鄧賢 単語

トウケン

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「鄧賢(トウ賢)」(トウケン ? ~ ?)とは、後漢末期の武将であり、劉璋配下として劉備と戦った人物である。

同じく劉璋配下で劉備を招きいれた孟達の配下にも同名の人物がおり、正史の上では同一人物と見なしても問題いが明示はされていない。

※ちなみにヤンキー正史と正反対な演義の描写で知られる徐州のボスは「陶謙(トウケン)」である。


この記事の本来の表記は「鄧賢」ですが、「」の字が表記できないブラウザを考慮して、
「トウ賢」と記述する場合や「鄧賢(トウ賢)」と併記する場合があります。

正史では

劉璋配下の武将として登場する。

張松法正孟達らの導きでの地を奪わんとする劉備が涪を占拠した際に、呉懿劉璝劉カイ)・冷苞張任らと共に涪に派遣された。

劉備軍に敗れた後は、に立てこもったところで歴史から姿を消した。

その後、関羽を見殺しにしたとされてへと投降していた孟達が、再びに戻らんとして反乱を起こした際に、孟達の甥として再登場した。

司馬懿と裏で通じていた鄧賢(トウ賢)は、門を開いて叔父の反乱を妨したところで、再度歴史から姿を消した。

※間が15年程ある為、別人説もあり、生年日が不明なこともあって同一人物か別人かを決定的とする拠はいが、三国志演義では、一度殺しておいて再登場しているところを一部翻訳では修正されていたりする。

演義では

劉璋配下の武将として登場する。

の地を脅かし続ける張魯を恐れた劉璋劉備を招き、龐統ホウ統)に命じられた魏延が、宴席の際に舞と称して劉璋り殺さんとした時に、張任らと共に舞の相手を始めて事きを得た。

劉備の侵攻を開始して高沛楊懐って涪関を奪うと、劉循呉懿張任冷苞・鄧賢(トウ賢)・呉蘭雷銅雷同らと共に涪ではなく雒に入って防戦したが、「番兵をって逃げてきたのよ」で知られる冷苞と共に外にを築いて待ち構えていたところを、抜け駆けを画策した魏延の攻撃をうけ、魏延を後一歩まで追い詰めたところで現れた黄忠百発百中をくらって射殺された。 

その他「鄧賢(トウ賢)」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照exit

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関連データ

コーエー三國志シリーズにおける鄧賢(トウ賢)の力一覧。

統率 政治 身体 運勢
三國志 33 59 30 74 30
三國志II 51 62 78
三國志III 69 65 70 60 66 25
三國志IV 64 69 66 70 61
三國志V 68 61 61 67
三國志VI 65 59 61 65 66
三國志VII 62 33 46 51
三國志VIII 72 41 36 48
三國志IX 67 72 49 38
三國志X 63 70 45 36 49
三國志11 61 73 45 36 51

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