蒙古襲来を受けて各国の守護が総入れ替えをされたり、非御家人である本所一円地住人に対し鎮西名主職安堵令が出されたりといった戦時体制が構築された。しかし、霜月騒動で安達泰盛が滅び、平頼綱が政権を担うようになってからはある程度ブレーキがかけられるようになったのである。
とはいうものの第三の蒙古襲来がいつ起きるかもわからず、そんな情勢でいちいち訴訟のために六波羅や鎌倉まで来て持ち場を離れられては困る、ということで弘安9年(1286年)設置されたのが鎮西談議所である。少弐経資、大友頼泰、宇都宮通房、渋谷重郷の4人がトップを務め九州の御家人を統率したようだ。
一方で元寇を受け、異国征伐を幕府は3度計画した。弘安4年(1281年)の2度目の際には北条時宗の存命中の唯一のおじである阿蘇時定、正応5年(1292年)の3度目の際には異国打手大将軍として北条時宗の甥・北条兼時と二番引付頭人名越公時の息子・名越時家が派遣されている。このように中央幕政を司る人々の近親者が派遣されて、幕府の意思を直接反映させた軍事行動を行うことが期待されたのだ。
彼ら軍事指揮官としての役割を期待された一方で、前述した鎮西談議所を吸収して訴訟制度も担当していたようである。しかし、永仁3年(1295年)4月に彼らは鎌倉に戻ったようだ。
そして永仁4年(1296年)8月ごろ金沢実政が派遣された。彼には訴訟において最終的な判決を下すことができる、確定判決権が与えられた。これを持って鎮西探題が完全に成立したということになる(軍事指揮官としては前述した北条兼時、名越時家も探題として扱われることもある)。
その後鎮西探題は金沢実政の息子・金沢政顕、阿蘇時定の孫・阿蘇随時、赤橋英時が継いでいき、探題を構成していた少弐氏、大友氏に攻められて滅亡するのである。
後日加筆予定
資料がないので傍証である
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最終更新:2025/04/14(月) 06:00
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