近藤勇(こんどう いさみ、1834年10月5日-1868年4月25日)とは幕末の幕臣、天然理心流の剣術家、新選組局長である。
近藤勇 | |
基本情報 | |
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性別 | 男性 |
出身地 | 日本 武蔵国多摩郡上石原村 |
時代 | 江戸時代末期 |
生年月日 | 1834年10月5日 |
没年月日 | 1868年4月25日 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 松平容保 |
藩 | 新選組局長 幕臣甲陽鎮撫隊隊長 |
氏族 | 宮川氏→嶋崎氏 →近藤氏 |
武士テンプレート |
天保5年(1834年)、武州多摩群の上石原村(現調布市)にて、宮川久次郎の三男に生まれる。幼名は勝五郎。
嘉永元年(1848年)11月、江戸牛込柳町の天然理心流道場・試衛館に入門し、当主の近藤周助に見出され、翌嘉永2年(1849年)、16歳で養子となり、周助の旧姓島崎を貰い、島崎勝太と名乗る。後に近藤勇に改名し、諱を昌宜とする。近藤が当主となった試衛館には土方歳三、沖田総司、山南敬助、井上源三郎など後年壬生浪士組(新選組)に加わる者が多数集まっていった。
文久2年(1862年)12月19日、幕府は京都を中心として各地に横行する尊王攘夷の浪士達を懐柔するため、幕臣松平主税助が10月18日付けで建白した浪士対策を採用して浪士の募集を行った。翌文久3年(1863年)初め、近藤らはこの募集に応じ、試衛館の門人らと共に浪士組の六番隊に編入され、2月8日、将軍上洛の警護として京都に向けて出発した。23日に京都着。近藤ら試衛館組は洛外の壬生村八木源之丞宅に滞在した。
滞在中、幕府や清河の思惑から浪士組は江戸に帰府することになったが、近藤らの他、芹沢鴨など若干名が残留を希望し、京都に残った。3月10日、芹沢、近藤の他17名が京都守護職松平容保に対し、「尊王攘夷の趣意が貫徹されていない状況で江戸に戻ることは出来ないので京都に残り将軍を守護したい」とする連署を提出した。老中板倉勝静からも容保に対し、浪士組の残留者を預かるようにとの達しがあり、12日より守護職御預の壬生浪士組として活動を開始。近藤は芹沢、新見錦と共に局長の地位に就いた。
将軍警護の名目で京都に残留した近藤らは、4月下旬から5月上旬にかけて将軍徳川家茂の摂海巡視に従い大坂に出張した。この間幕府では朝廷からの無理難題を回避するため早めに将軍を江戸に帰らせようとしていたが、将軍を推戴した上で攘夷を実現したいと考えていた近藤は度々連署を提出して将軍東帰の翻意を促していた。結局家茂は6月9日に勝海舟の指揮する軍監に乗って江戸に帰ってしまい、近藤も京都に滞在する理由について、「当初考えていた攘夷実行が延期になったが、幕府に刃向かう不逞浪士達を鎮圧するため今しばらく滞在する」という内容の書状を土方歳三の親族宛に送った。
8月18日、薩摩藩と会津藩が連携して政変を起こし、長州藩の関係者や長州寄りの公卿達が一斉に締めだされた。この時浪士組は会津藩配下として御所の堺町御門を守護した。島田魁日記によると、この日に伝奏(武家伝奏)から「新選組」という隊名を拝命したという。
政変後、堰を切ったかのように隊内の粛清が始まり、9月13日には新見錦が切腹。18日夜には土方の他、沖田総司、原田左之助らが八木源之丞宅で就寝中の芹沢鴨と平山五郎を暗殺した。この後芹沢らを始末した近藤が唯一の局長として新選組を率いていく事になる。
八月十八日の政変後の10月10日、近藤は祇園一力で開かれた在京諸藩士の会合に招かれた。この席で近藤は長州藩の下関における攘夷戦と薩摩藩の薩英戦争を挙げ、幕府も含めた挙国一致の攘夷でなければならないとという趣意を語った。また、この時期幕府から新選組に対して禄位を与えようという動きがあった。これに対し近藤は10月15日付けの松平容保宛ての書状にて、私共は「尽忠報国の志士」として「皇命を尊戴」し、「夷狄攘斥の御英断」を承知仕りたく京都に滞在しているが、外夷を打ち攘う魁となる趣意を建白すれども未だ実現に至らないので禄位は辞退したいと回答した。
ここで言う尽忠報国とは尊王攘夷と同義であり、近藤の念願はこの時点では挙国一致の攘夷実行であった。将軍の再上洛に伴い新選組も警護のため下阪した。市中見廻りに飽き足りない近藤は次こそ攘夷が実現すると期待したが、雄藩諸侯によって開かれた参預会議では島津久光、松平春嶽、伊達宗城、山内容堂の四候が開国論、幕府の意を汲んだ徳川慶喜は欺瞞的な横浜鎖港を主張し、最終的には開国論も攘夷論も有耶無耶のうちに幕府への大政委任と横浜鎖港の確認が行われただけであった。
こうした政局に失望した近藤は元治元年(1864年)5月3日、市中見廻りが不本意であること、将軍が東帰するのなら新選組を解散させるか自主的に帰国させるかにして頂きたいとする上書を会津藩を通じて幕府に提出した。しかしこの上書は受け入れられず、近藤は老中酒井忠積にも直接申し入れたが慰留され、逆に与力上席という地位を与えるという申し出が老中達から伝えられた。念願だった攘夷が実現できず煩悶していた近藤だったが、丁度同じ頃、予想外の事件が起きた。
6月5日朝、新選組隊士が商家の桝屋喜右衛門宅を家宅捜索し、武器や密書が見つかり、尊攘浪士達の拠点であることが判明した。主人の桝屋は別名古高俊太郎といい、宮部鼎蔵ら浪士達との深い繋がりを疑われ、過酷な拷問にかけられた。古高は、浪士達が尹宮(中川宮)朝彦親王の屋敷に放火し、親王と松平容保を殺害、更に孝明天皇を誘拐するという計画があると自白(異説あり)し、これに驚いた近藤らは浪士捜索を開始。近藤と土方歳三の二隊に分かれ、近藤隊は池田屋という旅籠に目星を付けた。夜10時半頃に近藤、沖田総司、永倉新八、藤堂平助らが池田屋に踏み込み、宮部ら浪士達が多数会合中の最中に斬り込んだ。4人で20人以上と戦い、途中で沖田が病により離脱、藤堂も重傷を負い離脱した。やがて土方隊が支援に駆け付け、会津藩や所司代の兵も池田屋を取り囲んだ。近藤は土方親族らへの手紙の中で、手柄について討ち取り7人、捕縛者23人と記している。
この事件の新選組の功績は幕府から高く評価され、6月に500両、8月に更に600両が新選組に与えられた。また、土方が親族宛に書いた手紙によると、近藤を両番頭次席に、土方を与力上席にという幕府からの申し出があったが、これは実現しなかった。
池田屋事件後、長州藩は過激派の暴走を抑えられず、藩士来島又兵衛率いる遊撃隊他の諸隊が京都周辺に糾合し、7月18日夜半から19日にかけて武力衝突に至った。新選組は伏見方面から御所に駆けつけたが既に勝敗が決したため、実戦には参加できなかった。
禁門の変後の9月上旬、近藤は江戸に戻り、病床の近藤周助を見舞った。また、蘭方医の松本良順を訪問しており、この時近藤は外国の事について尋ねたと松本が自伝で語っている。松本から国際情勢や不平等条約について教えられた近藤は単純攘夷論に対する疑問が解けたと喜んだという。
この帰国の際、藤堂平助の知人で有力者と見込んだ伊東甲子太郎の一派を新選組隊士として招き入れた。伊東は水戸で神道無念流と後期水戸学を、江戸で北辰一刀流を学び、師の跡を継ぎ剣術道場の当主として名を馳せていた。近藤は伊東の他、伊東実弟の鈴木三樹三郎や同志の篠原泰之進など20数人を引率して10月に江戸を発った。
伊東らが加わり大所帯になった新選組にとって、壬生村の屯所は手狭になりつつあった。そこで近藤は屯所を西本願寺に移転する事とし、元治2年(1865年)3月、西本願寺に移った。この2ヶ月前の1月に、副長だった山南敬助が切腹した。原因の一つとしてこの移転問題が取り上げられることがあるが、永倉新八の後年の回想では近藤との思想的な違いが原因と語っている。この時期になると近藤の思想は尽忠報国即ち攘夷よりも佐幕を優先するようになっており、そこに山南が反発したというのであるが真相は不明。
この年の政局は長州再征を巡って紛糾しており、事態打開のため将軍家茂が再度上洛することになった。11月、長州藩への処分案をまとめた幕府は大目付永井尚志を広島に派遣して交渉に当たらせた。この際近藤は永井に随従して広島に赴いた。近藤自身は可能であれば萩まで行って命懸けで折衝しようとしていたが、長州側の使者から拒絶された。その後慶応2年(1866年)1月27日にも永井の従者として同行し、長州支藩の岩国藩に接触しようと試みたが失敗に終わり、一回目の広島入りで同行した山崎烝と吉村貫一郎を間者として現地に残し、京都に戻った。
6月、第二次長州征伐が始まると、近藤や土方は京都での会津藩と薩摩藩の武力衝突を想定したが開戦に至らず、新選組は土佐藩過激派との小競り合いというごく小規模な事件に関与するに留まった。
近藤の広島行きに同行した伊東甲子太郎はこの頃から近藤の思想に違和感を持ち始め、翌慶応3年(1867年)になると孝明天皇の崩御に伴い御陵衛士への転身を希望し、新選組からの分離独立を望んだ。近藤、土方と話をつけた伊東は、鈴木三樹三郎、篠原泰之進、阿部十郎、藤堂平助ら10数人を連れて離脱した。斎藤一もこの時一緒に離脱したが、これは近藤の間者として送り込まれたとされる。この伊東一派は高台寺月真院を根拠地としたため、高台寺党とも呼ばれる。
6月上旬、近藤以下新選組隊士全員の幕臣への取り立てが決まった。近藤は「御目見得以上之御取扱」、土方は「見廻組肝煎之御取扱」で、沖田総司ら副長助勤以下平隊士に至るまで各々に見合う地位を与えられた。幕臣として高い地位を得た近藤は、摂政二条斉敬に対し、四侯会議で提議された長州藩への寛大な措置を批判する内容の建白書を提出し、政治活動を活発化させていく。
同月15日、新選組は不動堂村に移転した。予てより西本願寺から残酷な刑罰について苦情を受けており、退去を望む西本願寺の負担で不動堂村に新屯所を建築し、移転の運びとなった。移転後、土方が再度帰国し、二度目の隊士募集を行い、20人ほどが新規に入隊した。
土方帰国中の10月14日、将軍徳川慶喜は政権を朝廷に奉還する上表文を提出した。この大政奉還に対して近藤がどう思ったのかはっきりした証拠がないが、思想的な立ち位置などから大政奉還には反対だったと見られる。
大政奉還後、高台寺党の伊東が「大開国論」と呼ばれる建白書を認めた。これは大政奉還後の政権構想を描いたもので、幕府の介在する余地のないものであった。この事を近藤が知っていたかどうかは不明だが、永倉新八や西村兼文によると間者の斎藤一が高台寺党の反幕府的な動きを近藤に伝えたとしている。近藤と土方は伊東一派を葬る決意を固め、11月18日に伊東を酒宴に招き、その帰り道の油小路七条下ルにて新選組隊士に伊東を暗殺させた(油小路事件)。伊東の死体は高台寺党をおびき寄せるため野ざらしにされ、現れた藤堂平助ら数名が新選組によって殺害され、高台寺党の残党は薩摩屋敷に助けを求めた。
12月9日、王政復古の政変が起こると、近藤らは14日永井尚志と共に大坂に下り、16日に伏見奉行所に入った。18日、所用で京都に赴いた近藤が伏見に帰る途中、高台寺党の残党による銃撃を受け、肩に重傷を負った。このため近藤は重病の沖田総司と共に療養のため大阪に移り、鳥羽伏見の戦いの終結まで指揮することができず、代わりに土方歳三が新選組を指揮することになった。
慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽伏見の戦いが起こると新選組は伏見奉行所を拠点に戦ったが、刀剣を用いた突撃が全く通用せず敗退した。5日には副長助勤で古参の井上源三郎が戦死し、6日夜には徳川慶喜が幹部を連れて軍監で江戸に逃げ帰ったため、旧幕軍が総崩れ状態になった。近藤ら新選組も大半が順動丸と富士山丸に乗船して江戸に退避していった。
江戸に戻った近藤と土方は主戦派として徹底抗戦を望み、甲府に派遣された。この時甲府行きを命じたのは軍事取扱の勝海舟という説がよく知られているが、近年の研究では命じたのは勝ではなく、若年寄の大久保一翁とする説もある。
甲府行きを機に近藤は「大久保剛」、土方は「内藤隼人」と改名した。3月1日に一行は江戸を発ち、故郷の日野や八王子で歓迎を受けながら進軍したが、進軍途中の4日に甲府城は既に新政府軍に占領されたという情報がもたらされた。土方は急遽江戸に戻り、近藤は柏尾山に陣地を築いたが6日に戦闘となり、敗走した。
江戸に戻った近藤は再起を図ろうとするが、永倉新八と原田左之助の二人が会津転戦を主張し、これに反対すると永倉と原田は「貴君に仕える気はない」と言って去っていった。近藤らは拠点を現足立区綾瀬の五兵衛新田に構え、更に4月1日には下総の流山に移転した。3日、その流山が新政府軍に包囲され、近藤は総督府に出頭した。
「大久保剛」から「大久保大和」と更に改名していた近藤は大久保大和と名乗り、鎮撫のため流山にいたと主張したが、高台寺党の残党によって新選組の近藤勇であると正体を明かされ、薩摩藩と土佐藩が中心となって近藤に訊問を行った。土佐藩士からすれば新選組は坂本龍馬や中岡慎太郎をはじめ、多数の土佐出身者を殺害した張本人という思いがあったためか土佐藩側からは厳罰が主張された。薩摩藩は寛容な態度を示したものの、土佐藩以外にも水戸出身者の軍監香川敬三が厳罰論を押し通し、斬首が決定。25日に板橋の平尾一里塚の刑場で斬首された。享年35。
近藤が継承した天然理心流は、相打ちを極意とする剣術とされており、「死を覚悟する」「死を選択する」という武士道の本質を持っていたとされる。
それを感じさせる逸話として、西洋医学者の松本良順は、攘夷派に命を狙われ近藤の所へ訪ねてきたことがあり、近藤に対して「見苦しくないように斬られるにはどうすればいいか」と相談した良順に対し、近藤は以下のように答えたとされている。
良順 「なに目を閉じる。それでは相手が見えなくなっちまうではねえかよ」
近藤 「一向にお気になさることはありません。やがてからだの何処かが冷やりといたしましょう。その瞬間に大剣を真っ向に振り落とします。自分も斬られましょうが相手も斬ることができます。」
良順 「確かに侍がやりあう斬りあいでの心得はわかったが、近藤君、俺等は無腰だよ。それで狙われた時は、いったいどうするね。」
近藤 「相手の目から、自分の目をそらさずにすたすたと前に進まれたがよろしい。具合よく斬られること間違いございません」
良順 「やれやれ」
しかし、この逸話は良順の息子が語ったとされ、ある程度の創作が入っていると思われる。以下のほうが実話に近いとされている。
良順 「近藤君、敵に囲まれたときはどうすれば活路を開くことができるか」
近藤 「まあ死ぬのですな。生きることが念頭にあってはだめです。一方をうかがって、猛然と捨て身に斬り込むのです。そこにだけ命を救うところがあります」
恥にならないようにするには「死を覚悟する」としており、これは「葉隠」にもある「生を輝かせるための覚悟」とされている。
「龍が如く 維新!」「龍が如く 維新! 極」で登場。声優は無印では船越英一郎、極では大塚明夫。
屯所には姿を見せず、伊東甲司太郎も入隊以来姿を見たことはなく、死亡したのではないかと言われていたが実際は生きており、料亭で斎藤一(坂本龍馬)と初対面する。斎藤一の正体については井上源三郎から聞いていたため知っていた。帝を京に返還させるための江戸遷都計画を立て、斎藤一に協力するように持ち掛ける。
新選組 |
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近藤勇(局長) / 土方歳三(副長) / 山南敬助(元副長) / 伊東甲子太郎(参謀) / 武田観柳斎(参謀) 沖田総司(一番隊隊長) / 永倉新八(二番隊隊長) / 斎藤一(三番隊隊長) / 松原忠司(四番隊隊長) 武田観柳斎(五番隊隊長) / 井上源三郎(六番隊隊長) / 谷三十郎(七番隊隊長) 藤堂平助(八番隊隊長) / 鈴木三樹三郎(九番隊隊長) / 原田左之助(十番隊隊長) |
掲示板
55 ななしのよっしん
2021/10/12(火) 07:27:21 ID: aObK51vs7q
甘党だったのか。
56 ななしのよっしん
2022/08/09(火) 03:04:30 ID: SABUKxYbGb
幕軍全体に言えるけど、新選組って政治ははっきり言って下手だよな
油小路の一件だけ見てもやり方がかなりの下策
まぁ武士に取り立てられたと言ってもちゃんとした高等な治世学を学んだわけでなし、政治的に素人なのは仕方ないんだが
水戸学とか思想だけでじゃ政治はできん
57 ななしのよっしん
2022/08/26(金) 18:17:28 ID: aObK51vs7q
斬首されて墓はあるのは知ってたが首と胴体が行方不明になったりしてるのか・・・
身体の一部は慕ってる隊士が取り戻してお寺に供養を頼んだとかあるらしいが死体が行方不明って言うより各地に散らばって供養されたのかな?
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最終更新:2024/11/15(金) 10:00
最終更新:2024/11/15(金) 10:00
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