郤正とは、三国志に登場する人物である。
字は令先。元々は郤纂という姓名だった。本籍は河南郡偃師(河南省偃師市)。
祖父の郤倹は益州刺史だったが失政が目立ち、黄巾族の残党を称した馬相らに殺害された(この時の益州の混乱に前後して劉焉が益州に入り、独立政権を築くことになる)。
父の郤揖は孟達に従って営都督となり、孟達が魏に降った時に随行して中書令史となったが、郤正が幼い頃に亡くなっている。そのため郤正の母は別の人物と再婚し、そのせいもあり郤正は幼い頃から学問に励み古典を読み尽くし、名文章を書けるようになった。
やがて20歳になって出仕し、秘書吏、秘書令史、秘書郎、秘書令を歴任した。 郤正は蜀漢の政治を牛耳っていた宦官の黄皓と隣同士の屋敷に住んでいたが、黄皓から迫害も受けなかったが特に取り立てられることもなかったという。
263年(炎興元年)、劉禅が攻めてきた魏軍に降伏するとき郤正は降伏文書を書いた。そして劉禅が洛陽に移送された時妻子を追いて随行した。安楽公に封ぜられた劉禅は郤正の補正を受けて落ち度無く振る舞うことが出来たため、郤正を早く認めるべきだったと後悔している。
魏が西晋に禅譲すると安陽県令、巴西太守となり、278年(咸寧4年)に没した。
正史の郤正伝には彼が書いた『釈譏』という対話形式の文章が掲載されている。
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8 ななしのよっしん
2021/11/29(月) 21:22:43 ID: uwSpNu/Ti2
黄権が劉備が死んでも祝賀に行かなかったからって出世はするし、孫晧が司馬炎にやり返したからって何かされるわけでもないし
現代ならともかく当時じゃ処世術にはとても・・・
9 ななしのよっしん
2022/06/11(土) 00:16:21 ID: xLkPQhmDPg
『司馬昭の宴会エピソード』は本当に謎。これ本当にあったの?
このエピソードが事実なら、「郤正の補佐によって落ち度なく振る舞うことが出来た」と矛盾する(落ち度があったことになってしまうから)。
それに劉禅の二度目の返事を聞いた司馬昭が「人はここまで無情になれるものなのか」と述べているが、劉禅は郤正の忠義を目の当たりにし、彼を評価するのが遅かったと悔やんでいる。本当に救いようのないアホなら自分を省みることすらできないだろう(「劉禅は無情な人」と矛盾する)。
あと司馬昭、もうちょっとで死ぬのに宴会やってるとか余裕そうだな…。
勿論、人間は多様な側面があり、物事が起こるタイミングもあるから、『絶対になかった』とは言えないが…。
10 ななしのよっしん
2024/03/19(火) 15:08:21 ID: 2dc7GnJkn0
>>7
それな
>>8
司馬昭って曹氏一族だけじゃなくて、臣下もかなりの数殺してる
一方で父や兄の様な頭がキレるタイプじゃないので、保身の為に無能のフリをするのは(芝居を見抜けないので)理に適ってる
それに比べると曹丕は陰湿なエピソード多いけど、気に入った人には甘い(孟達とか)し、司馬炎に至っては、祖父、伯父、父の冷酷無比な様と比べると、驚くほど寛大だったからね
相手によって処世術も変わるんだよ
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最終更新:2024/04/20(土) 08:00
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