宮中の守護などを担当する近衛府の長官。近衛府は左右計2つが置かれたため、それぞれの長官を「左近衛大将(さこんのえのだいしょう)」、「右近衛大将(うこんのえのだいしょう)」と称する。両者はそれぞれ「左大将(さだいしょう)」、「右大将(うだいしょう)」とも略される。
定員は左右それぞれ1名。ただし江戸時代、員数外の武家官位として徳川将軍家世子が右大将に任官されるのが通例となった。
765年の近衛府設置以降、常設武官の最高位として朝廷内で高い権威を誇った役職であった。
武士階級の台頭により、平安後期以降は武官としての実質的職権は失われた。しかし近衛大将任官した公卿は内大臣以上への昇格が将来ほぼ確実となることもあり、公家にとって垂涎の官位であり続けた。
この為、近衛大将に任官可能な公家は、臣籍降下した元皇族や摂関家・清華家にほぼ限られることとなった(逆説的に言えば、近衛大将への任官がかなった事を以って、以降清華家以上の家格を有することの証左となる)。
また武家にとっても常設武官最高位の権威は非常に価値が高く、任官者は征夷大将軍同様に武家の棟梁と看做された。鎌倉幕府成立以前の武家任官者としては平清盛の嫡男であった平重盛、平宗盛がいる。また、源頼朝も征夷大将軍任官に先立って右大将に任官しており、鎌倉幕府成立をこの時期に求める説もある。
一方、征夷大将軍であっても近衛大将に任官できるか否かは大きな意味を持っていた。源頼朝の任官は右大将であった為、左大将任官を以って自己の権威を誇る者も居た(源実朝)。
逆に歴代将軍家でも近衛大将に任官できなかった場合もあった。足利将軍家はその権力が不安定だったこともあり近衛中将どまりの任官が珍しくなかった。室町幕府最後の将軍・足利義昭(近衛中将)は織田信長の右大将任官によって、武家の最高権威者としての地位を失うこととなった(これ以降、信長は「上様」と呼ばれることになる)。
ちなみに近衛府の唐名が羽林である通り近衛大将の唐名は羽林大将軍、また幕府や幕下、柳営なども本来は近衛大将の唐名である。
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最終更新:2024/04/19(金) 10:00
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