遠藤基信(1532年~1585年)とは、家中一の成り上がり者であり、伊達家の渉外担当であり、伊達輝宗股肱の臣である。通称六郎、文七郎、内匠、山城、山城守など。号は不入斎。
遠藤基信は伊達郡八丁目の真言宗豊山派水原西光寺(福島県福島市松川町)住職、金伝坊の子として1532年に生まれた。 若い頃は諸国を流浪し、修験道に明け暮れていたという。
やがて帰郷した基信は伊達家宿老・中野宗時に召抱えられ、主簿として仕えることとなった。
税制台帳の管理を任されていたが、ある時帳簿の不審に気付く。
主人・中野宗時は先代伊達晴宗の家督相続以降長きに渡って絶大な権力を誇ったため、伊達輝宗が定める税制度や軍役に関わる法度を無視し、独自の対抗勢力を持つまでに私腹を肥やしていた。
1570年基信は宗時ら謀反一味の蜂起を火急の報せで輝宗に伝えた。 徹底した誅罰により家中の火種は霧散し、輝宗治世が確固たるものになる。
この功績を以って基信は宿老として輝宗に取り立てられている。
以降は評定役・鬼庭良直と共に伊達家の両輪として功を挙げて行く。
文官であるため表立った活躍は知られていないが、外交に関わる文書を取りまとめ、渉外の元締めとして重役を担った。特に織田信長との親交は基信の強い提言により実現している。
1575年輝宗の徒小姓だった片倉小十郎(景綱)の才を見抜き、幼少の梵天丸(伊達政宗)を補佐する小姓として推挙。
同年信長に鷹や駿馬を送り、返礼に虎皮や緞子を受け取って誼を通じる。
1576年相馬との戦いで伊具郡へ侵攻。奉行職に任ぜられているが相馬盛胤に退けられている。
1577年徳川家康使者の鷹匠と会談。輝宗の許しを得て最上領へと送り届ける。
同年信長より上杉謙信討伐に際し本庄繁長と相談の事と援軍要請を受ける。
1579年田村清顕の一人娘・愛姫が政宗に輿入れ。梁川八幡宮(福島県福島市梁川)にて花嫁行列の引き取り役を務め、米沢までの警護を担当した。
1581年大崎義隆より愛宕へ願掛けに行く際に伊達領の通行を保障してくれるようにとの書状を受ける。
同年政宗初陣の戦勝を祝う蘆名使者より書状と進物が届く。
1582年佐竹義重へ武田家の滅亡により関東並びに奥羽の情勢が危うくなっていると書状を宛てて揺さぶりをかけ、有事の際は信長へ協力する旨を伝えて佐竹の奥州介入を阻止する計略を仕掛けている。
同年田村対蘆名・二階堂の小競り合いに対し輝宗が裁定に乗り出したことに関する外交文書を取次ぐ。
滝川一益が関東出兵と上野厩橋城入城を報せ、近々輝宗と会談したいとの誘いを書状で送る。
この他にも柴田勝家、羽柴秀吉、北条氏政・氏照、飛鳥井雅敦(公家)などとやり取りした記録が数多く残されている。
1584年輝宗隠居。伊達政宗が家督継承。
基信は「主君へ二代の出頭はならぬ物なり」と常日頃から宣言しており、同年8月に隠居してしまう。
政宗は晩年このことについて、自分のことを軽んじているのかと思ったがそうではなかった、と語り、その証となる出来事を近習へ話して聞かせた。
家督後、政宗は上方から初めて奥羽へ下ってきた木綿染めを広間に広げ、家臣に見せびらかそうとした。
家臣たちは見たこともない染物に度胆を抜かれ、あれやこれやと褒めそやしていたところ、基信がやってきて何の騒ぎかと問いただす。
訳を聞くと基信は怒りだし、木綿染めをくるくると丸めて政宗へ返した上で「大将たる者がこんな御心の小さいことをして喜ぶのはお止め下され」と諫言し、在所へ戻って行った。
政宗曰く「あの時の基信の怒り様、今思えばもっともなことであった」とのこと。
また、進物をやり取りする中で「源五郎が鋳たる釜」という逸話も伝えられている。
ある時輝宗は、ふと気まぐれに信長への進物に基信の選んだものを加えて送ろうと話を持ちかけた。
金細工かあるいは名馬か、この成り上がり者は何を選ぶのかと興味深々でいると、基信は「では家臣の源五郎が鋳物を得意としておりますので、茶釜を鋳らせて送りましょう」と返事をした。
輝宗は「天下人たる信長公にその方の家臣の釜では不釣合いではないか?」と尋ねた。
すると「修験者の小倅がいくら背伸びをしても田舎者の見栄張りとそしられるのが関の山です」と基信の言。
輝宗は一笑すると茶釜の進物を許した。
上方では朱鷺色の鷹や白石鹿毛の駿馬など珍しい品々に感じ入り、茶席の宴会が行われた。
その席で信長は件の釜の由来を聞くと、側に控えていた千宗易に「源五郎の釜を見たことがあるか」と尋ねた。
「恐れながら未だ実見したことはございませぬ」と宗易は畏まって答えた。
信長は「天下の御茶頭も知らぬ逸品よ」と高笑いし、早速名物遠山と名付けたこの釜で湯を沸かして話の種としたという。
上記の逸話は木村宇右衛門覚書に記載されているが、史実とする証拠は現存しておらず後世の創作と見られる。
いずれにせよ基信の聡明さが長く語り継がれたことは確かである。
1585年輝宗惨死の報が米沢に届くと基信は悲しみに暮れ、葬儀の際に殉死しようとした。
しかし政宗により殉死の禁令が出ていたため周りの家臣たちによって嫡男・宗信へ処罰が及ばないよう阻止される。
二七日(ふたなのか=14日)法要を無事済ませ、片倉景綱に後事を託したのち改めて輝宗の墓前で割腹。
十万億土へ主君の御供に旅立った。享年54。
墓所は慈雲山資福寺跡(山形県東置賜郡高畠町)にある。輝宗の墓の隣で控えるように眠っている。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 48 | 政治 | 67 | 魅力 | 60 | 野望 | 39 | 教養 | 63 | ||||
覇王伝 | 采配 | 51 | 戦闘 | 48 | 智謀 | 63 | 政治 | 77 | 野望 | 39 | ||||
天翔記 | 戦才 | 86(C) | 智才 | 114(B) | 政才 | 152(A) | 魅力 | 66 | 野望 | 38 | ||||
将星録 | 戦闘 | 38 | 智謀 | 67 | 政治 | 80 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 13 | 戦闘 | 16 | 智謀 | 59 | 政治 | 73 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 5 | 智謀 | 50 | 政治 | 70 | 野望 | 10 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 21 | 知略 | 68 | 政治 | 76 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 21 | 知略 | 68 | 政治 | 76 | 教養 | 59 | ||||||
革新 | 統率 | 25 | 武勇 | 31 | 知略 | 77 | 政治 | 85 | ||||||
天道 | 統率 | 25 | 武勇 | 31 | 知略 | 77 | 政治 | 85 | ||||||
創造 | 統率 | 32 | 武勇 | 43 | 知略 | 75 | 政治 | 81 |
掲示板
6 ななしのよっしん
2019/11/02(土) 02:12:31 ID: qy6+tOV+fI
史実を反映してか信長の野望シリーズでも義理がクッソ高い&野望が低い忠義者タイプとして扱われている(義理は基本的に上限付近に設定されている)
7 ななしのよっしん
2020/05/20(水) 18:42:27 ID: yJDByx9Fht
才能を見込まれて仕えるようになったとこや、主君が死んだ後に墓前で殉死するとこが小梁川宗朝と似てるよね
どっちも生き残っても今後も活躍できそうなのに、亡き主君へお供するために逝く辺り、やっぱこの人たちは一代にのみ仕える忠臣なんだなぁと
8 ななしのよっしん
2023/05/16(火) 11:16:19 ID: aLGN03AS2J
太閤立志伝2では身分が低いものの
弁舌3軍学3陣形マスターに加え騎馬隊2回攻撃を持つすごいヤツ
ちなみに秀吉と相性良いから滅ぼさなくても引き抜ける
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最終更新:2025/03/28(金) 07:00
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