奉公衆で代々大草氏と共に調理を担当していた存在だったが、彼が永禄年間に足利義輝に重用されたことで頭角を現した。ただし、その結果、娘婿の足利義輝と運命を共にすることとなった(というか、ほぼ永禄年間くらいしかよくわかっていない氏族の出)。
なお、某日曜歴史家がとんでもない説を唱えて、それに引っ張られた記述がネット上にみられるが、実際のところ…。
進士氏という名字は、式部省の行う試験に合格した第三位以上の人、転じて文章生を指す単語が、名字になったものである。『尊卑分脈』には、藤原南家真作流の藤原清兼、藤原真楯流の藤原忠業らが進士を名乗っていた。ちなみに、鎌倉時代に新次と書かれていたこともあるので、読みは「しんじ」。
とりあえず、鎌倉時代には既に御家人として活動していた氏族であり、『吾妻鏡』には承久の乱の処分議定を大江広元とともにおこなったり、新補地頭の得分を清原清定とともに奉行を務めたり、二階堂行盛とともに南新御堂供養奉行を務めたりと、京下りの官人などに混ざって、文官として活動しているのである。というか、おそらくは進士氏も、この一人だったのではないかともいわれる。
かくして、建長年間には、進士次郎蔵人が引付衆に加わり、鎌倉幕府の訴訟真理を担っていった。
ところが、鎌倉幕府滅亡である。新たに武家の棟梁となった、足利氏とは、延元3年(1338年)の上杉清子の消息文(「上杉家文書」所収)からようやく確認できる。早い話、旧来の官僚的家人に付け加えられた、鎌倉幕府のスタッフの一員が、この進士氏だったと考えられるのだ。
網田樹夫によると、進士氏は、進士蔵人―進士四郎―進士為行(信性、自成)―進士政行―進士氏行―進士重行―進士国行と続いていき、以後太郎左衛門家、次郎(左衛門)家、九郎左衛門家に枝分かれしたとする(なお、系図がないためそれぞれ直系かは不明)。
「三宝院文書」によると、貞和5年(1349年)にはすでに丹波市野村八幡宮領上総梅佐古村を与えられた進士氏であったが、この辺それぞれ領地にした(または過去にしていた)ところを見ていくと以下の感じである。
年号 | 地名 | 人物 |
---|---|---|
貞治5年(1366年)9月24日 | 加賀国能美郡山下郷内比楽村地頭職 | 進士為行 |
貞治6年(1367年)9月15日 | 越中国三田社地頭職 | 進士為行 |
応永9年(1402年)4月5日 | 美濃国井口二分方 | 進士氏行 |
応永15年(1408年)10月5日 | 河内国伊香郷地頭職 | 進士重行 |
宝徳3年(1451年)12月26日 | 三河国額田郡大矢原郷 | 進士国行 |
また、「富山県史料編Ⅱ中世」を順にみていくと、以下のようなことがわかる。
貞治6年(1367年)には進士為行が加賀国比楽村の代わりに越中国三田社地頭職を与えられた。ところが、この頃桃井直常の離反が繰り返されていた現地であったため、斯波義将とともにその防衛に加わったのである。かくして、応安4年(1371年)に桃井直常を追い払うと、「富山県史料編Ⅱ中世」435号では、進士信性、おそらく先の進士為行に、三田社地頭職の半分が与えられたのである。ここで、なぜ半分に減らされたのかはわからない。
つまり、桃井直常の反乱に加わって、在地領主が取り潰され欠所地となり、御料所とした室町幕府に、進士氏が派遣されたというのである。続いて436号で、進士源阿に、三田社地頭職の惣領・庶子等跡各半分の打渡が命じられ、永和元年(1375年)の456号では細川頼之が公家の柳原忠光(日野忠光)のあれうちの土地だから!という講義を握りつぶし、459号では斯波義種から進士自成と由宇又次郎に遵行の命令が出されている。
かくして、斯波義将の守護代・斯波義種は、射水郡を由宇氏、砺波郡を二宮氏に支配させ、射水郡にあった三田社領は、由宇氏の管轄に入った。かくして、進士氏の担っていた御料所・三田社領は次第に守護方に細分化されていったのである。
康暦2年(1380年)の小川文書によると、足利氏の本願地・足利庄内の観音堂俗別当職および免田畠を掌握した程重用された進士氏。一方で、至徳4年(1387年)に越中国の守護が畠山基国に代わると、進士政行は畠山勢に支配を侵され、斯波義将からたびたび庇護を受けている(502、403号等)。「猪熊信男氏文書」によると、足利庄の権益も三戸次郎に侵され、応永13年(1406年)に斯波義教が、応永24年(1417年)に細川満元がこの対応を命じている。
一方で、足利持氏は「真田文書」によると、応永25年(1418年)に上総国加津社地頭職を進士九郎左衛門(次の文書から進士重行?)に、「古文書簒」によると翌応永26年(1419年)に加津社内三左古東西村地頭職を進士重行に沙汰することを命じるなど、鎌倉府のおひざ元で地頭を担っていた一門もいたようだ。
なお、この進士重行を、網田樹夫は上述の進士自成とし、上杉禅秀の乱の影響で京都から派遣され、足利持氏をけん制した可能性を想定している。ただし、室町時代のことなので東西で一族がわかれていた可能性も高い。とはいえ、進士氏は足利庄に進出できるほどの、室町幕府にとって重要な氏族だったのである。
一方で、足利氏の第二の故郷・三河国にも進出し、宝徳3年(1451年)に、進士国行が額田郡大矢原郷を返上したことがわかる。また、『愛知県史資料編9中世2』326号によると、下向してきた彦部忠春に領地の調査をしてもらったりしたので、三河に根を張っていたのは確実であるようだ(この辺網田樹夫が「愛知県史」編纂前に論文書いたのでまだわかっていなかったため、そのうちこっちで調べるかも…)
『永享以来御番帳』には、奉公衆の五番に進士国行と、おそらく進士重行の子孫である進士九郎左衛門尉が載っている。また、天皇御所の立て直しの史料『康正二年造内裏段銭幷国役引付』(1456年)によると、進士国行が越中、美濃、近江、因幡、美作に、進士小次郎が三河国貴船と尾張国中嶋郡内櫛作河室に領地を持っていたことがわかり、おそらく室町時代初期に与えられた越中国三田社領を進士氏は未だに領していたと考えられる。
また、寛正2年(1461年)には足利義政が進士石見入道道栄が領有する河内国茨田郡伊香賀郷地頭職年貢三分の一を進士国行に返付する御教書(「足利義政発給文書」332号)を出しており、御末衆の石見入道と何やらあったようである。
『糺河原勧進猿楽記』によると、鞍馬寺塔婆勧進猿楽を足利義政夫妻と見た、進士美濃守がおり、この人物は、『東山時代大名外様附』にも五番で記されている。なので彼がおそらく進士国行の後継者である。
一方、足利義尚の六角高頼討伐時の鈎の陣の時の記録『常徳院御動座当時在陣衆着到』には、奉公衆に進士貞利、御末衆に進士石見入道、進士三郎左衛門尉、進士次郎左衛門尉の姿が見られる。進士貞利は進士九郎左衛門尉家の人物であるが、過去には土地を巡って何かしらの事件があったことから、御末衆の人々も一族か少なくとも同名衆とみなされていた存在とは思われる。なお、おそらく進士貞利が、足利義政期の進士美濃守の後継者である。
延徳3年(1491年)の足利義材の六角高頼討伐時にも、『蔭涼軒日録』に、御旗役としてこの進士貞利が登場する。ところが、以後の明応の変で確実に越中に所領を持っていた進士氏にも何らかの影響があったと思われるのだが、以後よくわからなくなる。
『貞助記』五ヶ番衆には、五番に進士新次郎、進士美作守、進士十郎左衛門尉の3人が記されており、足利義晴期にも進士氏は引き続き仕えていたようだ。なお、木下昌規には、進士新次郎がこの記事の進士晴舎、進士美作守がその父親・進士国秀、進士十郎左衛門尉が後の進士長門守・進士澄胤とされている。
ただし、『犬追物手組日記』には大永2年(1522年)4月27日に細川高国の屋敷で進士九郎左衛門尉が射手を務めたようで、進士貞利の次代の進士九郎左衛門尉家の存在は、細川高国方にいたようなので、この3人が進士九郎左衛門尉家の存在か若干怪しい。
なお、この一方で、進士氏といえば大草氏と並ぶ調理を担当する家である。この辺、後世に、足利義昭の代に畠山流・赤松流・吉良流・小笠原流・伊勢流の故実が作られ、畠山流は進士次郎左衛門尉に伝えられていたので進士流と呼ばれた、とつたわっているが、正直眉唾。
ただし、進士次郎左衛門尉家から本願寺顕如に進士流の故実が伝わったのは確実らしく、食事の配膳も普通は大草流なのだが、東本願寺は江戸時代を通して進士流で行っていったようだ。
ただし、前述の通り、進士次郎左衛門尉家は御末衆の家であり、奉公衆の進士九郎左衛門尉家も後述の通り明らかに食事の配膳などを担える存在であるが、この辺どうなっているかは誰も調べておらず(進士流の論文も料理研究家によるもののため)、よくわかっていない。
天文2年(1533年)4月27日の『佐々木少弼御成申献立』には、詰衆として進士新次郎、進士長門守の2人が、近江まで逃げてきた足利義晴に仕えていたことがわかり、天文6年(1537年)の『言継卿記』に足利義晴・足利義輝父子の参内に、走衆として進士長門守・進士新次郎が仕えていたことがわかる。
この時代の幕臣を整理した木下昌規のリストに従えば、前述の通り、この進士新次郎が足利義晴期の進士美作守・進士国秀の息子・進士晴舎である。また、進士長門守は『貞助記』に出てくる進士十郎左衛門尉と同一人物で、進士澄胤とされる。
この、進士国秀―進士晴舎の系統と、進士澄胤の系統にどうつながるのかは全く不明。進士澄胤に関しては、『室町幕府引付集』によると、天文8年(1539年)に加賀国益富保地頭職について糾明し、天文10年(1541年)10月3日の同じ『大館常興日記』に五番衆として登場し、天文15年には入道したようである。
一方、進士美作守系統の進士国秀は、天文8年(1539年)12月21日等に諏訪信濃守、つまり奉行衆の諏訪長俊等と所領を争っている。この落とし前として天文9年(1540年)3月30日の『大館常興日記』に進士国秀が剃髪することを願って内談衆が認めるかどうかを議論しており、進士国秀は自分が退く代わりに息子の進士晴舎を奉公衆に入れたようである。
かくして、その翌年の天文10年(1541年)10月3日の同じ『大館常興日記』に五番衆として進士長門守・進士澄胤、進士新次郎・進士晴舎が登場している。つまり、進士美作守の系統と、進士長門守の系統の2つが、足利家に仕えているのである。
さらに、『言継卿記』には、天文14年(1545年)1月10日の足利義輝の参内に伴い、走衆としてまた進士九郎が登場する。こちらに関しては、木下昌規によると、大永元年(1521年)~天文3年(1534年)の前期足利義晴幕府の時期の『後法成寺関白記』、『言継卿記』等に、進士九郎左衛門尉・進士賢充という進士氏がいるらしい。この進士賢充が父親か同一人物かはよくわからないが、おそらくこの進士九郎は後述の進士晴舎の甥・進士賢光と思われる。なお、『大館常興日記』には進士新九郎というまた別の九郎系統の進士氏がいるらしい。
というわけで、ここまで足利義晴期の進士氏を整理したが、この記事の進士晴舎周りの閨閥は正確には不明。ただし、『後法興院記』によると、足利義材の六角高頼討伐で御旗竿を担った人物が進士美作守のため、進士晴舎は、進士貞利の系統という可能性は割と高かったりする。
かくして、天文15年(1546年)に足利義輝が元服した。ここで、進士修理亮晴舎が御走衆として近侍している。一方、この年にはもう美作守になっていたようで、甥の九郎・進士賢光が元服の儀式に食事を用意している。
一方、「集古文書」に収録されている、天文20年(1551年)2月18日の進士晴舎の書状では、前年の足利義晴の死に際し、東国の横瀬成繁に対して、その死に動揺し若年の将軍を擁立する不安を口にしている。なお、この書状は、足利義晴が5月4日に自害したと表現されているため、2017年に浮上した、足利義晴自害説の根拠となった。
ところが、進士賢光の方は伊勢貞孝の足利義輝離反とともに帰京し、三好長慶についた。しかし、天文20年(1551年)3月14日、『言継卿記』によると、伊勢貞孝の家を訪問した三好長慶を暗殺しようとし、失敗して自害してしまった。軍記の『細川両家記』によると、足利義輝の命令で、『足利季世記』によると、足利義輝の命令と三好長慶に本領を没収した恨みとしている。足利義輝の関与はわからないが、少なくとも伊勢貞孝の裏切りに起因した義挙、という可能性は高い。
とはいえ、進士流との関係はともかく、ルイス・フロイスに内膳頭とも称された進士晴舎は、以後も足利義輝に近しい存在、というよりも足利義輝の将軍就任後に権勢を誇った存在である。この進士晴舎は、尼子氏・由良氏との大名別申次も担ったが、この進士晴舎の娘こそ、足利義輝の側室・小侍従局であった。
小侍従局の輿入れは、『言継卿記』等を見た限り永禄3年(1560年)後半までに、遅くとも行われている。なお、因果関係としては、進士晴舎が重用されたから婚礼できた、の順番であるため、外戚と化した進士晴舎が権勢を増した、まで言えるかは微妙なところがある。
この小侍従局はルイス・フロイスに奥方として扱われるなど、正室の近衛氏をしのぐ寵愛を誇り、足利義輝の帰洛以後は唯一子供を産んだ妻である(伝山性賢等それ以前の生まれは別の側室からだが、少なくとも2人の娘、唯一の男児輝若丸も消去法でおそらくは彼女)。一方、小侍従局は足利義輝の乳母・春日局と同じく奥向きの取次を行える室町幕府女房衆と化しており、簡単に言えば将軍の妻兼有力な幕府官僚というべき存在だったのである。
一方、この結果、足利義輝の母親・慶寿院や、正室の近衛氏といった、「足利―近衛体制」を担う存在は、結構危機感を抱いていた。進士晴舎本人は、慶寿院の意志の代弁も担うなど、近しい存在であり、慶寿院、近衛氏と小侍従局は永禄7年(1564年)に伊勢神宮参宮に行くなど、表向きは仲のいい存在であった。
とはいえ、小侍従局が子供を妊娠した際、こうした人々たちは取り乱し、将来的に小侍従局が奥向きの中心になる可能性は想定されてはいたのである。
そんな、足利義輝の岳父・進士晴舎の権勢の結果、永禄の変が起きたというのが、永禄の変の原因の内二つある説の片方である。早い話、進士晴舎―小侍従局のラインに三好家の取次が独占されてしまい、その解消に暴力的に動いた結果が、将軍の死を招いたとするのである。
この経緯は、そもそも足利義輝の帰洛後、三好氏・松永氏との取次は、上野信孝という足利義輝の側近の最有力人物と、進士晴舎のツーマンセルで行われたことにある。本来反三好派だった上野信孝を三好氏との回路に用いたのである。なお、この結果発言力を低下させて暴発したのが、もともとの親三好派だった伊勢貞孝とされる。
ただし、この上野信孝・進士晴舎の両名は、明らかに足利義輝に肩入れする存在であった。政所の足利義輝の介入を、松永久秀が諫言したにもかかわらず断行する等、御供衆として足利義輝に仕える意味では同格だった松永久秀が明らかに外様として区別されているなど、恣意的な行動が多かったのである。
永禄6年(1563年)に上野信孝が死に、子息の上野量忠が跡を継ぐ。この事態に進士晴舎の発言力が、当然増したのだが、松永久通は、三好義継の進士晴舎のルートとは別に、穏健派の大館晴光のルートを開拓した。つまり、三好氏の担当者として進士晴舎を外すのはもめるため、おそらく松永久秀の命で自分たちに親しい存在に取り次いでもらおうとしたのである。
ところが、永禄8年(1565年)4月27日にこの大館晴光も死んでしまう。子息の大館輝光が当然後を継いだが、進士晴舎に対するけん制力は、当然減じたのである。
一方で、この結果、三好氏の外部顧問的存在だった、伊勢貞助が幕府の三好氏の一次受けになったようだ。かくして、4月30日に三好義継・松永久通の上洛が起きた。
そして、5月19日、永禄の変が起きた。進士晴舎と小侍従局を取り除く申し出を、幕府を御所巻して行った結果、当の本人である進士晴舎が取次ぎ、切腹。決裂した結果、足利義輝まで殺してしまったのである。
この原因として、そもそも殺す気はなかった、殺す気満々だったの両方の説が唱えられている。この記事に関しては、前者について触れると、進士晴舎―小侍従局ルートの排除を求めただけで、そこまでする気はなかったとするのである。
だが、進士晴舎が三好氏の取次を独占しているのに、そんな無茶な話が通るのかというのは疑問である。この辺は、木下昌規は、本来は伊勢貞助にやってもらうはずが、たまたま伊勢貞助が出払っていた結果、進士晴舎が担当して盛大に暴発した、という仮説を立てている。
とはいえ、これで進士晴舎・進士藤延・小侍従局父子は殺され、進士氏の足跡は、以後はよくわからなくなる。
亡命政権時代の足利義昭の家臣を記した、『永禄六年諸役人附』の後半部分には、進士知法師と呼ばれる存在が、奉公衆五番にいるが、詳細は全く不明。以後、足利義昭期に進士氏は全く登場しない。
ところが、明智光秀の家臣に吸収された旧幕臣に、進士晴舎の子息と称する、進士貞連という人物が、細川家の公式設定本『綿考輯録』に登場する。この進士貞連は、細川藤孝の妻・光寿院の妹を夫人としていたとされ、明智光秀に最後まで従った七騎の一人であり、この後ふんわり生き残って細川家に仕え、関ヶ原の戦いでも細川藤孝と田辺城に籠城し、最終的には加賀藩に仕えたとする。
なお、この進士作左衛門貞連の確実な一次史料は、『大日本近世史料細川家史料』17の2037号のみである。これと2038号を見た限りでは、細川忠利が肥後を拝領した祝いに、加賀藩の進士貞連に手紙を当てたということである。
また、1588年有馬神学校のキリシタンに、進士アレクシウスという22歳の存在がいる。この人物は系譜も全くわからず、小谷利明も進士氏との関係については留保している。
加賀藩の家臣団の記録である『慶長之侍帳』、『元和之侍帳』、『寛永4年侍帳』には、進士作左衛門と進士牛助(進士牛之助)という2人の進士氏が仕えており、通称から前者が進士貞連である。寛文年間の『寛文侍帳』にも進士作左衛門と進士権兵衛の名前が見つかり、進士貞連、あるいはその後継者が17世紀後半にはまだ加賀藩にいたことがわかる。
さらにはるか後世の19世紀初頭の文化年間に作られたとされる、『加賀藩侍帳』(石川県史所収)によると、平士並に620石の進士斎宮、100石の進士源五郎、進士彌門の3人が見つかる。
その息子世代にあたる、文久1年(1861年)の『加賀藩組分侍帳』にも、御大小将の鷹栖守人組に620石で進士斎宮の息子の進士敬太郎政醇が、定番御馬廻組の山東甚兵衛組に100石で進士源十郎の息子の進士仙次郎克明と進士彌門の養子の進士義三男武安が、組外の当分支配に進士聞楽斎武知がいるが、系譜の復元はよっぽどのことでないと難しく、彼らが進士貞連に連なる存在かどうかは不明である。
一見すると彼の著書のタイトルになっている明智光秀の乱の提唱に、この進士晴舎がどのようにかかわるのかわからない。しかし、彼の一般書を読むと歴然で、明智光秀は進士晴舎の息子・進士藤延の生き残った姿で、織田信長の側室で明智光秀の姉妹・オツマキは小侍従局、そして明智光秀の息子・明智光慶は、生き残った足利義輝と小侍従局の息子を養子に迎えたもので、後の尾池義辰とするのである。
早い話、ネットに流布している明智光秀の進士氏説はこれがひたすらコピペされたものである。なお、明智光秀を進士氏とする江戸時代の系図は確かに存在し、近年翻刻された「三宅家史料」のうち、『山岸系図』、およびそれをもとにした『土岐系図安国禅寺』には、明智光秀は進士信周の息子で、進士晴舎、山岸信舎、進士賢光の弟としているらしい。
ただし、この『山岸系図』は19世紀中ごろ、つまり幕末にしかそれっぽいものの存在が確認できない代物であり、加えて明智光秀は進士氏ということを示すだけで、彼の説に沿うものではない。また、彼が論証するのは尾池義辰が明智光慶ということを無理くり行っただけで、これが通るなら他2つの想定もFAというのが骨子のデータもワラントもないものである。
というわけで、奉公衆勢力の反動で起きたのが本能寺の変とする彼の著書は、正直お触り禁止の部類なので、進士晴舎を明智光秀と絡める話を見かけても…うん…。
掲示板
急上昇ワード改
最終更新:2024/04/20(土) 00:00
最終更新:2024/04/20(土) 00:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。