「酒井忠次」(さかい・ただつぐ 1527~1596)とは、戦国時代の武将である。小平次、小五郎、左衛門尉。
徳川家康に仕えて軍事・外交で活躍し、家康の事業を支えた。その功績を後世の人々に讃えられて徳川四天王、徳川十六神将の筆頭格に選ばれた。
正室は碓井姫(徳川家康の叔母、光樹院)。
松平広忠、徳川家康に仕えた。
家康が戦国時代に経験した主要な合戦のほぼ全てに参加し、優れた部隊指揮で勝利を重ねた。
諸勢力との交渉も担当し、徳川家の勢力拡大と維持に努めた。行政でも功績を挙げた。
その働きぶりは織田信長や豊臣秀吉からも賞賛された。
後に秀吉の要望で京都に留まって生活し、現地で亡くなった。墓は京都の知恩院にある。
晩年も子宝に恵まれて、子孫は徳川譜代の名門として繁栄した。
酒井忠次は徳川家臣団の重鎮でしかも活動期間が長く、子孫は江戸時代全期を通じて繁栄したため、多くの史料が酒井忠次に関する記述を残した。
信憑性が疑わしい話もあるが、酒井忠次の人物像は概ね以下のようなものである。
・『海老すくい』の踊りが得意で、軍議や外交の席でも披露して出席者の緊張を和らげた。
最高位の重臣でありながら気さくに振る舞う人物だったとされる。
・天下人になった信長や秀吉でも、酒井忠次と会う時は気を遣った。
逆に酒井忠次は彼らの前でも平然としていた。
・武勇に優れ、甕通槍という槍を振るって活躍した。
酒井忠次が着用したと伝わる鎧は現存しており、どれも派手な意匠である。
・酒井忠次が遠江の宇津山城を攻略した時の話。
城主の小原鎮実は城から逃げる際、酒井忠次を殺害しようと倉庫に爆薬を仕掛けていた。
罠は作動したが火薬の量が足りなかったので、爆音に酒井忠次たちは驚いたが無傷で済んだ。
・三方ヶ原の戦いで徳川軍が武田軍に大敗した時の話。
城に戻った酒井忠次は太鼓を打ち鳴らして城兵を鼓舞し、家康を出迎えて励ました。
さらに城門を開け放ち、篝火を焚くよう城兵に指示した。
接近した武田軍は、浜松城の無防備な様子を見て不気味に思い、戦わずに引き上げた。
・長篠城の傍を流れる豊川は三河国を潤す重要な河川だが、当時は洪水が頻発していた。
1570年、酒井忠次は豊川の用水路を作る工事を行った。
長篠の戦いでは、酒井勢は豊川を渡り奇襲を成功させた。
・長篠の戦いの後の話。
功労者の酒井忠次を信長は絶賛し、「まるで背中に目がついているようだ」と言った。
・娘の於虎の話。三河の有力な国人衆の牧野康成は、於虎を嫁に貰いたいと酒井忠次に申し入れた。
酒井忠次はすぐに断った。不思議に思った家康が理由を尋ねた。
忠次「牧野は勇猛で優れた武将です。いずれ謀反して三河を奪いかねません」
家康「それほどの人物なら、忠次の与力にして活躍させよう」
酒井忠次の娘婿になった牧野康成は長篠の戦いなどで活躍したので、牧野家は繁栄した。
・遠江の諏訪原城を攻めた時の話。
城を見下ろす火剣山に砦を築いた酒井忠次は狼煙を使うことで、城に篭る武田軍を混乱させた。
・徳川家が甲斐を制圧した時の話。
家康は「武田家に仕えた者たちを、忠次の寄騎にしよう」と考え、酒井忠次に相談した。
酒井忠次は断り、家康が期待を寄せる若手の井伊直政の寄騎にすることを勧めた。
この話を聞いた榊原康政が、半数は自分の寄騎にして欲しいと訴えた。
忠次「寄騎の件は俺に付けるという話で、その俺が井伊を殿に推薦したのだから、口を挟むな」
酒井忠次に諭されて、榊原康政は諦めた。
・徳川家が秀吉の命令で関東に転封されると、酒井家は3万7千石の大名になった。
本多忠勝・榊原康政・井伊直政は10万石以上の大名になった。
酒井忠次はすでに隠居していたが、家康に酒井家の石高を増やすよう訴えた。
この時、家康は「おまえも我が子は可愛いか」と皮肉を言った。
かつて家康の息子信康が織田信長に疑われて切腹させられた際、織田信長に会いに行った酒井忠次は、徳川信康を助けようとしなかった。
酒井忠次は自分の過ちを恥じて、引き下がった。
<松平家の家来>
酒井家の家伝に拠れば、酒井家と松平家は同じ先祖を持つ親戚とされる。
酒井忠次は幼い頃、松平広忠(徳川家康の父)に仕えて小姓を務めた。
松平広忠が親族に圧迫されて伊勢国(三重県)へ亡命した時は、酒井忠次もお供した。
その後に三河へ帰還した松平広忠が今川家の支援を受けるために幼い息子・竹千代(家康)を今川家の本拠地・駿河国へ人質に送ると、酒井忠次は竹千代に同行した。
<酒井家は松平家と同格>
ところが酒井忠次が松平広忠に仕えたとされる1530年代~40年代の松平家は、分裂して一門同士で抗争を繰り返していた。
そして酒井家自体は松平家と並ぶ有力な国人衆でもあった。
ただし酒井家と松平家の勢力は三河中西部に限定されており、あくまでこの地域の有力者だった。
また竹千代のお供衆の中に酒井忠次の名前は無く、名前があるのは酒井雅楽頭家の人物だった。
(酒井忠次が属する左衛門尉家とは近しい親戚だが、別系統)
雅楽頭家が松平家の傘下で活動した一方で、左衛門尉家の酒井忠次は下記のように自立した国人として行動した。
1540年代に尾張国の織田信秀が三河へ侵攻すると、酒井忠次は織田家に味方して松平広忠(今川家を支持)と敵対。
1549年の上野城合戦で酒井忠次は上野城(織田方)の支城である上野端城に籠城し、今川軍と戦った。
この合戦は今川軍の勝利で終わり、酒井忠次は今川家へ鞍替えした。
同年に松平広忠が死去すると、跡継の竹千代がまだ幼かったため、今川義元は代官を派遣して松平領を統治させた。
この代官たちの中に酒井忠次もいて、1552年には岡崎奉行の一人として活動していた。
遡って1549年には三河の国人がある案件で今川義元から「酒井忠次に相談せよ」と指示を受けた。
酒井忠次は駿河へ行かず三河に留まり続けたのかもしれない。
1560年、桶狭間の戦いで今川義元が敗死。
この合戦で家康(当時は松平元康)の叔母である碓井姫の夫も戦死した。
未亡人となった碓井姫は酒井忠次に嫁いだ。
この婚姻によって酒井忠次は家康の親族になった。
徳川家康は松平一門を含む多数の三河国人衆を酒井忠次の与力(部下や下位の協力者)にした。
さらに後述の北条氏康(関東の有力大名)からの書状の内容と併せて考えると、酒井忠次は家康の強力な後ろ盾だった可能性が考えられる。
桶狭間の戦い後、家康は岡崎城へ帰還して今川家の代官たちから城を受け取り、しばらくの間は今川家に味方して活動した。
家康の後見人として、有力国人で岡崎の代官も務めた酒井忠次は適任だったのかもしれない。
<三河衆の寄親>
1565年、酒井忠次は今川家の東三河の最重要拠点だった吉田城を攻略。周辺の城砦も攻略し、家康から所領の加増を約束され、この地域の統括を任された。
今川家に従っていた牧野家(現地の有力な国人)などが酒井忠次の与力(下位の協力者)となった。
1570年、徳川家康は本拠地を三河の岡崎城から遠江(静岡県西部)の浜松城へ移し、岡崎城は幼い息子の徳川信康に預けた。
家康が遠江へ移った結果、岡崎周辺の松平一門を含む三河東部以外の地域の国人たちも、酒井忠次を通じて家康から軍事の指示を受けるようになった。
それまでも酒井忠次が彼らを率いて戦うことがあったので、自然な人事だった。
近くはない浜松から大雑把な指令を投げられるだけでは三河衆が困るので、三河に留まった酒井忠次が酒井家の家臣や与力を国人衆の元へ派遣して彼らに詳細な説明をさせたのだろう。
『家忠日記』にはそのような役割をした人物がいたことが記されている。
国人たちが仕えた相手は家康で、酒井忠次は三河における家康の代理人だった。
ただし地侍の中には酒井家と行動を共にする内に酒井家の家臣になる道を選ぶ者もいた。
三河衆―酒井忠次ー家康、という情報伝達系統が構築されたが、いつもこの経路で指示や報告が送られるわけではなかった。
浜松から三河衆へ直接指示を飛ばすこともあれば(後述する信康事件の時など)、酒井忠次が遠江に出陣中で三河に不在の時は石川数正(岡崎城にいた徳川信康の重臣)から三河衆へ指示を伝えることもあった。
臨機応変、柔軟に対応したわけだが、それを可能にしたのが日頃からの人付き合いと参陣した相手への気配りだった。戦国時代はコミュ力が高くないと生きていけない過酷な時代だった。
『家忠日記』には三河武士たちのそのような活動も記されている。
苦境の時も徳川軍を支えた酒井忠次と三河衆の底力は、そうして培われたのかもしれない。
三河国人衆の協力を受けて活動した酒井忠次は、三河衆が報われるようにする義務があった。
四天王の他の三人――本多忠勝、榊原康政、井伊直政は徳川家の旗本軍団を率いて家康の本拠地浜松で勤めたが、酒井忠次は彼らとは全く異なる立場と経歴の人物だった。
<閑話>
酒井忠次が他の三人と特にトラブルを起こした話はない。例外は上記の井伊直政の与力に関する人事である。
この逸話自体が徳川家や井伊家に多数仕えた武田家旧臣の子孫による先祖顕彰の創作話のようだが、酒井忠次や井伊直政の当時の立場やその後を考える上で参考になる。
徳川家康は旗本先手役(直属軍団)の武将たちを、勢力拡大の度に地方に赴任させた。上記逸話の時期は駿河(静岡県東部)、信濃(長野県)、甲斐(山梨県)を獲得し、武将たちを現地へどんどん送り出した。
井伊直政も甲斐国に赴任した。逸話の経緯が無くても、武田家の旧臣たちが井伊の家臣や部下になるのは自然なことだった。
そして家康の本拠地である浜松に残った先手役の主要武将は、本多忠勝と榊原康政だけとなった。家康が最も信頼した側近二人ということになる。
こうした事情を踏まえると、先の逸話で酒井忠次が武田家旧臣を与力にすることを断ったのは、単に住み慣れた三河(故郷)を離れて甲斐国へ転勤するのを嫌がったからではないか、とも考えられる。
そして身代わりに井伊直政を推薦
→後輩(井伊)を心配した榊原康政が、「与力の半数は某に(=俺も甲斐に行って仕事する)」と家康に談判
→榊原まで転勤すると浜松軍団のまとめ役が本多忠勝だけになってしまい、本多の負担が倍増
→酒井が榊原を説得
という三河の田舎侍が名将たちが甲斐国をド田舎扱いという武田家も支配に苦労した土地の人事を巡って熾烈な駆け引きを行う一幕があったかもしれない。
ちなみに酒井忠次は晩年、京都で暮らして京都で亡くなった。
福谷城は今川家と織田家の勢力圏の境にあった。
酒井忠次は松平竹千代(徳川家康)のお供の役目を終えて三河へ戻り、しばらくして福谷城の城将を務めた。
1556年春、尾張国から織田家の柴田勝家が率いる織田軍が福谷城に襲来。酒井忠次は籠城して城を守り抜き、松平家に従う(実際は今川家に従う)三河の国人衆が救援に駆けつけて織田軍を撃退した。
福谷城の戦いでは、当時は織田信勝(信長の弟)の家老だった柴田勝家だけでなく、織田信長の家臣も参戦した。
この戦いに関する記録は後年に徳川家側が残していて、「敵もよく戦った。だが三河衆は死力を尽くして強敵を撃退し、大きな戦果を挙げた」という内容になっている。
同じ年、尾張国では織田信長、信勝兄弟が稲生の戦いで激突した。
稲生の戦いの背景としては信長の後ろ盾だった美濃の斎藤道三が同年戦死したことが挙げられるが、福谷城の敗戦が影響を与えた可能性も考えられる。
「福谷城の敗戦を機に、織田兄弟は対立を始めた。織田家の力だけでは今川家に対抗できないと判断した織田信勝は斎藤義龍を後ろ盾にしようと考えた。そこで斎藤義龍と争う兄信長を排除しようとした」
というものである。
福谷城の戦いについては戦果が誇張された疑いもあるが、いずれにしても当時の酒井忠次は今川義元から最前線の城を任されるほど期待され、そして織田軍に勝利した武将だった。
(ただし当時最前線の城の守将は複数の武将が務める場合が多かった)
日本史の教科書に載っているこの合戦でも酒井忠次は活躍した。
合戦に到る経緯と戦後の影響については、「長篠の戦い」の記事を参照のこと。
<酒井忠次の防戦>
1572年
武田信玄が大軍を率いて徳川領へ侵攻。三方ヶ原の戦いで徳川軍と武田軍が決戦。
三河から来援した酒井忠次の軍勢が奮闘したが、結果は徳川軍の惨敗。
酒井勢が強すぎて他の部隊が追随できず、連携の間隙を武田勝頼の部隊に突かれて負けた可能性も。合戦の詳細は軍記物で大幅に盛られた疑いはあるが。
1574年
遠江北部で行われた犬居城の戦いで徳川軍が敗北、大打撃を受けた。
遠江東部の高天神城を武田軍が包囲。家康が率いる浜松の軍団は動かず、酒井忠次と三河衆が織田軍と合流して救援に向かうが、間に合わず高天城は開城。
(浜松の軍団は犬居城の戦いの損害で、単独では武田軍主力に対する牽制も出来なくなっていたか)
1575年
1月 徳川家の奥平信昌が長篠城の城主に赴任。
3月 織田家から重臣の佐久間信盛が兵糧を輸送して徳川家に譲渡。
3月下旬 武田軍が三河北部の足助方面へ出兵。織田信忠(信長の子)が濃尾の軍勢を率いて牽制。
4月 織田軍主力が河内・和泉(大阪府)へ出陣、三好家と対決。織田軍が勝利したが、戦後処理で4月末まで費やす。
4月 武田軍が吉田城(酒井忠次の居城)を攻撃
5月上旬 武田軍が長篠城を攻撃
1575年3月下旬、三河北部に出兵した武田軍はさらに南下し、三河東部の最重要拠点である吉田城の攻略に向かった。
酒井忠次は城から出撃して、武田軍の山県昌景隊と激突した。
徳川家康は自ら軍勢を率いて吉田城の救援に向かい、その動きを知った武田軍は吉田城攻略を諦めて北上、長篠城へ向かった。
当時の武田家の戦略は下記の二つを方針にしていた可能性が考えられる。
・織田軍主力の不在を突いて織田家と徳川家の版図を削り取る。
・織田、徳川の重要な城を包囲することで、織田軍主力の攻撃を受けている同盟勢力を救援する。
1575年3月に三河へ侵攻した武田軍はおそらく様子見で、4月に入って織田軍主力が畿内へ向かったのを知った武田家は急いで大軍を動員して徳川領の分断あるいは三好家の救援を狙ったとみられる。
吉田城の戦いがこの年の出来事なら、千載一遇の好機を掴んだ(同時に協力者である三好家の危機に際して)武田軍は全力で吉田城を奪いに来たはずで、酒井忠次はそのような敵と戦って城を守り抜いたことになる。
酒井忠次は吉田城を守ったことで徳川領の分断を阻止した。
結果として織田信長が三好家を降伏に追い込むまでの時間を稼いだことにより、大局では信長包囲網の解体に貢献した。
※ただし吉田城の戦いは別の年に起きた戦いが混同された可能性もある。
<開戦>
武田軍が長篠城を攻撃すると、酒井忠次は織田・徳川連合軍に合流して現地へ向かった。
連合軍が到着した時点で武田軍はすでに長篠城の周囲に砦群を築いていた。
織田・徳川連合軍はすぐに武田軍陣地を攻撃しようとせず、長篠城の西にある設楽原に布陣。地形を利用して堅固な陣地を構築し、さらに土地の起伏を利用して大軍を後方に隠した。
その2日後に武田軍の主力が長篠城の西を流れる川を渡ったが、連合軍の陣地を攻撃しようとはせず、連合軍と同様に谷を利用した陣地を築いて篭った。
こうして両軍の睨み合いが始まった。
<徳川・織田連合軍と武田軍の布陣場所>
連合軍 川 武田軍 寒 医王山 宇
川 狭 連 鳶巣山←酒井勢
川 有海村 川 長篠城 川
船着山(酒井勢が南側を迂回)
北
西 東
南
※有海村には、『信長公記』では徳川・織田連合軍の別働隊が布陣。『甲陽軍鑑』では武田軍の高坂昌澄が守備した。
<状況>
一方、長篠城は兵糧庫を武田軍に焼かれて追い詰められていた。
武田軍は長篠城から川を挟んで東にある鳶巣山に五つの砦を築いておよそ二千の将兵を置き、長篠城から地続きで北にある医王寺付近、長篠城の西の有海村などにもそれぞれ軍勢を配備した。
武田軍は連合軍の襲撃に対する備えを怠らなかった。
<奇襲作戦>
酒井忠次はその鳶巣山を敢えて奇襲する作戦を軍議で提案し、信長に一旦却下されたが採用された。
(この部分は各史料で食い違いがある)
奇襲の指揮官を任された酒井忠次は、与力の松平一門や西三河衆・東三河衆、現地の土地勘がある北三河衆、さらに家康の旗本衆、織田軍から参加した金森長近らの軍勢を加えた四千人を超える部隊を編制した。
(以後の記述では酒井勢とする)
酒井勢は深夜に出陣、武田軍に察知されないよう長篠の南にある豊川と山を大きく迂回して進軍し、鳶巣山の東側へ回り込んだ。
そして夜明けと共に武田軍の複数の砦を襲撃した。
現地の武田軍は善戦したものの、酒井勢の猛攻撃を受けて壊滅した。
敗北した砦の残存兵が西の川(宇連川)を渡ると、酒井勢も川を渡って追撃を行い、長篠城に入城。
城の守備軍と一緒に出陣し、陸続きの北の武田軍陣地を攻撃して占拠。
『信長公記』に記された酒井勢の活躍はここまでだが、『甲陽軍鑑』などには続きがある。
敗走した武田軍は長篠の西を流れる川(寒狭川)を渡って友軍への合流を図ったが、酒井勢も川を渡って追撃を続けた。
酒井勢は西岸の有海村の武田軍陣地を攻撃、武田軍の高坂昌澄(高坂昌信の子)を戦死させた。
なおも追撃を行った酒井勢は、小山田備中守(武田軍)の軍勢から反撃を受けて、酒井勢の主力を担った松平伊忠が戦死した。
<酒井勢が進撃した結果>
連合軍 川 武田軍 寒 医王山 宇
川 狭 連 鳶巣山
川 有海村 川 長篠城 川
豊川~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~豊川
前日の深夜行軍から始まった酒井勢の戦いは、後に『長篠合戦図屏風』(の端)に描かれた。
『信長公記』では、酒井勢の進撃を見届けた織田信長が連合軍に総攻撃を指示。
織田軍の動きを見た武田軍は、陣地から出陣して織田軍を迎撃した。
長篠合戦で連合軍の勝因は「鉄砲三段撃ち説」や「野戦築城で迎撃説」など諸説あるが、『信長公記』の記述を読む限りでは酒井勢の進撃こそが最大の勝因である。
支軍を潰された武田軍は決戦を挑むか撤退するしかなかったが、撤退にも準備の時間が必要なので、武田勝頼たちがどちらを選んだにせよ、前に出て連合軍に対処する必要があった、と考えられる。
一方、武田勝頼が戦後に傘下の国人に宛てた書状や『甲陽軍鑑』では、武田軍の方が連合軍の陣地へ攻め寄せた。
食い違いはあるが、武田軍が出陣して連合軍と武田軍の対決が行われた点は共通している。
長篠周辺は山あり谷あり川ありと狭く複雑な地勢で、大軍を展開して活かすには不向きな土地だった。
『信長公記』によると、信長は織田軍主力陣地の後方に大軍を置いて武田軍から隠した。
これは過剰配備だった。
信長は大軍を敵に見せつけ、一部を割いて北に向かわせ初めから武田軍の退路を脅かす、という戦術を採らなかった。
連合軍の着陣を見た武田軍は、主力が西へ移動した。
ただし武田軍はすぐに釣られたわけではなく、慎重に行動した。
前年にも武田軍が織田軍に決戦を挑む機会はあったが、武田軍はいずれも見送った。
武田軍主力は二日間様子見をしてから、織田軍の前進を阻みやすい土地へ移動した。
長篠城の北は川に挟まれている上に山がちな土地で、武田軍主力もそこに篭ったままでは過剰配備だったと考えられる。
武田軍は東の守備を崩さなかった。
数日待って長篠城が陥落すれば、武田軍は「連合軍は武田軍を恐れて、目の前の長篠城を見殺しにした」という喧伝材料=戦果を挙げて引き揚げることもできた。
前年に武田家の同盟者だった伊勢国の長島願証寺が(高天神城の救援から戻った)織田軍の総攻撃で壊滅、長篠合戦の前には三好家が織田軍主力の攻撃を受けた。
(三好家が織田家に降伏したことを武田家が知っていたかどうかは不明)
信長包囲網の挽回のために、当時の武田家は冒険する必要があった。
そして武田軍主力の移動が、武田軍の敗因となった。
ただしこれは酒井勢が、武田支軍がしっかり守っていた東側の拠点を制圧したから、結果的にそうなったのである。
もし酒井勢が敗退していたら、織田軍の布陣と数日の対峙は裏目に出てしまっただろう。
戦いの流れが信長の計算通りだったとしたら、織田軍が過剰配備された時点で奇襲作戦は練られていて、それは酒井忠次という名将の存在を前提に立案・実行された作戦だったかもしれない。
信憑性に疑いはあるが、酒井勢は鳶巣山を攻略する際、危険を冒す戦術を採った。
「酒井勢は現地に到着し夜明けを迎えると、鳶巣砦の近くで鉄砲を撃ち鳴らした。
軍勢を複数の部隊に分けて他の砦攻略に向かわせた。
銃声を聞いた鳶巣山の他の砦は、鳶巣砦を救援するために砦の守備軍を割いて急派した。
各砦の援軍を得た鳶巣砦の守備軍は、出撃して酒井勢を攻撃。
分隊派遣で人数が減っていた酒井勢は、本陣にまで攻め込まれて窮地に陥った。
しかし分隊が手薄になった他の砦を攻め落として急いで戻り、本陣に合流。
酒井勢が勝ち、鳶巣砦も攻め落とした」
この話が事実なら、主将の酒井忠次も自慢の槍や刀を振るって必死に戦ったかもしれない。
『信長公記』では大活躍の酒井勢だったが、長篠の西側で行われた主力決戦が華々しいため、割を食っている。
ところがーー研究の進展により、長篠の戦いは戦場の東側、つまり酒井勢VS武田支軍こそが最も重要かつ勝敗を決めた戦闘だった、という説が知られるようになった。西側の主力決戦はぶっちゃけ消化試合に過ぎないというのである。
実は武田勝頼も国人衆宛ての書状で話題にしたのは東側の戦闘のことで、武田軍が出陣して敵陣へ攻め寄せたのも東側の戦闘のこととしている。
西側で惨敗してそれを隠蔽しようとしたのかもしれないが。
織田家サイドの史料である『信長公記』では先述の通り酒井勢の活躍が記されている他、鳶巣山をが極めて重要な土地であること、徳川軍も織田軍も多数の銃兵を割いて酒井勢に参加させたことが記されている。
繰り返しになるが、
西側の主力決戦は、酒井勢の進撃を見届けた上で信長が連合軍に出陣を指示。
押し寄せる織田軍に対し、武田軍は勇敢にも出陣して迎撃しようとしたが、織田軍から銃撃を受けるとあっさり敗走した。
つまり『信長公記』の記述を信じるなら、武田軍は西側では迎撃のはじめの内はまともに戦わなかったのである。
(各部隊が入れ替わりで織田軍を足止めし、逃げる準備のための時間稼ぎをしたと考えられる)
武田勝頼も『信長公記』(著者:織田家臣の太田牛一)も東側の戦闘を重要視したのだから、酒井勢が長篠合戦の主役だったと考えられる。
ところが、時代が下ると酒井勢は脇役にされてしまった。
しかし同時代の人々は酒井勢の活躍と成果を知っていた。そして長篠合戦の勝利は徳川家はもちろん織田家にも多大な貢献をした。
長篠合戦の後、目障りだった武田軍(と彼らに圧迫されて救援を求める徳川家)への対応から解放された織田軍は、
・美濃東部を武田家から奪還→濃尾の軍団が自由に動けるようになった→濃尾軍団が各戦線に出張って大活躍し、織田家の版図を拡大
・越前一揆をせん滅→北陸地方の征服を開始&余力ができたので中国地方にも侵攻
1575年以降の織田家の大躍進、そのきっかけの一つが長篠合戦だった。
つまり酒井忠次は、あの織田信長に物を言える武将だったかもしれないのだ。
<『三河物語』等の記述>
1579年、岡崎城を預かる徳川信康(家康の長男)が、家康の命令で身柄を拘束されて切腹した。
その少し前の時期に酒井忠次は安土城へ行き、織田信長(時の天下人。徳川信康の舅)に会っていた。
信長と会った際、信長から徳川信康の行状について問い詰められた酒井忠次は回答できなかった。
または、酒井忠次は徳川信康と仲が悪く、信康を陥れた。
織田信長は徳川信康を自害させるよう家康に命令し、家康は徳川家を守るために泣く泣く息子を切腹させた。
<異説>
この事件は徳川家の内部分裂など諸説が提唱されている。
また家康は信康だけでなく信康に仕えた重臣・側近・小姓まで粛清し、彼らの中には織田信長が亡くなり織田家が衰退したあとも不遇だった者達がいた。
原因が信長からの圧力や酒井忠次の陰謀ではなかったとしたら、酒井忠次の行動は全く違うものだったと考えられる。
「徳川信康を助けるために家康は酒井忠次を派遣して弁明させようとしたが、酒井忠次は信康を助けなかった」
ではなく、
「信康一派の処分を考えた家康は、信康の舅である織田信長が介入することを阻止するために酒井忠次を派遣した。酒井忠次と話し合った信長は、事件に介入しなかった」
となり、酒井忠次は奸臣ではなく、家康の要求を時の天下人に呑ませた有能な外交官になる。
<織田家の対応>
『信長公記』(安土本)や事件後に家康が堀秀政(織田信長の側近)宛てに送った書状によると、家康は息子信康を粛清する許可を信長から得るために酒井忠次を派遣した。
酒井忠次は(家康の指示とはいえ)徳川信康の破滅に加担したのも事実だったと考えられる。
『三河物語』の記述は、著者大久保彦左衛門の「アンタなら悲劇を止められた筈だ!」という魂の叫びだったのかもしれない。
肝心の信長は「徳川殿のお好きにどうぞ(=俺を巻き込まないで)」とこの問題から逃げた。
<子孫の動き>
酒井忠次の子孫の内、出羽国(山形県)の庄内と松山をそれぞれ領有した二つの酒井家は、徳川信康を供養するために寺を建てた。
「やはり酒井忠次に罪があったのだ」と思われるかもしれないが、
・徳川信康に対する史料の評価が、江戸時代初期とその後では大きく異なる。家康存命の頃の史料の信康は暴君扱いで、『三河物語』以降は立派な人物として記された。
・信康事件も含めて酒井忠次を悪く書いた『三河物語』が後の時代の史書の参考史料に採用された。
(江戸幕府の公式史書である徳川実記の参考史料に採用されるほど権威のある書物だった)
・大久保彦左衛門は地方の大名に出世する話を蹴って江戸(政治の中心地)で暮らした。旗本の第一人者だった彼は牢人たちの再就職の斡旋に尽力するなどして名声があり、影響力が大きかった。
・酒井忠次の酒井家は忠次とその子の酒井家次の功績により、江戸幕府から敬意を払われた。大切にされすぎて、幕政に関わる機会がほとんど無かった→江戸で広報活動する機会が無かった。
家康の死後に行われた徳川信康の再評価と、その先駆けとなった『三河物語』の内容=酒井忠次の悪評が世間に広まり、庄内酒井家と松山酒井家は世間を憚って供養を始めた、という可能性も考えられる。
酒井忠次は外交でも活躍した武将で、織田家・今川家・武田家・上杉家・北条家との交渉で登場する。特に北条家とは、家康が今川家に反旗を翻した頃から北条家が滅亡するまでの長い付き合いとなった。
1561年に相模国の北条氏康が酒井忠次宛てに書状を出した。その内容はこの頃今川家と対立を始めた徳川家康を今川家に帰属させることを勧めるものだった。
1569年には北条氏政が酒井忠次宛てに、掛川城の件で感謝の書状を送った。
掛川城の件とは、今川氏真が籠る掛川城が徳川軍に包囲されて開城した際、城から出る今川氏真と今川軍将兵の安全を保証するために、酒井忠次が自ら今川軍の人質となったことを指す。
掛川城の開城から間もなくして徳川家と今川家・北条家の同盟が成立。
徳川家は彼らが起こした謀反で宿敵となった今川家とその後ろ盾の北条家、しかもそれまで戦っていた相手とすぐに手を結ぶという離れ技をやってのけた。
ちなみに1565年の吉田城の開城では、酒井忠次は彼の娘を人質として今川軍に送り、敵軍の安全を保証した。
酒井忠次は信用できる男、と今川家や北条家は見なしたのかしれない。
<武田包囲網>
徳川家と北条家は今川家の駿河奪還を支援して武田信玄と抗争を開始。さらに越後の上杉家を加えた四家が武田家に対する包囲網を結成した。
武田信玄は家康と同盟して今川家を攻め潰したのだが、家康は速攻で掌返しをしたのだった。
・遠江東部(大井川以東)まで版図を拡大
・今川家との同盟で、今川家を支持して徳川家に敵対した国人たちを傘下に収める大義名分を得た。
・東に北条家という強大な盟友を得た。
・武田領という新たな侵略先を見出した。
武田家の方はと言うと、息子を死なせた、何年も根回しをした、そうしてようやく手に入れた駿河を、山国甲斐の生命線となる海を擁する土地を、徳川・今川・北条軍の攻撃で奪われる結果となった。
徳川―武田の同盟交渉で働いたのが酒井忠次であり、武田家との抗争が始まった時期には上杉家と外交していた。
徳川家の主従は天下の名将武田信玄に煮え湯を呑ませた食わせ者だったのである。後で武田軍に報復されて痛い目を見たが。
さらに、徳川家のこの行動は、室町幕府の存続すら揺るがせた疑いがある。
当時、上方では将軍足利義昭と織田信長が、彼らが樹立した新政権に有力大名を支持者として取り込もうと躍起になっていた。
例として、将軍と信長は越前国の朝倉義景を京都へ招いて政権に参加させようとしていた。
そして新政権の支持者には、信長と家康の同盟者だった武田信玄も含まれていた。
武田信玄は徳川家の背信行為を信長に訴え、信長から家康を制裁――ではなく制止するよう求めた。
しかし当時朝倉家の策動への対処や新政権に敵対する勢力との抗争に忙しかった信長は、家康を制止せずこの問題から目を背けた。
やがて武田信玄は朝倉義景から誘いを受けて信長包囲網に参加。
この包囲網の参加者を信長が潰して回り、政権は有力者の支持集めから織田家一強の時代を迎えることとなった。
その過程で信長は当初味方だった多くの武将たちを攻め滅ぼす羽目になったが、そうした状況で織田家に味方し続けた徳川家は信長にとって特別な存在となり、信長は家康と酒井忠次に随分と気を遣うことになった。家康と忠次が撒いた種だったが。
・北条家の宿敵である房総半島の里見家が武田家と同盟し、北条家を攻撃して武田家を援護。
・信玄自慢の息子の武田勝頼が北条軍相手に無双。
・上杉謙信が北条家を助けてくれない。
・徳川家に従った遠江北部の天野家が武田家へ寝返り、三河北部の国人たちも天野に同調。
酒井忠次が手を出せないところで生じたこれらの事態が、徳川家を窮地に追い込んだ。
ただし今川家に忠実だった天野家や三河北部の国人たちが、今川家と同盟した徳川家から離反したのは、徳川家を信頼できないと判断したのかもしれない。
そして上手く同盟を結んだ筈の徳川家は、北条家や上杉家にまんまと利用された面もあった。
・北条軍は掛川城開城の二年前、里見軍と対決して大敗した。
酒井忠次と武田家の山県昌景の交渉を経て、徳川軍と武田軍が今川領へ同時侵攻したのはその翌年。
北条軍が当時今川家を救援できなかったのは、この敗北が尾を引いていたと考えられる。
つまり徳川家が今川家・北条家と同盟した時点では、北条家は徳川家が当てにしてよい相手ではなかったかもしれない。
・上杉家は、徳川・今川・北条が武田家と抗争している間に、関東や北陸で反上杉勢力を攻撃。
北条家の苦境に付け込んで版図を拡大するなど、包囲網を一番上手く利用した。
北条家はその後、上杉家と手を切って武田家と同盟。
これにより徳川家は自家の勢力のみで、駿河を再征服して強大化した武田家を敵に回す羽目になった。
(信長は放置していたら大炎上した徳川・武田問題から逃げ続けて、武田家が信長包囲網に参加して織田領に侵攻するまで、徳川家を助けなかった)
酒井忠次は北条家との交流で、北条氏規(北条氏政の弟)や北条家の重臣たちと書状の遣り取りをした。
北条家が武田家と同盟した後も、徳川家と北条家の交流は続いた。
<天正壬午の乱以降>
1582年、本能寺の変で織田信長が横死すると、徳川家と北条家が信濃国へ侵攻を開始。両家の軍勢は信濃と甲斐で交戦した。
国力・戦力は北条家が圧倒したものの、徳川軍は局地戦で勝利を重ねた。
酒井忠次は信濃攻略と北条家との戦いで活躍。
さらに徳川家の信濃支配の最高責任者を務める一方、北条家との交渉と甲斐国の政務にも参加した。
両軍は甲信だけでなく東海道では互いの所領へ侵攻して激しく戦っていたが、間もなく徳川家は格上の北条家を相手にほぼ対等の条件で和睦。
さらに同盟を締結、婚姻関係を結ぶところまで話を進めた。
同盟を結んだ結果、家康は背後を気にせず全力で羽柴秀吉(豊臣秀吉)と戦うことができた。
さらに小牧長久手の戦いにおいて、北条氏政は自ら北条軍を率いて家康の加勢に向かう予定だった。
ただしこの援軍計画は、秀吉が東国の反北条連合軍(宇都宮家、佐竹家など)を動かしたので実現しなかった。
小牧長久手の戦いでも酒井忠次は大活躍した。
しかし徳川家の傘下に入っていた信濃の大名たちの離反、徳川家の協力者だった諸勢力の没落、重臣だった石川数正の出奔などから徳川家は秀吉陣営に追い詰められた。
徳川家と北条家は互いを頼みとして決戦の準備を進めた上で、秀吉との交渉を行った。
秀吉は当初は両家と対決して滅ぼそうとしていたが、討伐を諦めて家康を政権に迎え入れた上、北条家の政権参加についても前向きに検討すると伝えてきた。
豊臣、徳川、北条の三者が外交戦を繰り広げていた頃、徳川家康は北条領の伊豆に出向いて北条氏政と会見した。
この会見で家康は北条氏政と意気投合し、その後の宴会は盛り上がった。
北条氏政は同盟交渉と会見実現に尽力した酒井忠次たちを労い、太刀などを与えた。
宴の席で酒井忠次は得意の『海老すくい』を披露し、宴会に参加した両家の人々から絶賛された。
徳川家と北条家は家臣同士も仲良くなり、両家は固い絆で結ばれた。徳川と織田よりも余程仲が良かったようだ。
後に酒井忠次は家康のお供で上洛。酒井家の家督を長男の酒井家次に譲り、自身は京都に留まった。
これは秀吉からの要望だった。
また北条家の政権参加を秀吉が渋りだしたので、家康が北条家の為に動いていた。
酒井忠次の京都移住は単なる隠居ではなく、人質と駐在外交官の役割を兼ねていたとみられる。
徳川家最高の武将である酒井忠次の隠居は、徳川家が秀吉と争う意志は無いことを示す良いアピールになったかもしれない。
<小田原の役>
家康の尽力もあって北条家の従属を認めようとしていた秀吉だったが、1589年から方針を転換して北条征伐の準備を開始。
秀吉の豹変に驚いた北条家は、秀吉から北条家に弁明の機会を与えてくれるようにと、家康に協力を求めた。
北条氏規(北条氏政の弟)は酒井忠次宛ての書状で、秀吉が北条家に送ってくる文書の内容について知っているなら教えてほしいと頼んだ。
酒井忠次は隠居後も豊臣政権との交流に関わっていた可能性が窺える。
ちなみに北条氏規が中身を知ろうとした秀吉からの書状は北条家に対する断交と宣戦布告状であり、秀吉が送り出した使者は不必要な日数を費やして東海道を下った。
使者の到着があまりに遅いため、北条氏規は京都の酒井忠次に問い合わせたのだろう。
1590年、豊臣軍による小田原征伐で北条家は滅亡した。
北条氏政の首は、酒井忠次が暮らす京都に送られて晒し首にされた。
家康は北条領への転封を秀吉から命じられた。かつての同盟者だった織田信雄が秀吉に領地没収されたのを見て、準備のために関東から一旦領地へ戻ることも許されなかった。
酒井忠次は晩年は病気がちになり、三河へ帰ることも関東へ行くこともなく、そのまま京都で亡くなった。
敵地同然の土地に囚われて、悲痛な思いで闘病生活に耐えるだけの日々――――と思いきや、現地で身の回りの世話をしていた女性との間に子供を授かっている。
この時、酒井忠次は60歳をとうに越えていた。
戦国乱世を勝ち抜いた徳川家の大功臣は、色んな意味で家康のお手本だったのかもしれない。
酒井家の家伝では、酒井家と松平家は先祖が同じとされる。
酒井家は三河の有力な国人衆の一つ。酒井家はいくつかの家に分かれて、親族や他の国人衆と争った。松平家より有力だった時期もある。
酒井忠次の酒井家は「左衛門尉家」と呼ばれる。
1527年 三河井田城で誕生。
幼い頃から松平広忠に仕えて、主君の逃亡生活にも付き合った。
1549年 上野端城の戦いに織田方として参加。襲来した今川軍に敗北。
安祥城の戦いで織田軍も敗北すると、忠次は今川家に降伏した。
同年 駿河へ行き、人質に出されていた竹千代(徳川家康)に仕えた。
1560年 桶狭間の戦いに参加。松平軍の先鋒部隊に加わり、織田家の丸根砦を攻め落とす。
戦後、家康が岡崎城で自立することを、忠次は他の家臣たちと共に支持した。
桶狭間の戦いで碓井姫の夫は討死し、碓井姫は未亡人になっていた。 碓井姫は忠次と再婚した。
桶狭間の戦い以降、三河へ侵攻する織田家と戦う。
徳川家と織田家の同盟成立後は、吉良家や今川家に味方する国人衆と戦った。
今川家臣の小原鎮実が徳川家を追い詰めたが、最後は酒井忠次の活躍もあって徳川家が勝利した。
1562年 忠次、徳川軍千人を率いて佐脇城と八幡砦を攻撃。
一度敗北するが、家康と合流して両拠点を攻略した。
1563年 吉良家、三河一向一揆が徳川家と敵対。
忠次は家康に味方し、敵対する酒井忠尚の上野城を牽制した。
同年、今川軍と野戦したが敗北。
1565年 小原鎮実が守る吉田城を、酒井忠次は徳川軍を率いて包囲。
周囲の城を攻略して吉田城を孤立させ、半年後に開城に追い込んだ。
この時、城から退去する今川軍の安全を保証するために、娘の「お風」を人質に出した。
戦後に吉田城主に任命され、さらに今川方の諸城を攻略。
以降、三河東部の国人衆も酒井忠次の指揮下に入った。
1568年 遠江久能城主の久能宗能を調略。
徳川家に降伏した曳馬城の接収を担当。
同年 軍団を率いて家康とは別行動し、浜名湖西岸へ侵攻。
現地の国人衆を味方に付け、境目城を一日で攻め落とす。
小原鎮実が籠る宇連山城を攻撃し、翌年攻め落とす。
1569年 今川軍に逆襲されて苦戦する家康を救援。
合流して掛川城を攻撃し、掛川城を開城させた。
酒井忠次は今川氏真を護衛し、今川主従の安全を保証する人質も自ら務めた。
この件で相模の北条氏政から感謝の手紙を貰った。
1570年 家康に従い近江に出陣、姉川の戦いに参加。
味方の陣形が崩される中、酒井勢は朝倉軍の猛攻を凌いで勝利に貢献した。
1571年 武田軍が三河北部へ侵攻。酒井忠次の与力たちが撃退した。
1572年 武田軍が三河へ侵攻、吉田城まで迫る。
忠次たちは抗戦して武田軍を撃退した。(吉田城の籠城戦は1574年という説あり)
同年 三方ヶ原の戦いに参加。
酒井忠次が率いた軍勢は武田軍を攻め崩したが、戦闘そのものは徳川軍の惨敗に終わった。
1573年 遠江の向笠城を攻め落とす。
転戦して長篠城攻めに参加。
1574年 武田軍が高天神城を包囲。
酒井忠次は吉田城で織田軍と合流し救援に向かうが、間に合わず高天神城は降伏した。
1575年 長篠の戦いに参加。別働隊を率いて武田軍を撃破し、長篠城の救援に成功。
さらに武田軍の陣地を攻撃して勝利に貢献した。
同年 遠江の諏訪原城攻めに参加して攻め落とす。
小山城攻めに参加。撤退する徳川軍の殿軍を務めて、城兵の追撃を防いだ。
以降毎年、遠江東部・駿河侵攻作戦に参加。
同年 本能寺の変があった。
酒井忠次は家康に従い伊賀越えを決行して三河へ帰還。
帰還後、忠次は軍勢を率いて尾張津島へ進軍し、情報収集を行った。
同年 徳川軍を率いて信濃南部へ侵攻し、同地方を掌握。
北上して北条家に味方する諏訪高島城を攻撃。
北条家の大軍が南下するという報せを受けて城攻めを中止し、甲斐へ向かう。
途中で捕捉され、交戦。
北条軍4万に対して徳川軍3千だったが、酒井忠次は殿軍を務めて奮闘し、撤退に成功。
1584年 徳川家は織田信雄から援軍要請を受けた。
酒井忠次は先行して伊勢長島城に入り、織田信雄と会って相談した。
その後、小牧長久手の戦いに参加。
前哨戦となった羽黒の戦いでは、徳川軍の先鋒部隊を率いて羽柴軍を撃破。
最重要拠点の小牧山城を確保した。
羽柴軍との和睦が成立した後も、酒井勢はしばらく尾張に留まり警戒を続けた。
1596年 京都で死去。
1549年 今川家に味方した国人が、織田家に味方したその兄の職権に関して酒井忠次に相談するよう、今川家から指示を受けた。
1552年 岡崎城を統治する奉行衆として、大工たちの身分を保証する。
1557年 浄妙寺へ自治権を認める文書を送った。
同年 今川義元から朱印状を受け取る。
内容は徳川・酒井家とも縁が深い仏堂賢仰院に関する部外者の取り締まり。
1561年 相模の北条氏康から酒井忠次宛てに、徳川家と今川家の和睦を勧める手紙が送られた。
1565年 遠江曳馬城の家老たちが酒井忠次に徳川家へ味方する旨の起請文を送った。
酒井忠次たちは彼らを助けることを約束した。
1568年 武田家の山県昌景、穴山信君と交渉して徳川家・武田家の同盟を成立させた。
1569年 掛川城の開城の件で北条氏政から感謝の手紙を送られた。
その後に徳川家と北条家の同盟が成立し、徳川家は武田家と抗争を始めた。
同年 上杉家の使者と会った。上杉家との同盟交渉か。
1579年 家康の使者として奥平信昌と共に安土城へ行き、織田信長に馬を献上した。
この年、徳川信康が切腹した。
1582年 甲斐善光寺別当の身分と領地を保証する文書を送った。
1583年 家康の娘である督姫の北条家への輿入れを実現させた。
同年 家康の使者として上洛、秀吉に会った。
酒井忠次は従四位下・左衛門督に叙位任官された。
秀吉から屋敷を与えられて、以後は京都で生活した。
1589年 北条氏規から酒井忠次へ手紙が送られた。
豊臣秀吉が北条家に送る予定の文書の内容について、ご存じなら教えてほしいという依頼。
掲示板
25 ななしのよっしん
2018/07/05(木) 20:05:31 ID: Fa1xn1DGLL
石川家成と並んで三河の国人代表だからな
おまけに家康の血の繋がらん伯父だし
26 ななしのよっしん
2018/08/08(水) 06:59:03 ID: 5SCC+YWVYb
27 ななしのよっしん
2022/12/14(水) 10:40:07 ID: 9Lnvv3diLZ
信康の記事に書かれてる、長篠後の織田家への外交姿勢(風下の同盟国なら直臣の方がいい)を
巡る争いに信康が巻き込まれた説を、この記事の忠次は無能どころか有能で全ての泥を被った説と
つなげると面白い。長篠の軍議の逸話は創作だと思うけど、長篠での功績と織田家とのつながりは
強固だったはずで、信康とその近習には忠次に対する一種の期待はあったが裏切られた形に
なったのかもしれない。
長篠戦は過大評価説もあるけど、徳川家とこの人含めたその後の身の振り方については決定的な
ターニングポイントだった。
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最終更新:2025/04/10(木) 20:00
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