「足利晴氏」(あしかが・はるうじ 1508 ~1560)とは、下総国古河(こが)を本拠に関東武士の頂点に君臨した事もある古河公方(こがくぼう)の4代目を務めた戦国時代の人物。
第五代鎌倉公方・足利成氏を祖とする足利氏の名門も戦国時代の荒波と北条氏康という大器により衰退の一途を辿った。
古河公方(こがくぼう)足利高基の子に生まれ、元服の際に長尾為景の斡旋により室町幕府将軍・足利義晴の偏諱を受けて足利晴氏と称した。
足利高基より家督を継ぐと、第一次国府台決戦において小弓公方(おゆみくぼう)を自称していた叔父・足利義明及び連合した里見義尭を、北条氏綱の助力によって打ち破り、足利義明を敗死させると、北条氏綱の娘を娶って、後北条氏との関係強化に努めた。
北条氏綱とは良好な関係を維持していたが、北条氏綱が没して北条氏康が継ぐと、北条氏康の態度に不満を抱いた事と、北条氏康と敵対関係にあった扇谷・山内の両上杉家の誘いにのって北条氏康との関係を絶って出兵する。しかし北条綱成のふんばりと、北条氏康による時間をかけた奇襲作戦・河越夜戦にて散々に打ち破れて大敗を喫した。
居城の古河御所にて北条氏康に抵抗を続けたものの、山内・上杉憲政が長尾景虎を頼って越後に落ち延びる等状況は足利晴氏にとって悪い方向にばかり進んだ事から、北条氏康の前に屈し、命は助けられたものの古河公方の座は子である村雨の人足利義氏に譲って隠居させられる事になった。
翌年には居城の古河御所から葛西城へと移された為、古河公方の座を北条氏康の甥でもあった辻斬りに遭遇する事に定評のある足利義氏から足利藤氏へと譲る事を目論んで古河御所に戻って北条氏康への反撃の狼煙を上げたものの、ふたたび北条氏康の前に破れて幽閉されることとなった。
その後、重臣・簗田晴助の居城・関宿城を経て古河御所に戻るも、謀叛の嫌疑をかけられて野田氏に預けられ、自身の失策によって失われた古河公方の輝きを取り戻そうとした足利晴氏は同地で没した。享年53歳。
※その他「足利晴氏」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
▼特産物を活かした「醤油外交」で古河公方・足利晴氏が鎌倉奪還を目指す「逆襲の古河公方」
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | 58 | 戦闘 | 33 | 智謀 | 54 | 政治 | 62 | 野望 | 70 | ||||
天翔記 | 戦才 | 86(C) | 智才 | 108(C) | 政才 | 124(B) | 魅力 | 90 | 野望 | 69 | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 32 | 戦闘 | 19 | 智謀 | 48 | 政治 | 43 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 17 | 智謀 | 22 | 政治 | 39 | 野望 | 58 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 28 | 知略 | 27 | 政治 | 45 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 28 | 知略 | 27 | 政治 | 46 | 教養 | 72 | ||||||
革新 | 統率 | 33 | 武勇 | 29 | 知略 | 30 | 政治 | 65 | ||||||
天道 | 統率 | 33 | 武勇 | 29 | 知略 | 30 | 政治 | 65 | ||||||
創造 | 統率 | 29 | 武勇 | 41 | 知略 | 38 | 政治 | 64 |
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最終更新:2024/04/25(木) 07:00
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