1398年に足利満兼と一色範直の姉との間に生まれた。彼が生まれた直後に祖父・足利氏満が亡くなったばかりであり、彼の前半生はほとんど父・足利満兼の鎌倉公方時代と重なっている。そして1409年、足利満兼が亡くなったことで、12歳にして鎌倉公方に就任した。
その後しばらくはまだ幼い足利持氏を、犬懸上杉氏の上杉禅秀が支える体制が形成された。しかし1415年、持氏と禅秀の対立が発生し、関東管領が山内上杉憲基に変わると、翌年、叔父・足利満隆、上杉禅秀が蜂起する上杉禅秀の乱が勃発する。急襲された足利持氏は持ちこたえられず、駿河まで逃走して駿河守護・今川範政に庇護される。京都では足利義持の弟・足利義嗣の関与も疑われたこともあり、持氏に味方することとなり、足利義持の派遣した幕府軍によって乱はあっけなく鎮圧された。
しかし、ここからがよくなかった。足利持氏は上杉禅秀の乱の鬱憤を晴らすべく、禅秀与党を次々に攻撃し、その中には京都扶持衆の山入佐竹氏、小栗氏、宇都宮氏といった存在も含まれたのである。これに足利義持は怒り、ついに両者は激突寸前まで至る。しかし、この事態に足利持氏が折れ、1424年にいったん両者は和睦することとなったのだった。
ところが1428年、足利義持の後継者を弟の中からくじ引きで選び、足利義教が6代将軍になるとまた事態は変わる。足利持氏はそれならせめていっそ自分を…と思っていた節もあり、足利義教の将軍就任を徹底的に認めなかったのである。1429年に元号が永享に変わるが、足利持氏は正長を使い続け、また本来幕府に所属する鎌倉五山の人事を勝手に行うなど、あからさまに幕府に敵対し始めたのである。さらに、1436年には鎌倉府の管轄外の信濃守護小笠原政康と敵対する村上頼清の援護に派兵する、という誰がどう見ても越権行為かつ敵対行為を行ってしまったのだ。
そして1438年、幕府寄りだった、関東管領の山内上杉憲実と敵対。領国に引き払った憲実の討伐に向かい、永享の乱が勃発する。しかし乱は足利義教から次々と派遣された幕府軍が快進撃を続け、足利持氏は惨敗。山内上杉憲実の擁護もむなしく、1439年2月10日に自害することとなった。さらに嫡男・足利義久も2月28日に自害したのだが、関東では引き続き彼の子息が挙兵を繰り返し、結城合戦を経て足利成氏の登場へと至るのだが、それはまた別の物語である。
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最終更新:2024/04/24(水) 18:00
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