遣独潜水艦作戦とは、第二次世界大戦中の日独間で行われた作戦である。
第二次世界大戦前、日本とドイツは同盟国の関係にあった。しかし両国間は9200kmも離れており、通信以外の交流手段は乏しかった。1939年9月3日に第二次世界大戦が勃発すると、海路の大半は敵対するイギリス海軍の支配下に収まり、人員・物資の往来は陸路のシベリア鉄道に頼らざるを得なくなった。ところが独ソ戦の生起でその鉄道すら使えなくなってしまった。
1941年12月8日、大日本帝國は米英蘭豪の四ヵ国に対して宣戦布告。東南アジアの各地で破竹の快進撃を続け、資源地帯や重要拠点を全て押さえた上にセイロン沖海戦の快勝でインド洋の制海権をも有した。日独の勢力圏がグンと近付いた事で海路が復活し、日独両国がそれぞれ望む物品を交換する運びに。技術大国ドイツの生み出す画期的な兵器群は日本にとって非常に魅力的に見え、一方のドイツも日本が押さえている東南アジア産資源(錫、タングステン、キニーネ、生ゴム等)が欲しかった。利害が一致した両国は互いが求める物を交換する協定を結び、日本側はペナン、スラバヤ、シンガポールを、独伊側はボルドー、ロリアン、ブレストをそれぞれ寄港地として提供した。ドイツ側はキールや占領下のフランスから封鎖突破船を送り、日本側はシンガポールやペナンを受け入れ港にして横浜や横須賀に輸送した。連合軍の海上封鎖を突破した封鎖突破船は東南アジアへ到着すると、積み荷の精密機械や新兵器の青写真を揚陸し、代わりに日本が提供する南方産資源を満載にしてドイツ本国に向かった。ドイツ発日本行きの封鎖突破線は「柳船」、日本発ドイツ行きは「逆柳船」の秘匿名で呼称された。一部の封鎖突破船は東南アジアに留まったり、日本本土までやってきて軍の作戦に協力している。
しかし1942年も半ばに入ると、南方占領地に向かった封鎖突破船10隻中3隻が拿捕されるなど海上輸送路も閉鎖の危機に見舞われた。そこで白羽の矢が立てられたのが潜水艦だった。潜水艦は隠密性が高いため、水上船と比べて成功率が高かったのだ。こうして遣独潜水艦作戦が開始され、日本と独伊から潜水艦が派遣された。
日本からは伊30潜(往路成功、復路撃沈)、伊8潜(唯一往復成功)、伊34潜(往路撃沈)、伊29潜(往路成功、復路撃沈)、伊52潜(往路撃沈)の5隻が派遣された。しかし無事往復に成功したのは伊8潜だけであった。対するドイツからはU-180、U-511、U-1224(道中撃沈)、U-234が派遣された。ただU-511を除いて日本本土までは行かず、東南アジアやそれより前の海域で引き返している。
連合軍の妨害で多くの潜水艦が沈められ、日本に届かなかった技術や設計図は多い。それでも橘花や秋水を生み出すきっかけになったり、ウルツブルクレーダーの開発に成功したり、碧素(ペニシリン)生産研究の起点となったりと恩恵をもたらした。本作戦は、日独の軍が唯一共同で行った大規模作戦である。
1940年、ドイツで技術調査が行われた際に射撃制御用ウルツブルクレーダーの高性能に驚いた日本は、ドイツに技術供与を要請。大東亜戦争開戦後に許可が下った。しかし既にイギリスのみならずアメリカも参戦しており、海上輸送は危険だった。そこで日本側が潜水艦を使った輸送を提案し、1942年4月6日に軍令部が訪独を指令。大任に選ばれたのは約1ヵ月前に竣工したばかりの伊30潜だった。さっそく艦内には駐独海軍武官宛の機密文書やドイツが希望する兵器の設計書が積載された。
1942年4月11日、伊30潜は呉を出港。これに呼応してドイツに滞在していた日本人技術者に対しウルツブルクレーダーの技術教育が実施された。4月20日、インド洋を臨む中継点ペナン基地に寄港。そして4月22日に特設巡洋艦愛国丸とともに出港し、長い旅路の第一歩を踏み出した。4月25日、愛国丸から洋上補給を受け、アラビア海及び東アフリカ方面での通商破壊と偵察任務に従事。5月7日にアデンを航空偵察し、翌8日未明にソマリランドのジブチを航空偵察。しかし途中で水上偵察機が発見されて軍艦から砲撃を受けたために中止しなければならなかった。5月19日にザンジバルとダルエスサラームを航空偵察し、翌20日にはキリンディニを潜望鏡偵察。甲標的によるマダガスカル島攻撃を支援するため事前偵察を命じられ、伊30は5月24日夜にマダガスカル北端ディエゴスアレスを潜望鏡偵察。その後、第8潜水戦隊の潜水艦とともに通商破壊に従事するが、唯一伊30だけ何の戦果も挙げられなかった。通商破壊任務を終えると訪独の準備に取り掛かった。伊30は第6艦隊直轄となり、司令部からの命令はシンガポールの通信部隊によって中継される事に。伊30にはコードネーム「桜」が付けられた。6月18日、マダガスカル島サントマリー岬南東250海里で特設巡洋艦報国丸から最後の補給を受け、ドイツに持っていく空母設計図、雲母、魚雷設計図、生ゴムなどを搭載。この時、軍事機密の塊である九五式酸素魚雷を降ろし、八九式魚雷に換装している。報国丸と別れた後は単身インド洋を西進し、ドイツを目指した。6月30日、ダーバン南方300海里にて南アフリカ連邦軍の哨戒機に発見されるも被害なく突破。
まず最初に立ちはだかったのが「ローリング・フォーティーズ」と呼ばれる暴風域である。これは南緯40度を中心に東西約1600km、南北約3200kmにまたがる暴風域で、常に風速40mの西寄りの風が吹き荒れる魔の海域である。南アフリカはイギリスの舎弟であり、そこから飛んでくる哨戒機を避けるにはどうしても暴風圏を突破しなければならなかった。凄まじい暴風と波濤に襲われ、エンジンが2基とも故障する危機に見舞われる。やむなく電動機のみの航行を強いられたが、何とか難所を越えて大西洋へ出る事が出来た。だが大西洋にはイギリス軍が跳梁跋扈しており、ここも難所だった。8月2日、中部大西洋でイギリス軍機の攻撃を受けて損傷するが、何とか生き延びる。
ビスケー湾のオルテガル岬沖でドイツ空軍のユンカースJu-88爆撃機8機に出迎えられ、8月6日にM級掃海艇8隻と掃海艇1隻が伊30と合流。フランスの沿岸基地で最も大規模なUボート基地を有するロリアン軍港に向かい、その日のうちに入港。伊30は日本艦で初めてドイツに到達した艦となった。伊30が運んできた物資はフランス人港湾労働者によってU-67の甲板に移載され、乗組員はエーリヒ・レーダー提督やカール・デーニッツ提督、駐独海軍武官横井忠雄大佐たちから歓待を受けた。他にもUボート乗組員、看護婦、一般人が伊30の到着を祝ってくれた。伊30はイギリス軍の爆撃から逃れるためケロマンバンカーに移動し、ドイツ海軍の専門家から技術調査を受けて静穏性の低さを指摘される。対策のため伊30には主機や補機の台座に防振ゴムが装着された他、メトックスレーダーや四連装20mm対空機関砲を装備。船体は大西洋の海面に馴染みやすい灰色へと再塗装している。物資の積み降ろしと積み込みが終わるまでの間、伊30乗組員には束の間の休息が与えられた。上陸した乗組員はパリへと向かい、各々羽を伸ばした。シャンゼリゼのレストランでは軍艦マーチが流れるというサービスを受けたとか。その後、潜水艦乗員の休養地であるシャトーネフへ案内された。日独の軍人は情報交換を行い、伊30側は「インド洋の対潜対策が遅れている」とドイツ海軍に情報提供した。ちょうど大西洋方面のUボートの喪失数が激増しており、新たな狩り場を求めていたドイツ海軍はこれに関心を持った。のちにモンスーン戦隊が創設され、インド洋にUボートが進出するきっかけとなっている。
8月22日、ウルツブルクレーダー、レーダー設計図、日本人技術者1名、エニグマ暗号機、潜水艦用魚雷方位盤、20mm4連装機銃を積載してロリアン軍港を出発。伊30が持っていた零式水上小型偵察機は「お土産」としてドイツ側にプレゼントしていた。翌23日に護衛の独掃海艇と別れ、単艦帰国の途についた。大西洋に敷かれたイギリス海軍の厳重な警戒網を無事突破し、9月20日に喜望峰を抜けてインド洋に入った。9月25日、ドイツ海軍は連合軍を撹乱するため「大西洋で活動するUボート戦隊に日本の潜水艦が加わった」と偽情報を流布。ロリアン寄港時に零式水上小型偵察機が飛行する様子をフィルムに収めていて、これを証拠映像としている。
10月8日早朝、中継点のペナン基地へと入港した。そこで整備と補給を行い、10月11日夕刻に内地へ向けて出発するのだが…。エニグマ暗号機を早急に手に入れたい兵備局長が独断でシンガポールへの寄港を命じ、伊30は寄り道をする事になる。10月13日夜、シンガポール沖に到着した伊30に対し第10根拠地隊は「湾口の安全水路を水先案内する嚮導艦を派遣する」と暗号電報を打ったが、古い暗号表しか持っていなかった伊30は不幸にも了解できず、嚮導艦の到着を待たずに機雷原を通過した。この時は満潮だったため機雷の頭上を通る形となって、爆発はしなかった。同日午前9時30分、シンガポールのゲッペル港に到着してエニグマ暗号機10台を揚陸。16時9分、呉に向けて出港するが、東に3海里進んだところでイギリス海軍が敷設した機雷に触れて沈没してしまう。出港時は干潮になっていて、機雷にぶつかってしまった訳である。連絡の不徹底が招いた悲劇であった。戦死者は下士官13名に留まったのが不幸中の幸いだった。佐世保工廠から300名が派遣され、10月20日に沈没した伊30からエニグマやレーダーの回収を試みた。13名の遺体と大部分の積み荷は回収できたが、肝心のレーダーとエニグマは壊れて使い物にならなかった。
こうして1回目の訪独は成功寸前で失敗してしまったのだった。
ヒトラー総統は、日本潜水艦による通商破壊が不活発なのを憂い、新型Uボート2隻を無償譲渡する事に決めた。このうちの1隻であるU-511はドイツ人乗組員によって日本本土に回航されたが、もう片方のU-1224は日本人回航員によって本土へ持っていく事になった。軍令部は訪独する艦の選定に入り、ちょうどインド洋方面への進出が遅れて呉にいた伊8潜に白羽の矢を立てた。回航要員をドイツまで輸送するのが伊8潜の任務となった。1943年5月3日、伊8潜の艦長である内野信二大佐は上京して軍令部や海軍省と打ち合わせを行った。
呉軍港で海軍関係者6名、回航要員60名、兵器や図面を積載。伊8潜は旗艦用の大型潜水艦であったが、定員以上の人間を乗せたためスシ詰め状態となった。対策として艦首魚雷発射管と予備魚雷格納庫を居住区に改造し、更に予備の魚雷を降ろすなどして生活空間を確保した。伊10潜と燃料補給訓練を行い、来るべき旅路に備えた。
1943年6月1日夕刻、伊8潜は呉を出港。6月10日にシンガポールへ到着し、キニーネ、生ゴム、錫、雲母、モリブデンなどドイツでは入手困難な資源を満載。22日にペナン基地へ回航し、不要となった艦載機の搭乗員や人員を降ろして最終準備を行った。6月27日、ペナンを出発してインド洋に入った。敵に見つかる危険性を下げるため補給は2回に分ける事とし、通商破壊中の伊10が燃料補給を担当。7月1日と6日に燃料補給を受けた。7月11日、喜望峰の暴風圏に突入。喜望峰にはイギリス軍の哨戒基地があり、哨戒圏は800kmと見積もられていたため、ドイツ側から少なくとも500kmは迂回するよう指示があった。7月18日に難所ローリング・フォーティーズに入った。暴風と波浪で船体は波に飲まれ続け、浮上中なのに潜航しているかのようだった。普段大時化の海に慣れているはずの乗組員ですら、まともに立っていられなかった。規格外の荒波に揉まれ、伊8潜のあちこちで破損が発生。主機械の安全弁が吹き飛ばされたが、修理作業は出来ない。左舷航空機格納筒付近の上構側板が剥がれてしまったため、嵐の中でロープを巻きつけて補修した。地獄のような暴風圏を抜けると、穏やかな大西洋が広がっていた。7月21日、ぼろぼろになった船体の応急修理が行われた。
7月24日に在独海軍武官から電報が入り、「無事大西洋海面に進入せられたものと拝察す。既にご承知かもしれないが、アフリカ沿岸やアセンション島などの島々から960km圏内は敵機が出現するかもしれぬ。ビスケイ湾進入に際しては、西経17度以東は潜航せよ」と伝えられた。また伊8潜の行動を支援するため、江見中佐が便乗しているUボートが連合軍の航空哨戒やレーダーについての助言を行った。8月2日、赤道を北上。ドイツ側とも連絡がつき、補給用のUボートを派遣してくれる事になった。しかしドイツ側の都合で一旦中止となり、伊8潜側をがっくりさせた。同時に入港先をロリアンからブレストに変更するよう指示が届いた。
8月20日、アゾレス諸島西方でU-161と合流。伊8潜にドイツ人連絡将校が乗り移り、新型の逆探装置を受領・装備した。伊8潜はお礼にコーヒーが入ったドラム缶を渡し、U-161側からとても喜ばれた。ドイツ国内でもコーヒーは希少になりつつあり、このプレゼントは時勢にピッタリだったのだ。U-161はブラジル方面に向かって去っていたが、翌月アゾレス諸島沖で武運つたなく撃沈されてしまったため、この時伊8潜へ乗り移った連絡将校がU-161唯一の生存者となった。大西洋はイギリス軍が厳重に警備していたが、貰った逆探装置のおかげで危険を回避し続ける事が出来た。アゾレス諸島西方を北上した後、直角に東へ変針。スペインの西岸に向かう。最後の難所であるオルテガル岬沖を突破し、8月30日朝に3隻の独水雷艇と空軍機が合流。機雷原突破船の先導を受け、8月31日にブレスト軍港に入港した。伊8潜は歓喜の声で迎えられ、軍楽隊がドイツの歌と君が代を演奏した。ドックで整備を受けている間、乗組員はパリや保養所で羽を伸ばした。
駐独海軍武官14名、魚雷艇用エンジン、レーダー、4連装20mm機関砲、便乗者のドイツ海軍関係者3名、陸軍関係者1名、民間人研究者4名など56品目を積載して10月15日にブレストを出港。帰国の途についた。艦長が大佐なのに対し、武官の最高階級者が少将だったので命令系統に混乱が生じるかに思われたが、少将が艦長の指示に従うと宣言したため問題解決と相成った。赤道を南下した後、伊8潜はドイツ海軍に位置報告を送ったが、これを連合軍に探知されて翌日航空攻撃を受ける。幸い急速潜航が間に合って難を逃れた。11月8日、アフリカ沖で大型船舶を発見。攻撃しようとしたが、相手の船籍が中立国だったため慌てて中止している。帰路もローリング・フォーティーズを通ったが、今回は平穏かつ追い風だったため往路と比べて楽に突破できた。11月10日、喜望峰沖420海里を通ってインド洋に入った。ここからは味方と遭遇する可能性があるので、今まで隠していた日の丸のキャンバスを艦橋に貼りなおした。
寄港先はペナンの予定だったが、第8潜水戦隊司令部より「11月13日、伊34潜が撃沈されたためマラッカ海峡突破時は注意せよ」との情報を受けたためシンガポールに変更。イギリス軍の飛行場があるココス島を150海里迂回し、スンダ海峡を突破。12月5日にシンガポールへ寄港した。現地には第四便としてドイツに向かう伊29潜が停泊しており、ドイツで受け取った逆探装置を渡した。駐在武官を降ろし、セレター軍港で整備と補給を受ける。12月10日に出発したが、マニラ沖に敵潜の出現が確認されたため、大きく迂回。最も危険なバシー海峡は夜を待ってから突破した。21日にゴールの呉軍港へ入港。遣独潜水艦作戦で唯一成功した例となった。
伊8潜が持ち帰った物品は、さっそく三菱重工の工場で研究・調査された。
伊8潜がまだブレストにいた頃の1943年10月13日(9月15日説あり)、呉を出港。ドイツ駐在武官として派遣される小島秀雄少将らの輸送と物資輸送が目的だった。コードネームは「モミ」。しかし東京・ベルリン間で行われた通信を傍受され、連合軍の待ち伏せを受ける。
10月22日にシンガポールへ寄港。小島少将や便乗者は既に空路で到着していて、生ゴムやタングステンといったドイツ向け戦略物資とともに積載。バラスト代わりに錫も積載したという。最初の潜水試験で欠陥が見受けられたため出発が遅れる事となり、小島少将ら便乗者は列車でペナンに向かった。11月11日早朝、伊34はシンガポールを出港。ドイツ海軍は南太平洋へ入る前に給油艦ボゴタによる補給を2回計画し、準備を進めていたが…。
11月13日朝、マラッカ海峡(ムカ灯台南南西1.8km)にて速力14ノットで水上航行する伊34を待ち伏せていた英潜水艦トーラスが捕捉。午前7時30分、放たれた6本の魚雷のうち1本が右舷司令塔下に命中し、撃沈されてしまった。艦内では前部にいた20名の乗組員が生存しており、決死の覚悟でハッチを開けて脱出。このうち14名が原住民のジャンク船に拾われてペナンに届けられ、生還した。伊34はイギリスの潜水艦に沈められた最初の潜水艦となり、以降訪独する艦はマラッカ海峡を避けるようになった。
1943年11月5日、4隻目の訪独艦として呉を出港。11月14日にシンガポールへ到着し、駐独海軍武官16名(前回の小島少将も含まれる)とドイツ向けのキニーネ、生ゴム、錫、タングステンを積載。12月5日に帰国中の伊8潜がシンガポールに入港、同艦に便乗していた前駐独海軍武官横井忠雄少将と新任の小島少将との間で引き継ぎが行われた。また、この時に軍令部からの命令で伊8潜が装備していた新型の逆探装置を受け取り、12月16日に出港。前回の伊34潜がマラッカ海峡で撃沈された事を受け、今回はペナンに寄港せず直接インド洋に向かっている。12月23日、モンスーン戦隊の独油槽船から燃料補給を受ける。イギリス軍の目から逃れるため、喜望峰600海里沖を大迂回し、大西洋に入った。
1944年2月13日、アゾレス諸島南方沖でU-518と合流。連絡役としてドイツ海軍中尉1名と下士官2名が乗り込んだ。艦内にはドイツ人が好むジャガイモや黒パンを載せていなかったため、米を糊のようになるまで煮て、鶏のシチューに混ぜるなど工夫して食事を提供した。また潜航が長引くと真っ先にドイツ海軍中尉が体調不良を訴えるため、艦内汚染度のバロメーターに使用されたとか。3月10日にドイツ海軍の駆逐艦4隻と合流。空軍機7機も支援に回ってくれた。水上航行でロリアンを目指し、翌11日午前7時にロリアン軍港へ入港。便乗者と物資を降ろした。ドイツの厚意で新型の逆探装置が取り付けられた。
エニグマ暗号機やウルツブルクレーダー、メッサーシュミットMe262及びMe163とその資料、イソタ魚雷艇の資料、巌谷英一中佐など便乗者14名などを積載して、4月16日にロリアンを出発。連合軍の支配海域を巧みに突破し、7月14日にシンガポールへ寄港した。この時、便乗していた巌谷中佐が一部のMe262の資料を持ち出しており、空路で羽田へと向かっている。7月17日にシンガポールを出発、内地を目指した。
しかし7月26日、台湾南端で待ち伏せていた米潜水艦ソーフィッシュの雷撃により沈没。生存者は艦橋当直員の2名だけだった。せっかくのレーダーやメッサーシュミットの現物が失われてしまったが、先述の通り巌谷中佐が一部の資料を持っていったので完全な喪失は免れた。わずかな資料をもとに「秋水」と「橘花」の開発計画がスタートした。
1944年1月22日、連合艦隊司令の古賀大将は伊52潜の訪独を命じた大海令第322号を発令。就役したばかりの伊52潜は訪独準備に取り掛かり、甲板砲を25mm連装機銃に換装。22号対空電探を装備した。ドイツに支払う代金として日本銀行大阪支店から49個の箱に詰められた2トンの金塊を受領。
3月10日午前8時50分、呉を出港。5隻目の、そして最後の訪独艦としてドイツに向かった。伊8潜が持ち帰ったドイツ製兵器の技術習得が訪独の目的であり、ゆえに艦内には民間の技術者が沢山乗っていた。日本光学工業の水野一郎氏は対空射撃用高射装置、富士電機の岡田誠一氏は対空機銃射撃装置、東京計器の萩野市太郎氏は対空射撃用安定装置といった具合に各々担当が決まっていた。
3月21日、シンガポールへ入港。ドイツ国内で不足しているタングステン102トン、スズ120トン、生ゴム54トン、モリブデン9.8トン、キニーネ3.3トン、薬用アヘン2.88トン、カフェイン58kgなどの戦略物資を積載する。4月23日にシンガポールを出港し、マラッカ海峡を迂回してそのままインド洋へ進出。喜望峰を突破して無事5月20日に南大西洋へ出る事が出来た。ドイツ海軍はベルリンの駐在武官を通して、「危険水域に入った伊52潜を守るために、『既にドイツに到着して任務を完了した』という偽情報を流しては?」と日本政府に提案。実際に流されたが、連合軍の暗号解析班はこれが虚偽だと見抜いていた。6月4日、赤道を北上。入港先はロリアンであったが、6月6日にノルマンディー上陸作戦が行われ、フランスが戦場と化してしまった。遅れること2日後、伊52潜にもその報が届いた。ロリアンの入港予定日は8月1日で、それまでドイツ軍が維持出来るかどうか不安視された。ベルリンはロリアンへの入港は危険として場合によってはノルウェーまで行かなければならない事も示唆していたが、結局ロリアンへの入港は中止となり、代わりにベルリンから「6月22日21時15分に独潜水艦と合流せよ」と命じられる。独潜水艦から逆探装置を受け取り、自力で敵から逃れられるようにしようとした訳である。また伊52潜を的確に指示するためドイツ海軍の連絡将校を乗せ、ドイツ海軍作戦部の指揮下に入れる意味も含まれていた。だが、この通信は連合軍に傍受され、ハンターキラーグループが派遣される事となる。6月20日、ベルリンの日本大使館は東京の海軍省に「ノルマンディー上陸に伴う連合軍の進撃と、近接海域にてUボート2隻が撃沈された事から空母が出現している」と警告を送った。
6月22日21時15分、カーボベルデ諸島沖でU-530と合流。ナクソスレーダーと2名のドイツ人無線手が伊52に移載されるはずだったが、不手際でナクソスが海へ落下してしまう。すかさず日本人乗組員が飛び込み、何とか回収に成功。ヨーロッパに辿り着くまで装備される運びとなった。この日のランデブーは何事もなく終わり、U-530はトリニダード方面へ向かうべく離れていった。しかし同日23時39分、敵護衛空母ボーグ所属のアベンジャーがレーダーで伊52を捕捉。照明弾とともに2発のMark54爆雷を投下するが、既に急速潜航を終えていた伊52は回避。続いてアベンジャーはソノブイを投下し、新兵器のMark24音響魚雷を発射した。23時50分、音響魚雷を受けて伊52は損傷を負う。翌23日午前0時54分、新手のアベンジャーが1機出現して音響魚雷を発射。これが致命傷となったのか、午前2時13分に水中から破壊音が轟いて伊52は撃沈された。乗組員95名、便乗者14名、ドイツ水兵3名全員死亡。陽が昇った後、護衛駆逐艦ヤンセンとヘイバーフィールドが現場に到着。海面には油膜と漂流物が漂っており、2隻は撃沈の証拠となる漂流物(1トンの生ゴム、ゴム製サンダル、黒い絹の釣り糸など)を回収。
伊52が撃沈されたとは知らずに7月31日、海軍関係者がロリアンへ出迎えに行ったが、連合軍の進撃が性急だったため僅かな滞在で引き返している。到着予定日の8月1日、M級掃海艇3隻とT級魚雷艇1隻が伊52護衛任務のため待機。しかし如何なる連絡も応答が無かった。ロリアンのドック内には真空管、T-5音響魚雷、1000ポンドの酸化ウラン、爆撃照準器、光学ガラスなど伊52用の物資が用意されている。8月2日、日本海軍はビスケイ方面で喪失と判断した。それでも生存を信じて8月8日、ベルリンの小島少将は伊52に対しロリアンへの入港は危険なのでノルウェーへ向かうよう指示を出している。8月30日、ドイツ海軍は7月25日にビスケイ湾で伊52が沈没したとの推測を発表した。
1995年5月3日、アメリカ人チームがカーボベルテ諸島沖で沈む伊52の残骸を発見。調査によると、伊52潜の艦内から金の延べ棒が無くなっていたという。
1943年2月8日、U-180はブレストを出発。艦内には訪日を望むインドの独立運動家スバス・チャンドラ・ボースと秘書ハッサンが乗っており、二人を伊29潜に渡すのがU-180の任務である。3月3日、補給艦U-462と接触し、燃料と物資の補給を受ける。4月18日午前3時56分、喜望峰沖でイギリスの商船を撃沈する戦果を挙げる。
4月20日、マダガスカル島南方約300kmの地点で伊29潜と合流。天候不良によりボースの移乗には数日を要した。その間に武器や新発明品の交換が行われたという。伊29潜からはドイツに向かう技術士官2名と代金代わりの金の延べ棒50本が乗り移った。その後、U-180は補給艦を撃沈されたり、イギリス軍機に襲われたりと散々な目に遭ったが生還。伊29潜も無事に生還し、ボースは日本にやってくる事になった。
ヒトラー総統が日本に無償譲渡したIXC型Uボート。当時IXC型は新型であり、ヒトラー総統の太っ腹っぷりが窺える。26歳の若手艦長であるフリッツ・シュネーヴィント中尉率いるドイツ人乗組員は、このU-511を日本本土まで回航するのが任務である。またU-511には帰国命令に伴って駐独海軍武官の野村直邦中将や杉田保軍医が便乗していた。出港スケジュールを巡って、ベルリンの大使館と外務省が早口の鹿児島弁を使用し連合軍を混乱させた小話が有名である。
1943年5月10日13時、軍楽隊が奏でるドイツの歌と君が代に送られながらロリアンを出発。3万kmの長旅に臨んだ。ロリアン港外に出るとU-511は潜航していった。10日後にはアゾレス諸島を通過し、喜望峰沖300海里の暴風圏を突破。6月下旬にインド洋へ到達し、道中でアメリカ商船2隻を狩って、7月15日にペナン基地へと入港。ここで野村中将ら便乗者は下艦し、空路で本土を目指した。性能調査と道案内役を務める奥田増蔵大佐以下4名が乗艦し、7月24日に出発した。補給の際、U-511に重油を入れてしまったため後々苦労したという(Uボートの燃料は軽油)。7月29日、南シナ海で高雄発シンガポール行きのヒ3船団と遭遇。見慣れない塗装と形状をしていたため、護衛の海防艦から誤射を受けてしまう。奥田大佐は手旗信号や日章旗を振りかざすなどして味方である事を訴え、臨検してきた海防艦択捉に事情を伝えた。無事解放されたU-511は、8月6日に呉へ入港。無事日本海軍に引き渡され、呂500潜と命名された。
ちなみに呂500潜を解析した結果、日本の技術力では量産不可と判断されている。
伊30潜の沈没によりウルツブルクレーダーの現物を入手できなかった日本海軍は、ベルリンの海軍武官を通じてドイツ海軍に協力を要請。ドイツを通じて今度はイタリア海軍にお鉢が回り、テレフンケン社の技術者ハインリッヒ・フォーデルスと電波兵器専門家の佐竹金次陸軍中佐が日本に向かう事になった。またレーダーの図面や資材も積載され、撃沈対策にルイージ・トレッリとバルバリーゴの2隻が投入された。
1943年6月16日、ルイージ・トレッリはボルドーを出発。連合軍の哨戒網を突破し、8月26日にスマトラ島北方のサバンに到着した。しかしバルバリーゴは6月24日に英哨戒機に捕捉され、モロッコ沖で撃沈されてしまっている。こうしてルイージ・トレッリだけが東南アジアに到達したが、直後の9月9日にイタリアは降伏。艦体はドイツ軍に接収され、乗組員は拘禁。その後、新たに樹立したイタリア社会主義共和国につくか、連合軍に下ったイタリア王国につくかの二択を迫られ、王国に忠誠した者は収容所送りとなった。前者を選んだ者は解放され、潜水艦の乗組員に復帰した。しかし定員を割ってしまったので、ドイツ人と合同で運用されたという。
ヒトラー総統から無償譲渡するUボートIXC型の1隻。こちらは日本人回航員によって本土に回航する事になっており、伊8潜が要員60名を運んできている。1943年10月20日から1944年2月15日にかけて、バルト海でドイツ海軍から操艦技術を学んだ。3ヶ月の訓練期間を終えると、いよいよ日本に向けて回航する時が来た。メッサーシュミットMe163の設計図やエンジン、IX型Uボートの資材などを積載し、出港準備を整えた。この間に日本海軍へ編入され、呂501潜に改名された。
3月30日、キール軍港より出発。大西洋を南下し始めた。しかしすぐにアメリカ軍のハンターキラーグループに捕捉され、1隻の護衛空母と6隻の駆逐艦から追い回される。2日間の潜航を強いられた呂501潜は無電で「追跡されている」と報告したが、高周波方向探知装置を搭載していたアメリカ軍には筒抜けで、正確な位置を掴まれてしまう。5月13日、カーボベルデの西北西で護衛駆逐艦フランシス・M・ロビンソンのヘッジホッグ攻撃を受けて撃沈された。乗員56名は全員死亡。まだ大西洋からも出ていなかった。
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