武田勝頼の側近筆頭として、甲陽軍鑑での奸臣イメージが強い人物。とはいえ史実ではそこまででもなく、最期を共にした忠臣の一人であった。
どちらかといえば武田勝頼期に頭角を現した人物で、武田信玄の傅役・跡部尾張の甥というのは甲陽軍鑑くらいがソースのよくわからない伝承。武田家の残存史料の中では最も多くの朱印状を残していることから、割と何でもやらされてた吏僚層の人物である。
甲陽軍鑑などを除くと、確実な初見は永禄9年(1566年)であり、既に武田信玄の側近だったことが明らかになる。甲陽軍鑑には原昌胤とともに奏者だったとあるが、史実的にもすでに何でもやらされる奏者だったようだ。また、北条高広・北条景広父子との交渉や、上杉謙信との和睦を北条氏政との同盟やら条件やらで拒絶する役回りなど、外交にまで携わっている。おまけに奥向きまで取り仕切り、本当に武田家の何でも屋だったのである。
この傾向は武田勝頼期に加速し、駿河方面への指南役、高天神城攻め時の禁制発給といった役目を担う。こうして甲陽軍鑑では長坂光堅とともに主戦論を唱えて長篠の戦いの大敗を招いた戦犯扱いされていったのであった。
これが事実かどうかは別として、武田勝頼の弟・仁科盛信も勝頼へのルートにこの2人を選んでいるなど、武田勝頼の側近中の側近であったことは間違いない。とはいえぶっちゃけ以後も外交面で活躍し、赤井直正への連絡や、御館の乱介入時の和睦交渉なども彼が担った。なお、この時多数の賄賂を得ていた、というのは甲乱記の記述なので、差し引く必要がある。
以後も毛利輝元との交渉や、甲佐同盟の取次ぎも担うが、武田勝頼の領国は織田信忠軍の侵攻で崩壊。甲陽軍鑑では敵前逃亡したとされるが、信長公記によれば、武田勝頼に従って討ち死にしたようだ。なお、甲乱記でも討ち死には変わらないが、土屋昌恒から戦いの際にこれまでの彼を非難されたという。
子息・跡部信業の系統は上野国衆・和田家を継ぎ、別の子息・跡部昌勝の系統が続いていった。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 47 | 政治 | 40 | 魅力 | 33 | 野望 | 56 | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | 104 | 智才 | 108 | 政才 | 106 | 魅力 | 49 | 野望 | 44 | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 39 | 戦闘 | 23 | 智謀 | 33 | 政治 | 42 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 17 | 智謀 | 25 | 政治 | 33 | 野望 | 30 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 15 | 知略 | 26 | 政治 | 34 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 13 | 知略 | 27 | 政治 | 32 | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | 15 | 武勇 | 30 | 知略 | 58 | 政治 | 36 | ||||||
天道 | 統率 | 15 | 武勇 | 20 | 知略 | 58 | 政治 | 78 | ||||||
創造 | 統率 | 23 | 武勇 | 35 | 知略 | 58 | 政治 | 75 |
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最終更新:2025/03/21(金) 21:00
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