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足利義稙単語

アシカガヨシタネ

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足利義稙あしかが・よしたね 1466 ~ 1523)とは、室町幕府第10代将軍である。初め足利義材あしかが・よしき)、次に足利義尹あしかが・よしただ)と名乗り、最後に義稙と名している。

概要

人生アップダウンしさに定評のある室町幕府10代将軍。「流れ方」の異名を取る。

応仁の乱で西軍に属していたが敗れ、幼少の身で亡命生活を送る

が、東軍の擁立した将軍・義尚の急死により京都に帰還、将軍に就任する

…が、復権を狙う管領・細川政元によりクーデターを起こされて追放、将軍をクビになる越中を始め諸を逃げ回った末に、周防の大内氏の元に亡命。

……が、今度はその政元がクーデターで殺されたため、細川の内紛に乗じる形で京都に帰還して再び将軍に就任する

………が、やがて細川氏と対立して出奔、将軍をクビになる。更なる執念で復権を狙うもわず死去した。武政権の成立以降、史上一の征夷大将軍に二度任命された人物であり、史上一の二度解任された人物でもある。(※それ以前を含めれば坂上田村麻呂征夷大将軍に二度就任しています)

概ね、最初の将軍時代は「義材」、追放された後は「義尹」、二度将軍時代以降は「義稙」と名乗っている。

生涯

幼少時代(↓)

1466年。
8代将軍・足利義政であり、応仁の乱では西軍側の次期将軍補とされていた足利義視として生まれる。

応仁の乱は東軍の実質的勝利に終わり、義政の子・足利義尚が9代将軍に就任した。政争に敗れた義視と共に、12歳の時に美濃に亡命することになる。元後は「足利義材」と名乗った。ところがその義尚が六角氏征伐の最中にアル中で急死した事で、義材の運命は大きく変わり始める事になる。

第一次将軍時代(↑)

1489年。
義尚には子がいなかったため、幕府首・義視の協議の結果、義材が10代将軍に就任する事になった。ただ、かつての東軍大将息子である細川政元は義材の従兄弟にあたる別の補(後の足利義澄)を推しており、遺恨を残すことになる。ともあれ、・義視の後見の元に義材体制がスタートした、かに見えた。

しかし義視は1491年にくも死去。幕府の実者・日野富子(義政の妻)も細川政元と組んで、反義材に回ってしまう。こうした不安定な状況でを高める為か、前将軍・義尚が成し遂げられなかった近江六角氏の征伐を成功させるなど、精的に活動を見せる。続いて幕府有者の畠山政長と共に、政長と対立する畠山総州を討伐するべく河内へと出発した。

だが、義材の知らぬところで既に計画は進んでいた。

流れ公方(↓)

1493年。
京都留守にしている間に、細川政元クーデター明応の政変を起こして新将軍足利義澄を擁立してしまったのである。んなアホ!?と慌てる義材だったが時すでにお寿司。念入りなクーデター計画の前にあっさり捕縛され、閉されてしまった。政長は追い詰められて自害する。

この後は小豆島に流刑にされる予定だったのだが、側近たちの手を借りて脱出、畠山の領地である越中・放生(ほうじょうづ)へと逃亡した。畠山臣・神保護され「越中方」と称される。この亡命時代に「足利義尹」名。

前代未聞の将軍追放という事態に激おこの義尹は、京都に帰還するべく様々な活動を展開する。越前朝倉氏を頼るもこれは不調に終わり、続いて亡き政長の子・畠山尚順比叡延暦寺を借りて京都進軍をした。が、逆に政元が比叡山を焼き討ちするなど返り討ちにあい、以前追放した六角氏にも逆襲され、畿内から追い払われてしまう。

義尹が最後に頼ったのは、かつて応仁の乱で西軍として活躍した西の雄・周防の大内氏であった。戦国初期最強とも噂される英大内義興護下に入り、しばしを蓄える事になる。

両細川の乱からの将軍復帰(↑)

1507年。
どうやって政元をぶちのめそうかと考えに耽っていた義尹の元に大ニュースが飛び込んできた。細川政元が後継者を巡る内紛によって暗殺されたのである(永正の錯乱)。

この混乱は収まらず、政元の養子である細川澄元細川高国細川の座を巡って争っていた。これを「両細川の乱」と呼ぶ。この状況をチャンスと見た義尹は大内義興の軍勢とともに上し、これを高が迎え入れる事で「足利義澄細川澄元」対「足利義尹&細川高国」というタッグマッチの図が完成した。

1508年に高チーム京都を押さえ、義尹は再び征夷大将軍に任命される。だが澄元チームとの戦いはまだしばらく続くのであった。将軍に復帰した義尹は「足利義稙」名する(正確には少し後の1513年)。

第二次将軍時代(→)

1511年には足利義澄が病死。その直後の一大決戦「船岡山合戦」は大内義興無双によって義稙大勝利に終わる。細川澄元も実家波に逃亡。こうして義稙の将軍位を巡るライバルは消え去った。

既に50歳近くになろうとしていた義稙としては自ら政治を執りたかったのだが、流れ流れていた彼の基盤は不安定であったし、なにより細川高国大内義興を借りてここまで来たのは事実であった。そんな訳で、義稙・高・義によるトロイカ体制が敷かれることになる。微妙な関係ではあったものの、しばらく政権はギリギリのバランスを取り続けていた。

しかし義京都にいる間に、大内領では謀聖こと尼子経久が不穏な動きを見せ始めていた。これはあまり長く留守にし続ける訳にもいかない(本音:正直もうめんどい)1518年に義が帰した事で、義稙政権のバランスは崩壊していく。

没落と最期(↓)

1520年。
の帰を好機と見た波の細川澄元が懲りずに挙兵する。高が迎え撃つが、元々高チーム軍事はほとんど大内依存だった事もあってボロ負けに終わった。高近江へ逃亡するが、義稙は逃亡することなく澄元を迎え入れる。自分の政治の邪魔になる高を切り捨てる、義稙の寝返り行為であった。

ところが、直後に高の反撃で澄元が京都を追われてしまい、そのまま波で病死してしまった。これで義稙の計算は全に狂ってしまう。高が政権に復帰するが、言うまでもなく二人の仲は険悪どころか敵対ムードになってしまった。

翌1521年、身の危険を感じたか、はたまた独自の勢を打ち建てようとしたのか、義稙はへと出奔する。しかし幕府重臣たちはほとんどが高についてしまい、義稙は孤立してしまった。

余計に悪かったのが出奔のタイミングで、ちょうど後柏原天皇の即位式が行われる事になっていたのである。一度の追放の際には朝廷は義稙(当時は義材)に同情的だったのだが、今回は即位式をボイコットする形になってしまったために全に怒りを買ってしまった。この為、高足利義澄の遺児である足利義晴を12代将軍として擁立することになり、居場所を失った義稙は淡路波と再び流れ流れていく最中の1523年に病没した。享年58歳。

なお、義稙には子がおらず、義澄のもう一人の遺児である足利義維(よしつな)を養子としていた。この義維を、細川澄元の遺児である細川晴元が擁立。「義&高」対「義維&元」という図式でタッグマッチ細川の乱はいましばらく続くことになる。

  • 余談だが後柏原天皇は以前、即位式の実施を細川政元に「やる意味がい」と断られており(政元の項も参照)、1500年の即位から在位22にして、ねんがんの即位式だった。なお4年後に崩御。

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補足

信長の野望」(PCシリーズにおける足利義稙の力一覧。

蒼天録のみ登場。あの手この手を尽くした為か政治はかなり(妙に?)高い。

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