OB | |
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鈴木武 | |
基本情報 | |
国籍 | ![]() |
出身地 | 兵庫県西宮市 |
生年月日 | 1932年2月28日 |
没年月日 | 2004年6月27日 |
身長 体重 |
167cm 66kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 内野手 |
プロ入り | 1953年 |
引退 | 1963年 |
経歴 | |
選手歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
鳴尾高等学校に進学。1学年下には中田昌宏が、2学年下には藤尾茂がいた。1951年の春の甲子園大会に出場し、打率.611を記録するなど活躍を見せてチームを準優勝へと導いた。
卒業後、東洋レーヨンに入社。
入団初年度の1953年、2番ショートのレギュラーとして起用されると、新人ながら全試合に出場。打率.274、2本塁打、36打点、40盗塁を記録。
1954年、打率.254,2本塁打、38打点を記録した他、5月の阪急ブレーブス戦では1イニング3盗塁を成功させるなど走りまくり、71盗塁を記録して盗塁王のタイトルを獲得。一方で、なんでも無いような打球でエラーするなど守備面では安定感を欠いて、44失策を記録している。
1955年、毎日オリオンズとの開幕戦で、荒巻厚と交錯した際に右足首を骨折し、シーズンを棒に振ってしまう。
1956年、133試合に出場して、打率.244、17打点を記録したが、故障の影響で走力に陰りが見え、盗塁数は37と大きく減らした。それでもパ・リーグ最多の32犠打を記録するなど、つなぎの役割はこなしていた。
その後は木塚忠助・内藤博文らの加入もあり、出場機会が減少。1957年~1958年はセカンド中心に起用された。
1960年、矢ノ浦国満の台頭もあり二軍でくすぶっていたところ、守備力のある選手を求めていた大洋ホエールズから打診があり、金銭トレードで大洋へ移籍。なお、当時の規定では4月末がトレード期限であったが、三原脩監督が近鉄側やコミッショナーへ掛け合い、特例での移籍が実現したという。
大洋初年度の1960年、シーズン途中加入ながら76試合に出場。打率.210、12盗塁と平凡な成績ではあったが、チーム内で叱られ役を買って出た他、鈴木の加入がチーム内で刺激となり、ポジション争いを強いられた選手たちが発奮し、結果として大洋初優勝に貢献する形となった。その後の日本シリーズでは、要所で盗塁を成功させたり好守備を披露するなど、渋いながらも光る活躍を見せて日本一にも貢献し、日本シリーズ技能賞にも選ばれた。
1961年もショートのレギュラーとして起用されたが、その後は徐々に出番が減少。
2004年6月27日、出血性ショックのため死去。享年72歳。
盗塁能力の高さを武器に活躍した内野手。走力自体は飛び抜けて早いというわけではなかったようだが、動物的カンの良さで盗塁を成功させていたという。
71盗塁を記録した1954年、オールスター終了直後時点で60盗塁を超えていたが、マスコミから「記録にこだわる鈴木」と、まるでスタンドプレーをしているかのように書かれてしまい、以降、盗塁企図数が激減している。
通算:11年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 1131 | 3924 | 3907 | 370 | 875 | 9 | 214 | 246 | 134 | 10 | 157 | 14 | 338 | 66 | .243 | .276 |
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最終更新:2025/04/18(金) 12:00
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