鎌倉武士 蛮族説とは、2010年代以降インターネット上で流布している、鎌倉武士、さらに遡って平安武士が蛮族であるとみなす史観、あるいはインターネットミームである。
一部書籍でも言及されることはあるが、インターネット上のものは創作や捏造、コピペの繰り返しによる情報の劣化、資料の読み違いなどが行われたものも多く含まれており、正確性には欠くことが多い。
天竺・震旦にも、日本我が朝にも、並び無き名将勇士といへども、運命の尽きぬれば力及ばず。
されども名こそ惜しけれ。東国の者どもに弱気見すな。いつの為にか命をば惜しむべき。軍ようせよ、者ども。ただこれのみぞ思ふ事よ
鎌倉武士は長く「武士の理想像」とされてきた。上記の壇ノ浦で最後の戦いに挑む平家の武将の言葉にあるように、鎌倉武士は命を惜しまず名を惜しむとされ、戦国時代・江戸時代から現代まで通じて武士の模範として語られていたのである。
また、北条政子の演説や講談『鉢の木』などで語られる将軍/執権と御家人の御恩と奉公を通じた強い結びつきなどもまた、理想的な主従関係の例として挙げられるだろう。
個人に目を向ければ、源為朝や那須与一のように超人的な武勇のエピソードが残されたものも多い。為朝は日本初の「切腹」を行ったとも伝えられ、のちの武士に大きな影響を与えている。
更に遡った平安武士は妖怪退治の冒険譚の主役ともなり、強大な怪異を討伐したとされる。源頼光の酒呑童子退治や藤原秀郷の大ムカデ退治は特に有名である。これもまた現代にまでおとぎ話や能の題材としても伝えられている。
元寇とは、鎌倉時代に発生した元による日本への侵略戦争であり、近代以前の日本の歴史上数少ない対外戦争である。詳細は「元寇」の記事参照。
古い歴史教科書などでは、正々堂々一騎打ちを願う鎌倉武士は、集団戦法や火薬を使った道具を使う元軍に苦戦し、元寇を退けられたのは神風(=暴風雨)のおかげという解説がされていた。
鎌倉時代の研究が進むと共に、インターネットが普及し情報が共有できるようになると、鎌倉武士や元寇への見方に変化が見られた。
平安時代や鎌倉時代の資料が見直され、その情報がインターネット上に流されるようになると、「理想の武士」だったはずの鎌倉武士の別の姿が見えてきたのである。
また、元寇に関しても見直され、実は鎌倉武士たちはかなりえげつない事をして元軍を撃退しており、神風の影響はほとんどなかったのではないかと言う研究結果が見られるようになった。
これらの新しい説が組み合わさって、語られるようになった「鎌倉武士は蛮族ではないか?」という史観をこの記事では鎌倉武士 蛮族説と呼ぶことにする。
しかし、紛争の解決の方法として相手を殺すことを即座に選ぶ武士たちが作った鎌倉幕府は、まさに蛮族の政権であり、王朝のような知識の蓄積はほとんどなかった。鎌倉武士たちは、支配機構を手探りで作っていったのである。
以下、インターネット上で知られるようになった資料などを紹介する。
あくまでもインターネットではこのように引用されるという例であり、実際の評価とは異なることに注意してほしい。
『男衾三郎絵詞』は鎌倉時代に成立した絵巻物。優雅な暮らしをする兄と、武芸に励む弟の武士の兄弟と、その家族の物語となっている。日本史の教科書にも登場する「笠懸」という弓の鍛錬方法の引用元でもあり、笠懸で画像検索すればこの資料の画像がすぐに出てくるだろう。
そして、この資料では以下のような記述が存在する。
此門外とをらん乞食・修行者めらは、やうある物ぞ、ひきめかぷらにて、かけたて/\おもの射にせよ。
『男衾三郎絵詞』第二段 e国宝『男衾三郎絵詞』
おおざっぱに意訳すると、「庭の草を刈るな。有事の際の、馬の餌だ」「庭の隅に生首を常に絶やすな」「門の外を通った乞食や修行者は、有用だ。鏑矢を射って、馬で追い立て弓を射かけろ」となる。
上の引用は弟・男衾三郎の言葉であり、武士として生きるならばこのように生きろと若者に語っている。さらにこのあとには「武士ならば武芸のみに励め、芸術など戦場では無駄だ」「美しい妻を持った武士は死にやすい」と文化の軽視や結婚観にまで言及している。
元寇に先立ち、元は日本への使者として趙良弼を遣わして日本に降伏を呼びかけている。この降伏勧告は無視されて元寇が発生するのだが、趙良弼は以下のように日本を評して日本への出兵をいさめている。
臣居日本歲餘,睹其民俗,狠勇嗜殺,不知有父子之親、上下之禮。其地多山水,無耕桑之利,得其人不可役,得其地不加富。況舟師渡海,海風無期,禍害莫測。是謂以有用之民力,填無窮之巨壑也,臣謂勿擊便。
臣居日本歲餘,睹其民俗,狠勇嗜殺,不知有父子之親、上下之禮。其地多山水,無耕桑之利,得其人不可役,得其地不加富。況舟師渡海,風濤莫測,是謂以有用之民力。填無窮之巨壑也,臣謂勿擊便。
臣は日本に居ること一年有余、日本の民俗を見たところ、荒々しく獰猛にして殺を嗜み、父子の親(孝行)、上下の礼を知りません。
その地は山水が多く、田畑を耕すのに利がありません。その人(日本人)を得ても役さず、その地を得ても富を加えません。
まして舟師(軍船)が海を渡るには、海風に定期性がなく、禍害を測ることもできません。
これでは有用の民力をもって、無窮の巨壑(底の知れない深い谷)を埋めるようなものです。臣が思うに(日本を)討つことなきが良いでしょう
当時の元の重臣から見ても、日本の民俗は礼にかけ、殺人を良しとしていたように見えたのである。
誰もが日本史の教科書で学んだことがあると思われる日本初の武士の法律「御成敗式目」であるが、この内容がまるで小学校の道徳のようだと評されることがある。以下、現代語訳を抜粋・引用する。
殺すな、悪口を言うな、暴力を振るうな、人妻と不倫するな、農民の妻を奪うな、他人の物を盗むな、とあまりに当たり前の内容が書かれている。
また、この法律の制定に関して製作者の北条泰時は以下のように述べている。
この状は、法令のおしへに違するところなど少々候へども、たとへば律令格式は、まなをしりて候もののために、やがて漢字を見候がごとし。かなばかりをしれるもののためには、まなにむかひ候時は人の目をしいたるがごとくにて候へば、この式目はたゞかなをしれるものの世間におほく候ごとく、あまねく人に心えやすからせむために、武家の人へのはからひのためばかりに候。これによりて、京都の御沙汰、律令のおきて、聊もあらたまるべきにあらず候也。
太字部をおおざっぱに現代語訳すると、「この式目はひらがなしか分からない人が世の中には多いので、そういう人を安心させるために、武士の人のために作ったものですよ」となる。
以前はモンゴル兵にやられっぱなしでたまたま来た暴風雨のせいで辛勝できたと思われていた元寇であるが、その評価は最近覆りつつある。
詳細はやはり「元寇」の記事参照。
元軍相手に鎌倉武士は事前に元寇を察知していた上に、元軍が実際に侵攻してくるとそんな事までするかと言う戦法で対抗した。結果として、元軍を海上に撃退する事に成功し、そこにとどめとしての暴風が吹き荒れたとされるのが最近の説である。
鎌倉武士 蛮族説では、この時の鎌倉武士の行動を取り上げて「鎌倉武士のほうがモンゴルよりも蛮族だ」と評価されることがある。この「蛮族を倒すのはもっと強い蛮族だ」の流れは、古代ローマ時代のフン族>ゲルマン人>ガリア人の例などにも見ることができる。
冒頭にも書いたが、インターネット上で語られるこの説はインターネットで語られるがゆえの様々な問題点が内包されている。何より問題なのが、蛮族説を提唱しているのが不特定多数の人間であることである。そこで語られる内容は査読や検証が行われていない事が多く、書籍や論文では当然あるはずの複数人、あるいは明確な責任を持つ者による内容の保証がされていない。
その結果、日本史をよく知らない物による資料の読み違えや、前後の状況を知らずに一場面をトリミングして見当違いな考察をつけてしまうことや、創作のエピソードを史実と思い込んでしまう事が頻繁に起こってしまう。ついにはインターネット発のデマが事実として広まってしまう事もある。
これらの問題点は実はインターネットがない時代にもあったのだが、近年のSNSの発展によりその拡散速度は飛躍的に伸びてしまっている。
この蛮族説も面白さ優先で語られることが多いので、どこまでが史実でどこからが創作か、しっかり見極めるようにしよう。
ここまであえて触れなかったが、蛮族と断定しているのは誰か。実はここにもこの説の落とし穴がある。
何者かを蛮族視する場合、それを行う文明化された存在があるはずである。この鎌倉武士蛮族説でも当然そうなのだが、実は誰が鎌倉武士を蛮族視しているかはそれぞれの出典により変化している。
一番わかりやすいのが「現代人」からみての蛮族である。これについては誰しもが認めることだろう。鎌倉幕府開府から数えても800年以上の歴史の積み重ねの上で現代の倫理観は育てられてきた。それでいて、現代につながる基本的人権などの考え方ができてからの歴史は非常に短い。そんな現代人から見ては現代的価値観が成立する前の鎌倉時代の武士の倫理観は蛮族思考となってしまう。また、同様に400年の時を経た戦国・江戸時代との比較を現代人が行う際も、その月日が重ねてきた積み重ねの結果、それらと比べて鎌倉の方がより蛮族度が高いという評価が出ることもある。
次に来るのが「当時の中国人・モンゴル人」からみての蛮族である。中華思想を継承していた彼らにとっては日本とは東夷であり、教化すべき対象の蛮族だった。また、実際に当時の日本は法治が行き届いているとはいえず、さらに天皇と言う最高位の存在が家臣に優位を取られるなど、彼らの倫理観では理解が難しい国だった。
最後に来るのが「当時の日本の貴族」からみての蛮族である。武士の始まりは地方に土着した下級貴族だという説もあるが、鎌倉時代ではすでに貴族と武士の意識には格差が生じており、貴族にとっての武士は蛮族だったのである。
つまり、鎌倉武士に関連する存在であれば、どの視点から見ても鎌倉武士を蛮族と呼ぶ余地は存在しており、また、とくに現代人においては時代を超えての不公平な比較さえできてしまう事は注意すべき事だろう。
ちなみに、かなり込み入った話をすると権門体制論と東国王権論という戦後歴史学における論争がある。ざっくり説明すると、いろいろな勢力が並行することで日本という一つの「国家」が成立していたというものと、鎌倉時代に東国にもう一つの国家が誕生したという2つの立場の殴り合いである。こんな論争すでに大昔のカビの生えたものなのだが、このうち東国王権論の伝統に属する論者に一般書を書かせると、特に武士を良くも悪くも特異な存在にしたがるのである。
こうした戦後歴史学の党派抗争や、またほぼ同時期に起こった階級闘争史観による上位権力への抵抗者としての武士、あるいは支配者としての武士といった様々なものの見方のキメラが一般書には往々にして見られることにも注意してほしい。
また、さらにややこしいことが起こる。グローバル・ヒストリーめいた立場からの杉山正明によって進められたモンゴル史の再検討である。彼の功罪は置いておいても、広告塔としてこれまた積極的に一般書を書きたがったがため、モンゴルと敵対した勢力は割と割を食わされているのであり、その一つが鎌倉幕府であった。
まあ、早い話、一般書のろくに定義されていない「鎌倉武士階級」というふわふわした存在が、又聞きの又聞きで名前のない怪物化したのが、こうしたミームの源泉である。
また、現代でこの説が流行る理由の一つとして、蛮族扱いする対象が日本人の先祖という身内であることが挙げられるだろう。
大河ドラマや『信長の野望』に代表されるゲームのように日本の歴史は創作の題材とされ、そこでは多くの侍たちが戦ってきた。そのような作品では強さが重要視され、当然、時には卑怯な手段であろうとも勝利を得ることが至上の目的となる。時に、そこに正義や武士の誉れは影も形も見えなくなる。しかし、ユーザーの多くはそのようなことは気にしない。気にするのは面白いか否かだけである。創作作品においては面白さこそが絶対の正義である。
現代人が800年を超えた昔の鎌倉時代に抱くのは、もはやそのような創作の面白さが主であり、日本にもこのような時代があったのかという遠い時代への慕情のみである。たとえ蛮族という評価が与えられようとも、深く気にする人は少ないだろう。
また、これが他国の歴史だったのであれば、やはりこうは盛り上がらないだろう。あるいは下手に刺激してしまえば国際問題となりかねない。しかし日本国内の歴史で力こそ正義な時代であれば、どれだけ盛ろうと先祖の顕彰である。身内に遠慮はいらないといくらでも書き立てることができる。
知るかそんなこと。
掲示板
484 ななしのよっしん
2024/01/11(木) 15:27:46 ID: Byt6hPhGAR
485 るー ◆I51WMEmWkI
2024/01/20(土) 15:18:07 ID: bR/Fli0+DS
>申し訳ありませんが、付け加えられた動画と記事はこの「鎌倉武士蛮族説」の記事から過去に隔離されたものなので差し戻します。
編集コメントに補足しておきますと、現在の記事の形に至るまでに記事内容の提案や精査があったんです(>>227まで参照)
その過程で反応集の動画は批判され、内容がめちゃくちゃだということまで判明し、それに関することはまとめて動画記事に隔離したんです
なので、この記事にその内容は復活させたくありません
あれこそこの説の悪いところを詰め込んだ動画と動画記事なんです
486 ななしのよっしん
2024/02/01(木) 16:35:11 ID: kq8KHFsw3q
>>480
時代劇はそもそもフィクションだからある程度「事実や史実ではない」って共有される前提があるんじゃね
漫画や小説もだけど、例え視聴者の中に時代劇で描かれたことを史実だと思い込む層がいたとしても
それは「フィクションは事実や史実ではない」という前提を持ってなかった本人の問題で、
時代劇を史実通りに描かなかった製作側の問題ではないというか…
あと時代劇だとどうしても史実に沿ったものをいちいち用意できない、
用意するとコストがかかりすぎるとかの製作事情もあるだろうし
急上昇ワード改
最終更新:2024/03/19(火) 13:00
最終更新:2024/03/19(火) 13:00
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