足利義詮(1330~1367)とは、室町幕府第二代征夷大将軍である。
1330年6月、足利高氏と鎌倉幕府最後の執権赤橋守時の妹・赤橋登子の間に生まれた。
1333年の元弘の乱の際、鎌倉に母ともども人質として留め置かれていらが、家人に連れられて脱出。世良田氏や岩松氏といった足利シンパの新田一門の協力を得て、新田義貞の軍に父の名代として参加した。これに関しては新田一門全体が足利一門に組み込まれていたという視点から、本来の総大将は義詮の方ではないかという主張もある。
そのため恩賞の保証などは次第に義詮の方に任されるようになり、新田義貞と対立、無位無官だった義貞が鎌倉への駐留をあきらめ官位と役職を求めて京に向かう原因になっていたりする。
一方足利義詮は鎌倉にそのままとどまり、斯波家長、高師冬、上杉憲顕らに支えられ、東国における足利勢力のシンボルとなった。しかし、1349年観応の擾乱が起きると足利直義の実子・足利如意丸、養子・足利直冬らが次期将軍になるのではないかという懸念もあってか、弟の足利基氏と代わる形で京に上洛。20歳にして初めて京都の土を踏んだのである。こうして彼は足利直義の地位と権限を引き継ぎ、文書を発給し始めた。
しかし足利直義と足利義詮は次第に対立するようになり、直義は都落ちをする。これに対して足利尊氏すら驚かせたのが、佐々木道誉、赤松則祐らとともに南朝との和睦、つまり正平の一統を推し進めたことである。尊氏も彼らの献策を受け入れ、南朝と和睦したうえで関東の直義討伐に向かう。しかしその交渉の中心人物であったのは尊氏ではなく義詮だったようだ。
こうして足利直義の討伐は無事成功したのであるが、足利義詮は南朝を甘く見ていた。直義討伐後1352年閏2月に南朝は和睦を破棄。おまけに義詮は北朝の光厳・光明・崇光の三上皇と直仁太子を京都に置き去りにしてしまう。その結果無事京都を奪還したにもかかわらず、北朝の皇族があらかた連れ去られてしまい、義詮はあの手この手でこの難局を乗り切る必要があったのである。それこそ崇光の弟で仏門に入る予定だった弥仁の推戴とその祖母・広義門院に治天の君の代役を押し付け、後光厳天皇の即位までわずか5か月でこぎつけたほどである。
こうして前途多難な新北朝は、東国では鎌倉を武蔵野合戦で一時失う状況に陥り、西国では足利直冬の下に旧足利直義派が再結集し、内乱への対処と北朝の復興を共に進める必要があったのである。その最初の政策こそ近江・美濃・尾張に出した半済令である。
1353年6月には足利直冬が京都に攻めあがってきたが、さすがに前ので懲りた足利義詮はちゃんと後光厳天皇を連れて脱出し、鎌倉からようやく戻ってきた足利尊氏と合流して9月に京都を奪還した。
後光厳天皇の即位のために守護出銭と呼ばれる守護を頼りにした資金繰りを始めるなど、義詮は場当たり的な臨時財源で立て直しと戦時体制の構築の両方をクリアしていったのである。これは公家社会への幕府の干渉の始まりにもつながり、脆弱な後光厳天皇へのテコ入れのために義詮が廷臣の動員、賞罰も主導する羽目になったのだ。
またそれまで鎌倉幕府の引付を継承していた室町幕府であったが、論人の反論を確認せず問答無用に裁許を下す「特別訴訟手続」に簡易化されていった。このほかにも観応の擾乱によって幕府そのものも制度・機構に重大なダメージを蒙り、その実態を変質させていったのである。
1354年にまたも足利直冬・南朝軍が京都に攻め入り、尊氏は後光厳天皇とともに近江に逃れ、播磨の足利義詮と挟撃してこれを乗り切った。この後幕府はようやく小康状態に入り、尊氏の体調不良で恩賞給付の権限も義詮に移されたのである。さらに光厳・崇光両院の帰京も実現し、1358年4月の尊氏の死でついに足利義詮が征夷大将軍へとなった。
こうして室町幕府は初期室町幕府機構の崩壊と、それに伴う戦時対応によって将軍親政がスタートした。しかし、まだ足利義詮の権限は不安定なままであった。
その原因こそ戦時体制の強化だったのである。足利義詮は弟・足利基氏の協力を得て1359年12月に畠山国清率いる関東勢を西上させ、紀伊・河内の南朝軍に攻勢をかける。しかし足利尊氏の空証文のばらまきによって守護管国以外にも広大な領地を持っていた守護たちは対立をはじめ、まず仁木義長が畠山国清、細川清氏、土岐頼康、佐々木道誉、六角氏頼らによって排斥計画のターゲットにされる。
義長はこれを知り怒り、義詮の身柄を確保するが、義詮は佐々木道誉の手引きによって脱出。義長は伊勢へと落ち延びたのである。さらに南朝そっちのけで私闘に関東勢を使った畠山国清も遠征軍から離脱者が続出し、鎌倉に逃げ帰る羽目になる。
そして1361年になると、仁木義長が南朝に降る、畠山国清に討伐軍が差し向けられることに加え、細川清氏にまで反逆への疑いが生じ、清氏も南朝に降ってしまったのである。こうして12月に南朝軍と清氏が4度目にして最後の京都侵攻を敢行し、義詮はこれを乗り切ったのである。細川清氏の嫌疑については佐々木道誉か誰かの謀略であったといわれているが、清氏の執事としての職権乱用が専横とみなされたこともあるのかもしれない。
こうして内ゲバを乗り切った後、足利義詮は13歳の斯波義将を執事に任じ、その父である斯波高経に職務を代行させた。これは、高い家格を誇る斯波氏を執事に据えることで将軍権威を高めようとしたものと思われる。さらに1363年には足利直冬党だった大内弘世、山名時氏が降伏し、長年尽くしてきた長門守護・厚東義武の切り捨てはあったものの、ようやく九州以外で戦乱は下火になった。
こうして鎌倉府が治める関東、絶賛戦乱中の九州、この両者に挟まれた地域の守護の任にあった大名たちは在京するようになり、京都で幕政に参与する大名が地域を統括する守護を兼ねる、という室町幕府の都鄙間構造が準備されたのである。そして足利義詮は斯波高経に幕府の再建を任せていった。
しかし、1366年8月、斯波高経のやり方に不満の声が上がり、斯波高経・斯波義将父子を京都から退去させる羽目になった。こうして当てが外れた足利義詮は、1367年9月に細川頼之を後任として上洛させた直後に発病し、息子足利義満を頼之に託し、12月7日に38歳の若さで亡くなったのであった。幼君義満の後見役となった頼之は、御前沙汰を代わって主催することとなり、軍事と政務を述べる管領制の成立へとつながるのである。
よく言えば、臨機応変なリアリスト、悪く言えば明確なビジョンを持たず状況に流され場当たり的な対応策を多発した、そんな人物である。しかし、彼の状況に応じた施策が室町幕府の制度・機構を整えていき、内乱でのし上がった足利尊氏による単なる軍閥政権から、足利義満という独自路線を行こうとしたカリスマを経て、足利義持によって室町幕府の基本構造が完成されたのである。その前提として足利義詮は父と子に挟まれて目立たないながらも、評されている
掲示板
10 ななしのよっしん
2023/07/28(金) 13:06:16 ID: RT4Ckv9ms/
頼家は優秀というか従来のイメージほど無能ではない…くらいの評価だと思う
というか結果的に4年しか政権が持たなかったから資料も少ないし評価自体難しい
義詮は失敗はあってもなんだかんだ次代の義満に繋げたのにあんまり評価良くない気はするね
早世してなきゃもっと色々功績ができたのかそれとも更にやらかしを重ねたのか…
11 ななしのよっしん
2023/08/10(木) 20:19:07 ID: jkBZadvIyN
頼家は贔屓目に見ても凡庸だろう、ものすごく可哀相な生涯だとは思うけどね
秀忠は二世将軍じゃブッチギリ
徳川将軍全員で見ても家康の次を吉宗と争うレベルの有能だよ
12 ななしのよっしん
2023/08/15(火) 08:23:21 ID: IlLwKQqaYE
義詮の評価が良くないってどこの世界線?
知ってる限りだと、今日の歴史学では
・(本文にもある通り)鎌倉末期からの課題だった訴訟制度改革に成功し、戦時体制を整えた。
・山名大内を帰参させ、南北朝内乱をほぼ決着させた。
・朝廷とのやり取りを独占し、その権威を独占する公武合体路線を示した。この路線は義満を高みに押し上げ、戦国期まで将軍家を存続させる力になった。
と、概ね功績を評価されてると思うんだけど。
訴訟制度改革は亀田俊和先生、対朝廷政策は石原比伊呂先生等の一般向け著作があるよ。
ただ成果を得る前に早逝してしまったので、功績が義満に帰せられやすい印象なのはわかる。加えて観応の擾乱で「忘れ物」をしたせいで印象が悪くなりがち。
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最終更新:2023/09/21(木) 19:00
最終更新:2023/09/21(木) 19:00
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