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HIDE〜O! HIDE〜O! NOMOが投〜げれば大丈夫♪exit_nicovideo

野茂英雄(のも ひでお、Hideo Nomo1968年8月31日 - )とは、大阪府大阪市港区出身の元プロ野球選手・元メジャーリーガー(投手)である。

概要

OB
野茂英雄
Hideo Nomo
基本情報
日本日本
出身地 大阪府大阪市港区
生年 1968年8月31日
身長
体重
188cm
100kg
選手情報
投球・打撃 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1989年ドラフト1位
引退 2008年
殿堂入り 2014年
経歴
選手歴
プロ野球選手テンプレート

個性的で特異な投球フォーム「トルネード投法」(トルネード)から繰り出す球威と伸びのあるストレート伝家の宝刀フォークボールで緩急を付けて三振を取りにいく本格投手奪三振の多さから「ドクターK」の異名を持つ。

大阪近鉄バファローズに5年、その後は日本人メジャーリーガーとして活躍したパイオニア的存在。現在は、臨時コーチ、自身が設立した社会人野球チーム「NOMO Baseball Club」(NBC)の理事長を勤めている。

野球が本当に大好きで、試合後も野球ゲームで遊ぶほどだったらしい。

トルネード投法

トルネード投法は、両手を頭上高くっ直ぐ伸ばすワインドアップポジションから入り、腿を大きく上げて上半身(特にと軸脚の股関節)を大きく捻りつつバッティングの様に両手をテイクバック、一タメを作ってから利き肩及び利き腕を落とし、オーバースローボールリリースする。

クイックモーションでは、両手を部に置いた状態のセットポジションから入り、両手で小さく山を描きながら利き肩及び利き腕を落とし、腿はあまり高く上げず前方へスライドさせ、は少しだけ捻る(ワインドアップ時と違って背中を見せる程ではない)。この一連の動作はかなり速く、ワインドアップ時よりも制球が良い。球威が落ちて技巧となっていた2008年代には一貫してこのモーションを使用した。

関節の捻りによって筋肉が伸ばされ、その反動により体が前進してリリースポイントが更にホームベース寄りになり、球持ちが良く球威及び球速が増す。下半身が弱いと軸脚の踏んりが足らず体軸と線がぶれて制球が悪くなるため、にでも扱えるフォームというわけではない。

野茂が少年時代、速い球に憧れていて投げたいと思っていた際に、『身体全体を使わないと速くならない』という父親からのアドバイスをきっかけに自分なりに考えた結果、脚を高く上げ若干捻って投げるようになり、中学生及び高校生時代には既にトルネードとも呼べるフォームを使用していたという。後年、当時の成高野球部監督がこのフォームを「投法」(つむじ投法)と名付けている。

球種

経歴

学生~社会人時代

小学校2年生~5年生までの4年間はソフトボールを経験。その後、地肩の強さから軟式野球ピッチャーを始める。

大阪市立港中学校入学、軟式野球部へ入部。3年生の野球部の友人に誘われて近畿大学附属高等学校を含む幾つかの高校野球部セレクションを受けるも全て不合格であった。

大阪府立成工業高等学校入学、硬式野球部へ入部。2年生からエースを務める。1985年7月19日、全高等学校野球選手権大阪大会の2回戦(大阪府立生野高等学校戦)にて完全試合を達成。3年生時ベスト16(5回戦)進出。

高卒業後、社会人野球チーム新日本硬式野球部(新日本株式社建材事業部所の硬式野球部)に入団。勤務先は所ではなく新日化学株式会社新日本子会社)。長く必殺武器としていたフォークボールは、社会人1年に修得したもの。又、トルネードフォームもこの頃に完成した。

社会人2年からエースとして活躍。1988年ソウルオリンピックではチームに貢献し、銀メダルを獲得した。

プロ野球時代

前述のソウルオリンピックでの活躍が評価され、翌1989年ドラフト会議ではセ・パ両リーグ合わせて8球団が1位名(ドラフト名のルール上、高卒社会人名は入団から3年以上の経過を要した)。抽選で名権を得た近鉄バファローズに入団。その時、「投球フォームを変更しない」という野茂からの条項が付け加えられたが、当時の仰木彬監督はあっさりと承諾した。この事で野茂は仰木監督を信頼、尊敬するようになったという。

新人年となる1990年4月10日西武ライオンズ戦で初登板4月29日オリックス戦でプロ勝利(初勝利で17奪三振記録、当時の1試合奪三振日本タイ記録)を飾ると、そのまま、この年の最多勝利最優秀防御率最多奪三振最高勝率パ・リーグ投手四冠を独占。更に、新人王、ベストナインリーグMVP沢村賞パ・リーグ初)も受賞。その後、1993年まで4年連続で最多勝最多奪三振の二冠に座し続けた。

1994年は右肩を痛めたもあり、年間を通して活躍ができなかったが、オフに球団へ複数年契約を要望。しかし、球団側は年俸つり上げのための口実としかとらえず、当時の鈴木啓示監督との確執もあり、任意引退として近鉄を退団。この時に生じた選手保有権は日本国内でしか効がないことを、コミッショナー事務局に確認をとった上で、メジャーリーグへの挑戦を表明した。

メジャーリーグ時代

1995年マイナー契約ロサンゼルス・ドジャースへ入団。5月2日サンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャー登板と初先発を飾り、6月2日ニューヨーク・メッツ戦で初勝利メジャーでも新人王と最多奪三振を獲得するデビュー年となった。

1996年には、コロラド・ロッキーズ戦でノーヒットノーランを達成。

1998年には、日本人で初めてメジャーホームランを打つ。クイズマジックアカデミーにも出るよ!

その後もトレードでチームを転々としながら、2000年にはデトロイト・タイガース開幕投手を務めて勝利2001年4月にはボストン・レッドソックスで自身2度ノーヒットノーランを達成。

2005年6月には、当時デビルレイズと名乗っていたタンパベイ・レイズで日通算200勝を達成するなど、
メジャーリーグで初めて長期にわたって活躍した日本人として世界中の野球ファンに知られるようになり、彼を追って渡する選手も増えた。

しかし、200勝を達成したあたりから、肘の炎症などもして思うような成績もパフォーマンスも残せなくなっていき、2005年7月レイズから戦外と通告される。

2008年4月カンザスシティ・ロイヤルズ登板して以降、メジャー登板する機会はく、7月共同通信インタビューに応える形で引退を表明した。

引退後~現在

日本にて、キャンプの臨時コーチを務める等している。

2003年には、社会人時代に世話になった堺市社会人野球チーム「NOMO Baseball Club」(NBC)を設立し、理事長に就任。アマチュア選手の育成にも注している。

2004年NBC日本野球連盟(JABA)に加盟。2005年には都市対抗野球大会に初出場し、全日クラブ選手権でクラブチーム日本一となった。

2014年に、全米野記者協会での審議を経て、アメリカ野球殿堂補として名前が挙がったが落選。得票数はきわめて低い数であり、翌年以降も資格を保有できる5の得票率にも届かなかった。
しかしその数週間後、日本野球殿堂にて、佐々木主浩秋山幸二らとともに、プレイヤー部門で表されている。

通算投手成績

通算:17年 登板 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率 WHIP
NPB(5年) 139 80 13 78 46 1 0 .629 1051.1 588 1204 413 368 3.15 1.32
MLB(12年) 323 16 9 129 109 0 0 .530 1976.1 908 1918 993 932 4.24 1.35

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最終更新:2023/06/08(木) 07:00

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