「阿房宮」などの無理のある土木工事を継続し、民衆の大きな反乱を招いたという説である。
「4」は、始皇帝は法律によって国家を統治しようとする「法家思想」により、秦王朝を治めようとしており、特に、晩年は、「焚書坑儒」として、極端な思想統制・弾圧を行っている。
また、匈奴や百越への外征、「万里の長城」や「阿房宮」の建設など、余りに国民の負担が大きい政策を強行していた。
これは、一般的には、始皇帝が晩年になって、自制心が弱まり、安易な「恐怖政治」や「暴政」を行ったと考えられがちであるが、始皇帝が晩年になってから、秦王朝をそのような国家にしようとする構想を固めていたとも考えることができる。
それゆえ、趙高は、晩年の始皇帝の構想に反しそうな扶蘇を自害に追い込み、その構想を胡亥に実行させたとも考えることができる。途中で、民衆の負担を軽減しようとした李斯とも反目したのはそのためで、単純な権力闘争であるとも言い切れない。
この場合、趙高は王莽のような極端な理想主義者であったと考えることもできる。
趙高が「3」説や「4」説の通り、秦王朝や始皇帝の独自の国家構想も継続・実現しようとしたと考えれば、「なぜ、民衆への人気取りをしなかったか」の説明にはなる。
ただ、趙高が「3」説や「4」説の動機だけで動いたとすれば、彼の謀略によって秦王朝がほぼ国家としての機能を失っていることや、反乱を隠そうとしたことなどへの説明も難しいため、やはり、「1」説の「ただ、権力が欲しかった」が主因だとは思われる。
また、「1」が基本的に通説なのは間違いないので、この項目の本文も「1」を趙高の主な動機として解説している。
司馬遼太郎『項羽と劉邦』と『史記』、久松文雄の『史記』(原作:久保田千太郎)のうち『項羽と劉邦』をベースとした漫画作品。
北斗の拳やドラゴンボールが連載中であった週刊少年ジャンプにおいて連載される。
趙高は(他の創作作品同様)、始皇帝に仕える去勢した宦官であり、女性的な印象を与えるがゆえに、なおさら、その残忍性はより際立っている。多くの少年読者に宦官の不気味さと、謀略に生きる人間の恐ろしさを知らしめた人物である。
史書同様、趙高は始皇帝の死を利用して、胡亥と李斯をおどして、秦王朝を乗っ取り、(史実よりずっと早く)李斯を用済みとして斬り捨てる。その後は胡亥を操り、秦王朝を牛耳る。
史実以上に冷酷で悪辣な人物であり、自分の「政治力」に絶対的な自信を持ち、劉邦も利用しようと考えていたが、最期は史実通り、子嬰に殺される。
中国では、春秋戦国時代までは、どれも周王朝時代の金文(金属に書かれた文字)の流れをくむとはいえ、各国でそれぞれ違った文字が使われていた。秦王朝が天下を統一すると、この文字の統一化が行われた(なお、統一前の各国の文字はこれ以降「古文」と呼ばれるようになる)。
その内容は、『史記』では細かくは書かれていないが、中国の後漢時代に書かれた許慎の『説文解字』という書物の序文に、秦の始皇帝時代に行われた文字の統一について説明が行われている。
『説文解字』の序文によると、始皇帝が天下を統一してすぐに、李斯が文字の統一を行い、「秦の文字」に統一することを奏上した。そこで、「大篆」(周の時代の文字と呼ばれるが、実際は旧来の秦の国で使っていた文字)に省略、改変を加え、「小篆」を作り、それを(前述の通り)李斯・趙高・胡毋敬がそれぞれ書物にまとめあげ、これにより、秦の標準文字である「小篆」を全国に示した。
始皇帝の焚書により、古文はほぼ滅び、秦の文字だけが残った。秦では、「大篆」、「小篆」、「刻符」、「蟲書」、「摹印」、「署書」、「殳書」、「隷書」という八つの文字の形が存在した。
あくまで、秦では「小篆」が標準であったが、実はたくさんの形の文字がいまだ存在していた。
小篆は李斯がつくったともいわれるが、始皇帝が下杜に住んでいた程邈につくらせたという説もある。
また、程邈は、「小篆」だけでなく、「大篆」と「小篆」に改良を加えた文字である「隷書」の発明者という説もある(小篆の方が間違いで、隷書が正しいという説もある)。
『晋書』によると、程邈は衙県の獄吏をしていたが、始皇帝の時代に罪を犯して雲陽の牢獄に10年もつながれた。その間、大篆をもとにして使いやすい「小篆」もしくは「隷書」をつくりだし、それを始皇帝に奏上したところ、始皇帝に功績を認められ、御史の地位を授かったという説が紹介されている。
「隷書」を発明したのは、王次仲という人物という説もあり、実際には、文字の改良や発明は、一人の人物の功績ではないのは明らかだが、この時代に、すさまじい速さで文字の統一化が行われたことは間違いない。
趙高は始皇帝の在位との時、馬車を扱う長官である「中車府令」の役職にあるため、秦の始皇帝が行った「車軌の統一」に貢献したものと考えられる。
秦王朝が行った「車軌の統一」は、馬車の車軌(馬車の車輪の幅)を統一して定めたものである。研究によると、この車軌は九尺(約2メートル)に定められていた、とのことである。
なお、この時、統一されたのは、あくまで貴族や役人が乗る「馬車」のみであり、荷車は含んでいない。
また、従来説明されてきたような、車軌を統一して道路に残る轍が合うようにして交通を便利にすることを目的にしたものではなく、実際には、あくまで「馬車の規格の統一化」を狙ったものであったようである。
趙高が、始皇帝の死去時に預けられていた当時の印はどのようなものであったであろうか。
印は中国では、はるか古く殷代や周代でも使われていた。はじめは個人の信用をあらわすものに過ぎなかったが、役人も役所で使用するようになった。印は銅でつくられることが多かった。
秦が天下を統一すると、始皇帝によって、印にも制度がつくられた。
始皇帝は、皇帝が使う印を「璽」と称し、「玉」を材料として使うように定めた(これゆえに、皇帝が使う印は、「玉璽」もしくは「印璽」と言われるようになる)。
この時、臣下が使う印は、「印」もしくは「章」と呼ばれるようになり、玉を材料として使うことは禁じられた。そこで、印はほとんど銅でつくられるようになり、一般人が使うものは、「私印」もしくは「印信」と呼ばれるようになった。
当時の印は文字の方がくぼんでいて、赤い印泥(朱肉のこと)をつけた印を押すと、文字が白くなり、その周囲が赤くなる「白文印」が多い(文字が浮き出ていて、印を押すと、文字の方が赤い印は、「朱文印」という)。
この当時の文書は、竹簡や木簡をまとめて紐でつなげて、冊にして、それを巻いて紐でしばったものであった。文書の秘密を守りたい時は、冊と紐に粘土の塊をつけて、そこに印を押すと、文字が浮き出る。文書の中身を読むときは、その粘土に押された印の形を壊さないと読めない。
当時は、このようにして文書に封をしたもので、印文を押すために使う粘土は、「封泥」と呼ばれるものであった。このため、当時は、文字の方が浮き出る「白文印」が使われた。
これが「封印」の語源である(「封印」は特別な魔法から来た言葉ではない)。このような習慣は、「封筒に印鑑を押す規則」など現在にもその影響が残っている。
始皇帝研究で知られた著者が、長年の自身の研究と最新の研究を反映させて、新書として、出版された。2022年現在の日本では始皇帝研究を要約して学ぶために最も手軽な書籍である。
添付された参考史料・文献と、出典を明記した年表は本格的に調べるためにとても便利である。
この書籍では、趙高についても従来のような「奸臣」ではなく、ある意味では『史記』の隠された主人公の一人ととらえており、「始皇帝の意思を継いだ忠実な人物だったのではないか」という考え方をされている。
内容は一般書にしてはかなり難しいので、『史記』の翻訳と上記の書籍を読んでから、読むことをおすすめする。
この記事でも全体的に、参考にしている。
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最終更新:2024/04/24(水) 21:00
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