道成寺単語

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道成寺とは、

  1. 和歌山県日高町にある天台宗寺院
  2. 1.に伝わる安清姫伝説を元にした能楽作品。

本記事では1.について解説する。

概要


701年(大宝元年)に創建と伝えられる、和歌山県に現存する最古の寺院。文武天皇の勅願により紀大臣成が建立したといわれる。文武天皇の夫人・宮子藤原宮子)の願いで文武天皇宮子の故郷に建立したという伝説(後述)もある。

現在天台宗寺院で、本尊は千手観音。山号は天音山。1932年昭和7年)に制定された新西十三箇所の第5番札所となっている。

後述する「安清姫伝説」で特に知られ、門前の食事処に「あんちん」の名がつけられていたり、清姫が釣鐘ごと安を焼き殺したことにちなんだ「つりがね饅頭exit」が、参お土産として売られていたりする。また、拝観時には住職によるユーモアを交えた絵解き説法(約40分)で、安清姫伝説物語を聞くことができる。

かつて本堂に安置され、現在は宝殿に保管されている「木造千手観音立像」ならびに「木造菩薩立像2(伝 日光月光菩薩)」が宝に定されており、この当ての参拝者も多い。

一方で、安清姫伝説が有名なために、件の釣り鐘を期待して来訪し、そして鐘楼すらないことにがっかりする観光客も多いらしいが、実際、道成寺にあったとされる実物の釣り鐘は現在京都市の妙満寺にある。これは戦国時代戦利品として奪された後に奉納されているためであるが、実はその妙満寺の釣り鐘も2代目のものであり、数年前、一時的に里帰りした釣り鐘の写真を見る限り、人間はおろか、和の成が一頭入れればちょうどいいぐらいのサイズに過ぎない。その安を焼き殺したとされる初代釣り鐘は現存していないが、実際の歌舞伎座で使われたというり子の釣り鐘が保管されており、かなりのスケールである。

伝説

宮子姫(髪長姫)伝説

藤原不比等の長女で第42代文武天皇の夫人・藤原宮子宮子)が御坊市付近の出で、道成寺の創建に関わっているとする伝説日本シンデレラストーリーと称されることもある。

士(くあま)の里(現在御坊市湯川町下富安)に住む女の夫婦が、子宝に恵まれなかったために里の氏である八幡宮にお参りして祈願したところ、女の子を授かった。「宮」と名付けられた女の子だが、成長してもまったく髪の毛が生えてこなかった。

ある時、九士の里の海底から不思議が発せられ、が獲れなくなってしまった。そこで宮の母親海底に潜ってみると、黄金く小さな観音像があった。母親が観音像を拾い上げ持ち帰ると、またが穫れるようになった。

母親は持ち帰った観音像を大切にり、毎日手を合わせていると、がついに生えだした。はやがて七尺あまりもある長く美しい黒髪となり、と呼ばれるようになった。は観音様に賜った大切なを粗末にしてはいけないと、を梳かすときに抜けた髪の毛さえも捨てずに木の枝にかけていた。

あるとき、一匹のツバメスズメとも)がその髪の毛を一本咥えて飛び去った。ツバメは当時で絶大な権を誇っていた藤原不比等の屋敷に巣を作り、宮の長く美しい黒髪藤原不比等にとまることとなった。当時は長い黒髪美人という時代、不等は全の持ちを探すように命じた。かくして、宮は藤原不比等の養女となり、宮子と名付けられた。宮子はやがて文武天皇に見初められてその夫人となり、聖武天皇を生むこととなる。

女の生まれから殿上人となった日宮子だが、郷里のことが忘れられず、特に美しい黒髪を授けてくれた観音像のことは常に気にかけていた。それが文武天皇に入り、文武天皇は紀成に命じて道成寺を建立させ、観音像をらせた。

安珍・清姫伝説

清姫」の記事も参照。

醍醐天皇の時代、白河から熊野参りにきた安というイケメン僧侶がいた。安紀伊庄司に宿を借りた際、そこのであった清姫はそのイケメンぶりに一目惚れし、安夜這いを仕掛ける。面食らった安は参拝中の身だから迫られても困ると清姫の誘いをなんとか断り、参拝の帰りに必ず立ち寄ると約束した。しかし全くその気のなかった安は、参拝を終えても清姫のところに戻ることはなく、さっさと帰ってしまう。

いくら待てども戻ってこない安に騙されたと悟った清姫は、怒りのあまり裸足のような形相になりながら安を追跡。なんとか上野の里で追いつくが、様変わりした清姫に戦慄した安は「安? いいえ人違いです」とかわそうとする。見え透いた激怒する清姫。恐れをなした安は、も荷物も放り出して逃げまどい、熊野権現に祈り助けをめる。すると清姫がくらみ安を見失い、更に逆上して頭から下がの姿となる。

やがて逃げる安日高ほとりへ。安は「恐ろしい女に追われている、その女だけは乗せないでくれ」と頭に懇願してを渡る。やがて清姫日高へたどり着くが、安との約束がある頭は一人乗せてはくれない。業を煮やした清姫はついに全身の姿となり、火を吹きながら自を渡りきった。

一方の安は道成寺に逃げ込み助けをめる。呆れる者や笑う者もいたが、流石にだんだん憐れに思われ、鐘つき堂の鐘を下ろして中に匿うこととなった。

程なくして追いついた清姫は怒り狂いながら安を探す。やがて下ろされた鐘を見つけた清姫は、身体を幾重にも鐘に巻き付け、釣鐘の頭をしっかりと咥えながら尾の先を何度も鐘に叩きつける。鐘は清姫が口から吐きかける火で包まれ、哀れ安は鐘の中で焼き殺されてしまう。

道成寺の僧たちが震えながら見守ることしばし、やがて清姫血涙を流しながら打ちひしがれた様子で鐘つき堂から這い出てきた。そのまま清姫日高に向かい、尽きるかのようにその身を水中へ投げ、底へと沈んでいった。

清姫はその後転生し、道成寺の住持のもとに現れ供養をめる。住持が法華経を唱えるとその功徳で二人は成仏し、人の姿で現れる。実はこの二人は熊野権現と観世音菩薩の化身だったのである。

また、上記の後日譚として以下のような話が伝えられている。能楽『道成寺』や歌舞伎鹿道成寺』などはこの後日譚を題材としている。

が釣鐘とともに焼かれてから400年ほど経った1359(正14)年頃のこと。鐘を再しようということとなり、二代の鐘の完成の後に女人禁制の鐘供養を行うこととなった。ところが鐘供養の際、一人の拍子が現れて鐘に近づいたかと思うと、く間にの姿に変身。鐘を引きずり下ろしてその中に姿を消した。僧侶たちは清姫霊が現れたのだと恐れおののき、一心に祈りをげたところ、ようやく鐘は鐘楼にあがった。しかし清姫念によるものか、二代の鐘は音も悪く、災いや疫病が続いたため、山中へ捨てられてしまった。

更に200年ほど経った戦国時代羽柴秀吉の紀州征伐の際に、これに参加した仙石秀久山中でこの鐘を見つけ、合戦の合図の鐘として使い、そのまま戦利品としてへ持ち帰った。そして清姫念を解くために経第一とされる法華経を頼り、妙満寺に納めた。

歴史

出来事
701(大宝元)年 道成寺が創建と伝わる。
850年頃 現在の本尊である千手観音像・日光月光菩薩像・四天王像が完成する。
928(延長6)年 道成寺の内で清姫が安を釣鐘ごと焼き殺す。
1357(正12)年 現在の本堂が工する。
1394(応永元)年頃 『道成寺縁起』が成立する。
1500年頃 能楽『道成寺』が作られる。
1585(正13)年 羽柴秀吉の紀州征伐で諸堂が焼失する。また、鐘が持ち去られ京都の妙満寺に安置される。
1652(承応元)年 天台宗宗する。
1655(明元)年 紀州徳川頼宣の援助により、本堂の屋根葺き替えなど修理が行われる。
1691(元4)年 仁王門が再建される。
1753(宝3)年 歌舞伎舞踊『鹿道成寺』が初演される。
1812(文化9)年 本堂が3年がかりで修理築される。
1991(平成3)年 本堂が解体修理され、中世の頃の姿が復元される。

拝観

拝観料

大人
(中学生以上)
小学生 備考
基本料 600円 300 幼児無料
団体割引(20名~) 500円 250円 一括払いに限る
障害者割引 300 150 要手帳提示、介護者1名同額割引
小学校 中学校 高校 備考
学生割引 200円 300 400円 引率教員無料

※入山のみは無料

拝観時間

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